アリ地獄 梅崎春生
アリ地獄
私の家の軒下の砂地に、小さなじょうご状の穴が並んでいるのを見つけた。数えてみると、十三ある。十三のアリ地獄が、こうしてアリの通るのを待っているのである。
ところがここらは、あまりアリが歩き廻らない地帯で、十三のアリ地獄は目下のところ開店休業といった状態である。アリ地獄といえども、何か食っていないと、生きてはゆけないだろう。も少しアリがいる地帯に、穴をつくればいいのに、彼らの心事は不可解である。
穴ぼこばかり見ていては何も面白くないので、わざわざ遠くからアリをつまんできて、穴に入れてやる。するとアリは必死になって、はい上ろうとする。ところが砂地だから、しがみついた砂がアリの重さでころがり落ちる。あわてて別の砂にしがみつくが、それもころがるという仕掛けで、なかなかはい出られない。はい出られそうになると、穴の一番底のところで、アリ地獄の奴が鋏か何かでぼこっぼこっと砂を調節するから、たちまちアリはずり落ちて、アリ地獄の餌食になってしまうのだ。
いま問題になっていることの一つに、ぐれん隊がある。ぐれん隊に一度なるとなかなか更生できないものだそうであるが、やはり彼らの世界にもアリ地獄に似た仕掛けがあるのだろう。ぐれん隊といっても、生れた時からぐれん隊というのはいないはずだ。だから個々を補導するより、アリ地獄に似た仕掛けを壊滅させることに、主力をそそぐべきである。
[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年八月八日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「アリ地獄」アリジゴクは昆虫綱内翅上目アミメカゲロウ目ウスバカゲロウ上科ウスバカゲロウ科 Myrmeleontidae に属するウスバカゲロウ類の一部の種の幼虫形態を指す(本科の全ての種の幼虫がアリジゴクを経るわけではないので注意されたい)。体長は凡そ一センチメートルで鎌状の大顎を持ち、乾燥した土を擂鉢状に掘って巣を作り、底に潜んで、落ちたアリ及びダンゴムシ・クモ・各種甲虫類などの節足動物を捕らえて摂餌(体液吸引)する。なお、彼らの捕食用に用いる毒成分は極めて高い毒性を持つことは余り知られていないので、以下に主にウィキの「ウスバカゲロウ」の「アリジゴク」の項から引いて記しておく(一部は私が加筆した)。『このグループの一部の幼虫はアリジゴク(蟻地獄)と呼ばれ、軒下等の風雨を避けられるさらさらした砂地にすり鉢のようなくぼみを作り、その底に住み、迷い落ちてきたアリやダンゴムシ等の地上を歩く小動物に大あごを使って砂を浴びせかけ、すり鉢の中心部に滑り落として捕らえることで有名である。捕らえた獲物には消化液を注入し、体組織を分解した上で口器より吸い取る。この吐き戻し液は獲物に対して毒性を示し、しかも獲物は昆虫病原菌に感染したかのように黒変して致死する。その毒物質は、アリジゴクと共生関係にあるエンテロバクター・アエロゲネス』(真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱腸内細菌目腸内細菌科エンテロバクター属エンテロバクター・アエロゲネス Enterobacter aerogenes:グラム陰性桿菌で土壌や水中に棲息する)『などに由来する。生きているアリジゴクの』嗉嚢(そのう)状器官に『多数の昆虫病原菌が共生しており』、その殺虫活性は、なんと、かの強毒で解毒剤のないフグ毒としてよく知られるテトロドトキシン(tetrodotoxin:TTX:ビブリオ属(真正細菌プロテオバクテリア門γプロテオバクテリア綱ビブリオ目ビブリオ科ビブリオ属 Vibrio)やシュードモナス属(γプロテオバクテリア綱シュードモナス目シュードモナス科シュードモナス属Pseudomonas)などの一部の真正細菌によって生産されるアルカロイド毒。フグの場合は現在では、海中の有毒渦鞭毛藻(アルベオラータ上門渦鞭毛虫門渦鞭毛藻綱 Dinophyceae に属する種の内で有毒物質を産生する種群)などの有毒プランクトンや、ここに示された一部の真正細菌が産生したそれが、フグの摂餌対象となる貝類やヒトデなどの底性生物を通して生物濃縮され、体内に蓄積されたものと考えられている)の百三十倍もあると言われている。但し、主実験はゴキブリを用いたもので、あくまで節足動物に対する毒性であって人に同様に作用するわけではない。アリジゴク咬傷による死亡例は世界のどこからも報告はされていないのでご安心を。『吸い取った後の抜け殻は、再び大あごを使ってすり鉢の外に放り投げる。アリジゴクは、後ろにしか進めないが、初齢幼虫の頃は前進して自ら餌を捉える。また、アリジゴクは肛門を閉ざして糞をせず、成虫になる羽化時に幼虫の間に溜まった糞をする。幼虫は蛹になるとき土中に丸い繭をつくる。羽化後は幼虫時と同様に肉食の食性を示す』。『かつてはウスバカゲロウ類の成虫は水だけを摂取して生きるという説が存在したが、オオウスバカゲロウ』(ウスバカゲロウ科オオウスバカゲロウ属オオウスバカゲロウ
Heoclisis japonica)『など一部の種では肉食の食性が判明している』。『成虫も幼虫時と同じく、消化液の注入により体組織を分解する能力を備えている。ウスバカゲロウの成虫は』真の「かげろう」であるカゲロウ(有翅亜綱旧翅下綱Ephemeropteroidea上目蜉蝣(カゲロウ)目Ephemeropteraのカゲロウ類の『成虫ほど短命ではなく、羽化後二~三週間は生きる』。『一般にはアリジゴクは、羽化時まで糞だけでなく尿も排泄しないということが通説化していたが』、二〇一〇年に『これが覆されたと報道された』。『報道によれば、千葉県袖ヶ浦市在住の小学校』四年生が『アリジゴクの尻から黄色い液体が出ることを発見し、日本昆虫協会に報告した』。一九九八年には『研究者が「糞は排泄しないが尿はする」ことを調べ、尿の成分に関する論文も発表していたが』、多くの人が長年、『確かめようとしなかった昆虫の生理生態を小学生が自力で発見したことが評価され、この研究に対して協会より「夏休み昆虫研究大賞」が』この少年に授与されている。彼は千葉県袖ケ浦市の小学四年生吉岡諒人君(九歳)である。二〇一〇年十一月十日の「アメーバニュース」を参照されたい。なお、真正の「蜉蝣(カゲロウ)」類と、本種群のように「カゲロウ」を名の一部に持つ「真正のカゲロウ」に酷似しているが、種としては全く縁遠い「真正でないカゲロウ」類の昆虫については、私は各所で散々書いてきたので、ここでは省略するが、例えば「生物學講話 丘淺次郎 第十九章 個體の死(4) 三 壽命」の私の注などを参照して戴けると幸いである。
「ぐれん隊」愚連隊。ネット上の「日本語俗語辞書」から引く。『暴力や不正行為を行う不良少年の一団のこと』。『不良になるという意味の「ぐれる」と「連帯」の合成語である。戦後、暴力行為やゆすり、たかりといった不正行為をしていた不良少年の一団で、後にテキヤや博徒と並び、暴力団(ヤクザ)の起源のひとつとな』った。現行では死語に近いと思われる。]