諸國百物語卷之一 九 京東洞院かたわ車の事
九 京(きやう)東洞院(ひがしのとうゐん)かたわ車(くるま)の事
京東洞院通に、むかし、片輪車と云ふ、ばけ物ありけるが、夜な夜な、下(しも)より上(かみ)へのぼるといふ。日ぐれになれば、みな人、をそれて、往來する事なし。ある人の女ばう、是れを見たくおもひて、ある夜、格子(かうし)のうちより、うかゞひゐければ、あんのごとく、夜半すぎのころ、下より、かたわ車のをと、しけるをみれば、牛もなく人もなきに、車の輪ひとつ、まわり來たるをみれば、人の股(もゝ)の、ひききれたるを、さげてあり。かの女ばう、おどろきおそれければ、かの車、人のやうに物をいふをきけば、
「いかに、それなる女ばう、われをみんよりは内に入りて、なんぢが子を見よ」
と云ふ。女ばう、をそろしくおもひて内にかけ入りみれば、三つになる子を、かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける。女ばう、なげきかなしめども、かへらず。かの車にかけたりし股(もゝ)は、此子が股にてありしと也。女の身とて、あまりに物を見んとする故也。
[やぶちゃん注:知られた妖怪「片輪車」の現存する最古期の記載である。ウィキの「片輪車」より引く。『片輪車(かたわぐるま)は、江戸時代の怪談などの古書に見られる日本の妖怪。炎に包まれた片輪のみの牛車が美女または恐ろしい男を乗せて走り、姿を見たものを祟るとされる』(この後、本解説冒頭に「京都の片輪車」として本「諸国百物語」の「京東洞院かたわ車の事」の梗概が載るが省略する)。「滋賀県の片輪車」の項。寛保年間(一七四一年から一七四三年。本「諸国百物語」は延宝五(一六七七)年四月刊であるから六十四年以上後である)の菊岡沾涼(きくおかせんりょう)の「諸国里人談」に以下の記述がある。寛文年間(一六六一年から一六七二年。この時制自体は本「諸国百物語」の直近前であるのが興味深い。話柄もよく似ているが、怪異譚としてはシンプルにして猟奇的な「諸国百物語」が元であり、ホラーとしても「諸国百物語」に私は軍配を上げる。特に和歌にほだされる妖怪(だから、乗っている妖怪を女に設定したものであろう)なんざ、妖怪の凋落消滅の元凶と存ずる)『近江国(現・滋賀県)甲賀郡のある村で、片輪車が毎晩のように徘徊していた。それを見た者は祟りがあり、そればかりか噂話をしただけでも祟られるとされ、人々は夜には外出を控えて家の戸を固く閉ざしていた。しかしある女が興味本位で、家の戸の隙間から外を覗き見ると、片輪の車に女が乗っており「我見るより我が子を見よ」と告げた。すると家の中にいたはずの女の子供の姿がない。女は嘆き「罪科(つみとが)は我にこそあれ小車のやるかたわかぬ子をばかくしそ」と一首詠んで戸口に貼り付けた。すると次の日の晩に片輪車が現れ、その歌を声高らか詠み上げると「やさしの者かな、さらば子を返すなり。我、人に見えては所にありがたし」と言って子供を返した。片輪車はそのまま姿を消し、人間に姿を見られてしまったがため、その村に姿を現すことは二度となかったという』。『津村淙庵による随筆『譚海』にはこれとまったく同様の妖怪譚があるが、近江ではなく信州(現・長野県)のある村での話とされている』(私は「譚海」の電子化注を行っているが、未だ一巻目で、ここ(「卷の七」)に辿りつくにはまだまだ時間がかかる)。これは「諸国里人談」の『近江の話が信州の話に置き換えられたとも』、『逆にこの信州の話が近江の話として』「諸国里人談」に『採録されたともいわれる』。『江戸時代の妖怪かるた「京の町へ出るかたわ車」の絵札にある片輪車は『諸国百物語』に基づき、男性の姿で描かれている』。それに対し、鳥山石燕の画集「今昔画図続百鬼」のそれは「諸国里人談」の『記述に基いて女性の姿であり、解説文でも』「諸国里人談」を『引用している。また同画集には片輪車に似た妖怪「輪入道」があるが、これは』石燕が「諸国百物語」の方の『片輪車をモデルにして描いたものといわれ、そのことから現代では別々の妖怪とみなされることの多い片輪車と輪入道が、もとは同一のものだったとする説もある』。『近年の妖怪関連の文献や、妖怪の登場する創作作品では「片車輪(かたしゃりん)」と改称されていることがあるが』、『これは妖怪研究家の京極夏彦や多田克己によれば、元の名が差別用語に受け取られる可能性があるためと解釈されている』とある。最後の言い換えぐらい馬鹿げたことはない。やるのなら、文字列を変えずに「へんりんしゃ」と音読みするがよい。妖怪の属性に近代から変更を迫るようなこんなことをしていては、民俗学研究は成り立たない。そもそもが差別用語としての障碍を持った人を指したそれは「片端(かたは)」であって漢字表記も歴史的仮名遣も異なる。一律の言葉狩りによって真の文化が失われてゆく典型的にして致命的な誤った自主コードである。実に不快極まりない。私の謂いに反対する人々は「片手落ち」と書かれた日本中の古文書を全部墨塗りするばかりでなく、歌舞伎役者の台詞の記憶からも抹消、或いはその歌舞伎外題そのものを焚書することに同意せねばならぬ。言葉を狩っても、個々の人々の内なる差別意識を変革しない限り、差別は亡霊の如くに蘇ってくる。たかが妖怪の名、されど妖怪の名、である。【2017年6月27日追記:本日公開した『柴田宵曲 續妖異博物館 「不思議な車」』の注で以上の「諸國里人談」及び「譚海」の当該条を電子化したのでご覧あれ。】
「京東洞院通」平安京の東洞院大路のこと。ヴィジュアルに位置を知らんとせば、ウィキの「東洞院通」を見るに若くはない。その解説には、通り名の「院」とは『上皇・法皇の居所を意味し、平安時代には通り沿いに多くの院があった』(室町頃からは商家が多くなった、と一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注にある)。『江戸時代には竹田街道に通じる幹線道路となり、混雑が激しいことから享保年間』(一七一六年から一七三五年)『には北行き一方通行の規制が行なわれた。一方通行の規制としては日本でもっとも古いものといわれる』とある。おや? 片輪車はこの一方通行を先取りしていた?!
「下(しも)より上(かみ)へ」言わずもがな乍ら、「下」は御所に対しての「下」で南を、「上」は北。東洞院大路を南から北へ。
「あんのごとく」「案の如く」。噂に聞いて予想していたように。
「をと」「音」歴史的仮名遣は誤り。「おと」でよい。
「かの車、人のやうに物をいふをきけば」本来の妖怪片輪車の原型は単に牛車の片輪のようなものに過ぎないものであったに違いない。しかしそれが人語を発するという話柄の都合上、挿絵のように轂(こしき:牛車などの車輪の中央にあって輻(や:車輪の中心部から輪(わ)に向かって放射状に出ている輪を固定する棒)が差し込んである、中を車軸が貫いている箇所)に巨大な顔を描いたのであろう。或いは「諸国里人談」によると思われる烏山石燕の「今昔画図続百鬼」の「片輪車」のように、ぼんやりと現われる女の姿として描くようになったものであろう。真の怪異としては寧ろ、私はただ車輪が転がる、そこから人語が響いてくるのこそが、正統ホラーであると心得る人間である。
「人の股(もゝ)の、ひききれたるを、さげてあり」この映像は、中世ヨーロッパの車裂きの刑(車輪刑:被処刑者の四肢の骨を砕いて晒したり処刑する方法。ウィキの「車裂きの刑」によれば、『車輪に固定して四肢を粉砕するもの、車輪を用いて粉砕するもの、粉砕後に車輪にくくりつけるものなど、地域や時代によって過程に異なるところがあるが、粉砕された被処刑者の肉体(死体)が車輪にくくりつけられて』晒される点では『共通である。車輪を用いるのは、古代に太陽神に供物を捧げる神聖なイメージがあったためとされる』とある)を髣髴とさせる描写であるが、日本ではこの刑は行われていないと思う(言っておくが、本邦で牛を用いて行われたりした、汎世界的な車馬などを用いた人体四裂の死刑である「八つ裂きの刑」とは異なるので注意されたい)。
「かたより股(もゝ)までひきさきて、かた股(もゝ)はいづかたへとりゆきけん、みへずなりける」肩から身体が左右に二つに引き裂かれていて、裂かれた腕(右腕か)と胴(右部分か)は千切れて残っているが、下肢(右足か)がないのであろう。右としたのは挿絵のそれが右足らしいからである。
「女の身とて、あまりに物を見んとする故也」女の身であるのに(断定の助動詞「なり」の連用形に接続助詞「て」で後者を逆接と採る。業(ごう)の深いとされる女の分際であるのに)、程度を越えて無暗やたらに、物の怪を垣間見ようとなどしたからである。現代語訳をされておられる方の中に、この物を対象物の真相と訳しておられる方がいるが、それは現代人の感覚によった誤訳であると私は断じておく。この女が片輪車を見ようとしたのはごく軽薄な興味本位であったのである。だからこそ子が引き裂かれたのである。]