こわいもの 梅崎春生
いまではそうでもないが、私は幼ない時分はたいへん憶病で、幽霊だのばけものだのがひどくおそろしかった。夜は便所に一人では行けなかった。
いまうちの子供たちを見ると、子供の時の私ほどには、幽霊だのばけものだのを、こわがっていないように見える。これはいまの子供が昔の子供より大胆なわけでなく、幽霊をこわがる素地が欠けているからだろう。
昔はいまとくらべて、電燈も暗かったし、暗闇も多かったし、樹木もいまよりもうっそうと茂っていた。ラジオもなければ、もちろんテレビもなかった。人間もいまよりもずっと少なかった。つまり幽霊やばけものが活躍するチャンスが、いまよりもずっと多かった。
私があまり憶病なので、私の父が戦争の話をしてくれた。私の父は日露戦争で満州で戦ったのである。
まっくら闇の中で歩哨に立ったり、あるいは単独で斥候に出されたりした時、何がこわかったと思うか。幽霊だのばけものだのは全然こわくない。万一出て来たとしても、こわいとは決して思わない。こわいのはただひとつ、それは敵なんだよ。敵ほどこわいものはない。
幽霊より敵がこわいというのは、おやじの実感だったのだろうと思う。
いまの東京だって、くらがりを歩く時、幽霊なんかをこわがってはいられない。もっともっとおそろしいものが、どの曲り角から飛び出して来るかわからない。
[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年七月二十五日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠ったが、底本の傍点「ヽ」は太字に代えた。ここで語りの中に登場する梅崎春生の父親梅崎健吉郎は陸軍士官学校十六期出身の歩兵少佐であった昭和六(一九三一)年に定年退職し、麻雀荘を開いたが、恐らくほどなくして脳溢血で倒れ、春生が東京帝国大学学生だった昭和一三(一九三八)年二月、二十三歳の時、父は長らく病床にあったために生じた床ずれから敗血症を起こして死去している。参照した底本別巻の年譜によれば享年五十八とあるから、これが数えならば、父健吉郎の生年は明治一四(一八八一)年となる。日露戦争は明治三七(一九〇四)年二月八日から翌年九月五日までであるから、当時の健吉郎は満二十二から二十四ほどであったと考えられる。]