あさって会 梅崎春生
十一月十三日に「あさって会」をやるというので、新宿のメイフラワーに出かけて行った。久しぶりの会合である。今回は椎名麟三、武田泰淳、堀田善衛が中国に行くから、その送別の意味もかねた。昔ならかねるどころでなく、送別一本やりのところだが、今は飛行機でしゅーっと行ってしゅーっと戻って来る。君に勧む更に尽せ一杯の酒、西陽関を出づれば故人なからん。ナカランナカラン故人ナカランと、うたう気持にもなれない。便利な世の中になったものだ。
堀田、武田とも元気だし、気づかわれていた椎名麟三も血色がよく、好調の様子であった。あちらは寒くはないかと心配していたが(寒いと心臓にこたえる)、大したことはなかろうということで送別の辞は終り、あとは料理を食べながら酒を飲み、とりとめもない雑談を交し、無事散会した。いつもあさって会は、何となくあつまり、とりとめもない会話で終始してしまう。特別の目的を持った会でないので、それでいいのだろう。
成り立ちからそうだった。あれは昭和三十一年だったか、雑誌「文芸」で三カ月にわたる座談会をひらいた。メンバーは前記三人の他、埴谷堆高、野間宏、中村真一郎、それに私。(私は事情があって最初の会は欠席して、二回目から出た。)「文芸」の方では、最初から三回を予定していたのか、第一回が面白かったので三回に伸ばしたのか、多分後者だと思うが、よく言えば談論風発で、一斉に三人も四人も発言して、速記の人を困らせた。とりとめがないくせに、割に実があって、
「あれは面白い座談会だった」
と、いろんな人に言われた記憶がある。やはり面白かったので、三回に引き伸ばしたのだ。
三回が終って、これから時々あつまろうじゃないかと、誰かが言い出して、皆それに賛成した。三回も続けると、お互いの気心も知れて、まだ話し足りないような気分に、皆がなっていたのだろう。会合をするには、会の名前があった方が便利だというので、色々考えて「あさって会」ときめた。実は名前がなくてもいいようなものだけれど、会合の場所などを予約するのに、個人名より会名の方が押しがきくという利点がある。
あさってとは別に意味はない。明日の次の日のことである。
「あの人の眼は、あさっての方向をむいている」
視線のおかしい人のことを、そう表現することがある。その意味に解されても、別に不都合はない。ただの符牒だと、私は考えている。でも「おととい会」と名付けなかったところを見ると、やほりおれたちの眼は前向きについているという意味はある。
会場は新宿のメイフラワーをよく使う。あまりはやっていないので贔屓(ひいき)にして呉れと、其方面(どの方面だったか忘れた)から申し入れがあり、それでえらんだ。その頃はほんとにはやっていなくて、みすぼらしかったが、この二三年の間に隆々と発展してきれいになり、大食堂も満員の盛況である。地下鉄開通その他で新宿が発展、それに応じてメイフラワーも繁昌(はんじょう)におもむいたのだろう。決して我々が贔屓にしたせいじゃないが、向うでは古いお客なので、サービスにこれ努めて呉れる。居心地がいいし、会員の住所が大体新宿を中心としているので、何かというとここにあつまる。
しかし同じところばかりでは変化に乏しいので、時には遠出する。昨年秋は東京湾にハゼ釣りに行った。東劇下の掘割から船を出し、夢の島のあたりをぐるぐる廻って釣った。これを提案したのは私で、私はもともと釣りが好きである。だから皆にも釣りの醍醐味を体得させようと思ったが、これは成功しなかった。一日かかって一人あたり二十匹平均で、意気が上らなかった。天候が良好でなかったせいもある。夢の島に上陸して、皆並んで長々と立小便して(その情景を私がカメラにおさめ、秘蔵している)船に戻り、てんぷらを食べてウイスキーを飲んだ。私をのぞく六人は、飲み食いには熱心だけれど、釣りには熱心ではなかった。おおむね人事には情熱的で、鳥獣魚介には無関心のようである。(埴谷雄高は小鳥に熱心である)
で、その日は全然むだだったかというと、そうでない。結構それを生かして使っている。たとえば武田泰淳「花と花輪」の書出し。
「東京の黒い河。
昭和三十五年。十月はじめの、ある朝。大劇場と高級ホテルにはさまれた、黒い河のどんづまりは、ことさら黒く見えた」
そこで船に乗って、登場人物の面々が、ハゼ釣りに出かけるのである。今でも、してやられたような気がしないでもない。あの日の勘定は、武田泰淳に持ってもらおうじゃないかと、誰も言い出さないが、書記長の川島勝(講談社勤務)が武田泰淳居住のアパート見学というプランを立て、皆で押しかけて、いろいろ御馳走になった。その席上埴谷雄高がカクテルをつくって、私も飲まされた。複雑なカクテルで、最後の仕上げを粉末ガーリックでやったから、異味異臭をともない、全部はとても飲めなかった。一室にあつまって談論風発もいいが、時には機動的に動いたがいい。今年の秋は簀立(すだ)てを予定していたけれど、うつかりチャンスをうしなって、とうとう行けなかった。動くためには、朝から夜まで、時間をまるまるあけて置かねばならない。それがなかなか調整出来ないのである。今年あたりは、工場やダムなどを見学したいし、また飛行機を一台チャーターして、八丈島に行こうという計画もある。
この雑誌が出る頃、中国行きの三人もそろそろ戻って来る。また皆あつまって、お土産の分配をしたり、向うの様子を聞いたり、という会を開くことになるだろう。どんなお土産(物心両面の)を持ち帰って来るか、私は今からたのしみにしている。
[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年一月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭「十一月十三日」の後には「(昭和三十六年)」とポイント落ちの割注があるが、これは底本全集編者の挿入と断じて、除去した。傍点「ヽ」は太字に代えた。
「君に勧む更に尽せ一杯の酒、西陽関を出づれば故人なからん。ナカランナカラン故人ナカラン」言わずもがな、盛唐の王維の以下の七言絶句の転・結句の引用。別に「渭城曲」、或いは、春生もやらかしているように、結句末を三度畳かけると伝えられる(実際にはその反復法は一定しておらず、これが定式法では実は、ない)ことから「陽関三畳」という題でも呼ばれる。
送元二使安西
渭城朝雨裛輕塵
客舍靑靑柳色新
勸君更盡一杯酒
西出陽關無故人
元二の安西に使(つか)ひするを送る
渭城(ゐじやう)の朝雨(てうう) 輕塵を裛(うるほ)す
客舎(かくしや)靑靑(せいせい) 柳色(りうしよく)新たなり
君に勸む 更に盡くせ 一杯の酒
西のかた 陽關(やうくわん)を出づれば 故人 無からん
「談論風発」話や議論を活発に行うこと。
「東劇」現在の東京都中央区築地に今もある映画館「東京劇場」。高層ビル化された現在、松竹本社が入っている。
『武田泰淳「花と花輪」』本記事の前年、昭和三六(一九六一)年の作品。
「簀立(すだ)て」事前に遠浅の沿岸の海中に簀を立てておき、干潮時に逃げ遅れた魚を捕らえる古式の漁法。「木更津 すだて 網元
つぼや」公式サイト内の「簀立遊びの仕組み」を参照されたい。海岸生物フリークの私だが、残念なことに未体験である。]