M式二十一箇条 梅崎春生
昨年のいつごろであったか「楢山節考」の評判が高かったころ、某雑誌社のA君がやってきて、M氏の話を聞かせてくれた。以下はA君の話であるが、M氏とは深沢七郎氏の師匠にも当る人で、深沢氏という作家をつくった産みの親とでもいった人物だ。
M氏はまず深沢氏(しろうと時代の)を訓練するに当って、まず本を読むことを厳禁したそうである。つづいてM式二十一箇条という規則があって、これを徹底的に守らせた。守らないとなぐる。そういう訓練に耐えて、やっと作家深沢氏が誕生し、M氏の信念や方法は見事に成功をおさめた。
昨年は深沢氏を生んだが、M氏は同じ方法をもって、ことしはストリッパー作家、明年はオー・ヘンリイ型の短篇作家、明後年は劇作家を一人、文壇に送り込む予定だというのが、A君の説明であった。明後年までのスケジュールが組んであるとは、おどろいた。
私はその時、ほんとかいなという気持がしたが、案外ほんとなのかもしれない。昔日の師弟関係、文壇の徒弟制度は、紅葉、鏡花のように、師匠の家の掃除や水くみ、時には代作などして、その修業の後文壇に出たが、これはまことに前近代的方法で、現代ではもっと合理的修業があるはずである。つまり白井選手を育てたカーン博士のようなやり方で、文壇の旗手を育てる手があるだろう。M氏のことがほんととすれば、さしずめそれに当る。M式二十一箇条というのを、私は知りたい。
つまり二十一箇条訓練で、作家が産出されるほど、現在の小説は質的変化をとげている、ということにもなるか。
[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年一月二十日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「昨年」の後には「(昭和三十二年)」というポイント落ち割注が挿入されているが、これは底本編者が入れたものと断じ、除去した。これを以って底本の随筆群「宇宙線」は終わっている。
「楢山節考」は深沢七郎(大正三(一九一四)年~昭和六二(一九八七)年:山梨県東八代郡石和町(現在の笛吹市石和町)生まれ。勘違いするといけないので言っておくと、梅崎より一つ年上である)が、この二年前の昭和三一(一九五六)年に「第一回中央公論新人賞」に応募し、美事、受賞作となった作品。三島由紀夫らが絶賛、ベストセラーとなった。これ以前の深沢は昭和二九(一九五四)年以降、「桃原青二(ももはらせいじ)」の芸名で日劇ミュージックホールに出演していた(後の「M氏」の注も参照)。
「某雑誌社のA君」不詳。
「M氏」作家で演出家の丸尾長顕(まるおちょうけん 明治三四(一九〇一)年~昭和六一(一九八六)年)。大阪府生まれ。本名は一ノ木長顕(ながあき)。ウィキの「丸尾長顕」によれば、『関西学院高等商業学校卒。宝塚少女歌劇団(現・宝塚歌劇団)の文芸部に所属し、同歌劇団機関誌「歌劇」の編集長も務めた』。昭和三(一九二八)年に「小説芦屋夫人」が『週刊朝日』の『懸賞に当選、作家と舞台演出家をともに行う』。昭和二六(一九五一)年には『日劇ミュージックホールのプロデューサーとなり、踊り子を養成し、ヌードショーを名物にし、芸術的なものにした』とある。彼が深沢の師匠であったというのは、Yumenonokoriga氏のブログ「夢の残り香~日劇ミュージックホールの文学誌」の「久里洋二が見た丸尾長顕と深沢七郎」に拠った(因みに丸尾は谷崎潤一郎に師事していたらしい)。この前後記事(丸尾と深沢の師弟絶縁に至る記事)も非常に興味深い。必見!(言っておくと私は「楢山節考」と「風流夢譚」は評価するが、深沢七郎という「人間」は正直、生理的に嫌いである)。]