活動写真 梅崎春生
大正年代の福岡市には、映画館は数えるほどしかなかった。中洲に有楽館、コトブキ座、有楽館、バッテン館、名は忘れたがその他一、二館といったていどである。バッテン館はそのころ珍しい洋画専門館だった。
尾上松之助という目玉の大きな役者の時代はすぎ、わたしたちのころは阪東妻三郎や市川百々之助の全盛時代である。月形竜之助、高木新平などもいた。この稿を書くために、当時の博多の映画館やそのだしものについて、評論家の大井広介氏に電話して教えをこうたが、その精密な記憶には舌をまいた。もっとも大井さんは 『ちゃんばら芸術史』というチャンバラ映画にかんする著書があるくらいで、この道における第一人者だ。
当時の映画館は階下は椅子席だったが、二階は畳敷きであった。畳敷きだから座ぶとんが必要で、一枚いくらで座ぶとんを貸してくれる仕組みだったと思う。つまり寄席のスタイルだ。
階下は椅子と言っても一人一人の席が区切られているのではなく、公園のベンチ式で、混んでくると順々送りに詰め込まれ、窮屈なことに相成る。男席と女席と分れていて、いっしょに腰かけてはいけない。暗がりだから痴漢の横行をおそれたのか。
そして見物席の最後方、一段高いところに警官席があり、いつも制服の警官が腰かけてにらみをきかせている。いまの映画館の自由な雰囲気とは大違いで、なんだか看視づきで拝観を願い上げているような趣きがあった。
わたしの級友に毎週土曜の夜映画を見に行くというのがいて、大いにあたしをうらやましがらせた。わたしなどはせいぜい一カ月に一度ていどで、それもねだりにねだったあげくしぶしぶつれて行ってもらえた。後年おふくろの話によると、わたしたちの目をごまかして、おふくろはおばあさんといっしょによく映画見に出かけたものだそうだ。なぜぼくたちをつれて行かなかったのかと冗談に責めたら、
「教育上悪いと思ったから」
との返事だった。
わたしがいちばん見たかったのはチャンバラ映画で、それについでチャップリンやロイドなどの喜劇(日本では喜劇はほとんどつくられていなかった)、西洋の活劇などである。恋愛ものはにがてであった。もっともこどものくせに恋愛ものが大好きなんていうのは困るだろう。
ダグラス・フェアバンクスの『ドンQ』などを見たときの感激も忘れがたい。興奮がうちに帰ってからもつづき、寝床に入ってからも、
「おれもあんな具合に強くなりたいな」
と思うことしきりでよく眠れなかった。いま見れば無声映画ではあるし、たあいない作品だろうと思うが、当時受けた感銘は絶大であった。
あんなに強い感銘は、もう大人になっては味わえない。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十九回目の昭和三六(一九六一)年二月二十一日附『西日本新聞』掲載分。前回の「ごっこ」の「チャンバラ」から「チャンバラ映画」へ。
「中洲」(なかす)は福岡市博多区の、那珂川と博多川に挟まれた中州(中の島)地区。前に注した当時の福日新聞社近くの西中島橋を東北へ渡ったところに当たる。
「バッテン館」「ばってん」は九州に広く分布する逆接の接続詞「(~)だけれど……」で、福岡方言にもある。
「尾上松之助」「目玉の松ちゃん」で知られた二代目尾上松之助(明治八(一八七五)年~大正一五(一九二六)年)は歌舞伎役者・映画俳優・映画監督。本名は中村鶴三(かくぞう)。『日本映画草創期に活躍した時代劇スターであり、日本初の映画スターといわれる。旅役者から牧野省三に認められて映画界に入り、『碁盤忠信
源氏礎』でデビュー。牧野とのコンビで横田商会、日活の』二社で一千本以上の『映画に出演、大きな目玉を向いて見得を切る演技が評判を呼び「目玉の松ちゃん」の愛称で大衆に親しまれた。立川文庫や講談でおなじみの英雄・豪傑・義人・侠客のほとんどに扮しており、トリック撮影を駆使した忍術映画では年少ファンのアイドル的存在となった。後年には、日活大将軍撮影所所長、日活取締役などを兼任して重役スターとなり、公木
之雄(きみき ゆきお)の名で監督作も発表。晩年は社会福祉事業にも貢献した』。詳しい事蹟は以上を引用したウィキの「尾上松之助」を見られたい。
「阪東妻三郎」(明治三四(一九〇一)年~昭和二八(一九五三)年)は私の愛する名優(歌舞伎俳優・映画俳優)である(言わずと知れた俳優田村三兄弟(長男高廣・三男正和・四男亮)の父親でもある)。本名は田村傳吉、サイレント時代には岡山俊太郎名義での監督映画作品がある。『端正な顔立ちと高い演技力を兼ね備えた二枚目俳優として親しまれ、「阪妻(バンツマ)」の愛称で呼ばれた』。『東京府神田区橋本町(現在の東京都千代田区東神田)の田村長五郎という木綿問屋の次男坊として生まれ、神田で育った。小学校を卒業する頃から家業が傾き始める。兄、姉、母が相次いで亡くなり、父親が事業に失敗して破産』した。『尋常小学校高等科を卒業した後、母や姉が常盤津や長唄の芸事に秀でていたことや芝居が好きだったことから「立身出世の早道」を求め』、十六歳で『成績表片手に芝明舟町にあった十五代目市村羽左衛門の邸へ飛び込むが門前払い』。『落ち込んで帰宅する途中、近くの十一代目片岡仁左衛門の邸に思い切って飛び込んでみたところ、伊東という番頭が取り次いでくれて、「まあ遊んでいろ」と仁左衛門の内弟子を許される』。しかし『仕事は雑用ばかりで、しつけは厳しく、雑用の合間に黒衣着で舞台の見学をしながら狂言のノートをとる毎日だった。師匠について大阪中座で「紙子仕立両面鑑」の序幕の仕込みに出たのが初舞台で、セリフはなかった』。大正七(一九一八)年、『二年辛抱するがうだつが上がらず、因襲と家柄優先の歌舞伎の世界に限界を感じ始め、「一日二回、十日替りの芝居ならもっと修行ができる」と結論。金にもなるということから、ちょうど浅草の吾妻座から声がかかり、沢村宗五郎、吾妻市之丞らの一座に入り、「沢村紀千助」を名乗る』。『下っ端なりに役も付くようになったが物にならず、市之丞に連れられて再び歌舞伎座に戻り、師匠の仁左衛門に顔向け出来ぬ苦しみを味わう。こうしたなか、縁あって神田劇場で中村歌扇や尾上菊右衛門と一座することとなる』。大正八(一九一九)年に『国際活映の沢村四郎五郎一派のエキストラに出演』。『伝統や因襲にこだわる芝居道と違う新天地を活動写真界に見出し』、『「阪東藤助」を名乗り、沢村四郎五郎、實川莚十郎に頼みこんで昼は活動写真、夜は劇場と働いた』。大正九(一九二〇)年六月に『松竹キネマ蒲田撮影所が出来ると、實川莚十郎と一緒に松竹キネマに入るが、このとき行動を共にした森要がまもなく退社したため、これに伴って国活に逆戻りするが、まったく無名のまま脇役を過ごす。国活では「阪東要二郎」を名乗』ったが、翌年には『活動写真の現場でも下廻りばかりで面白くなくなり、国活撮影所で同士だった片岡松花、中村吉松を募って撮影所を飛び出し、「阪東妻三郎」を名乗って「東京大歌舞伎 阪東妻三郎一座」の看板を掲げ、「タンカラ芝居」(東京近郊を巡業する村芝居)に出る。演し物は一番目が「ひらがな盛衰記」、二番目が「本朝二十四孝」の御殿で、阪妻は船人松右衛門と武田勝頼を演じた』。『前景気も良く、「阪東妻三郎大一座」は上州辺りを打って廻り、始めは大入り大受けだった』。大正一一(一九二二)年二十二歳の春、仕打ち(舞台での演技・仕草)の『失敗から一座解散。阪妻は単衣物一枚の上に外套を羽織る惨めな有様で、ようやく生家に戻ったものの妹は死んだあとで、兄は病臥していた』。大正一二(一九二三)年二月に『牧野省三が京都にマキノ映画製作所を結成するにあたり、マキノの重役宮川斉が東京に俳優募集に来たところ、阪妻を眼に止める。阪妻は「これで成功しなければ二度と東京の土は踏まぬ」との一大決心で片岡松花、中村吉松と京都入り、マキノ・プロダクションに入社』、『マキノ・プロに月給六十円の大部屋俳優として転がり込んだ阪妻だが、当初、役柄は敵役、脇役が多かった。「御用、御用」の斬られ役で、斬られては顔を変え、幾度も立ち回りにからんだが、顔が立派で柄も大きいため、どんなに変装しても目立ってしまった』。大正一三(一九二四)年の正月映画「火の車お萬」での環歌子(たまきうたこ 明治三四(一九〇一)年~昭和五八(一九八三)年:阪妻を「妻ちゃん」と呼ぶ盟友)との『共演が当たり役となって、「あいつが出ると目立ってしかたがないから役をつけてしまえ」ということになり』、二川文太郎監督の「怪傑鷹」で高木新平(後注参照)の『相手役の「黒木原源太」という悪役に抜擢される。ところが「白面の美剣士が敵役」というので、観客、批評家を驚かし、これが出世の糸口となる』。『続く日活・松之助映画とマキノの初競作『燃ゆる渦巻』(全四篇)で、途中から阪妻演じる駒井相模守の人気が急上昇。第四篇では主役の林清之助が呆気なく死に、阪妻の相模守が主役になってしまった。この作品でマキノは大いに名声を博し、尾上松之助版を圧倒する評判を得た』。『ちょうどたまたま同じ下宿に、浅草ペラゴロ出身の、これも浪人の身の脚本家寿々喜多呂九平がおり、二人は意気投合。同年、阪妻のために呂九平は『鮮血の手型 前・後篇』(沼田紅緑監督)の脚本を書き下ろし、同作は阪妻の第一回主演作となる』。『『鮮血の手型』は、それまでのやたらと見得を斬る歌舞伎スタイルの立ち回りの旧劇と異なり、阪妻の激しい剣戟とリアルな演出が、映画界に革命的な衝撃を与えた。以後、『恐怖の夜叉』、『討たるる者』、『『江戸怪賊伝
影法師 前・後篇』、『墓石が鼾する頃』と、この寿々喜多呂九平と組んだ、阪妻の人気を不動とした作品群が続き、とりわけて虚無的で反逆的な一連の傑作を、浅草オペラ出身のアナキスト、漠与太平門下生の二川文太郎が監督。なかでも』大正一四(一九二五)年の二川文太郎監督「江戸怪賊伝
影法師 前・後篇」は『大好評で、時代劇俳優の第一人者としての地位は決定的なものとなる』。この年、『全国の熱狂的なファンに応え、阪妻は「自由制作」を標榜し』、二十五歳で『阪東妻三郎プロダクションを京都太秦に設立。今東光を顧問に据え、自ら陣頭に立ち、映画製作を開始』した。それ以降の波乱万丈の事蹟はまた、参照引用したウィキの「阪東妻三郎」を見られたいが、何と言っても、彼が主演した昭和一八(一九四三)年公開の大映製作になる監督・稲垣浩/脚本・伊丹万作の「無法松の一生」は絶品である。
「市川百々之助」(もものすけ 明治三九(一九〇六)年~昭和五三(一九七八)年)は歌舞伎役者・映画俳優・映画監督。ウィキの「市川百々之助」によれば、『サイレント映画の時代に「ももちゃん」の愛称で親しまれ、全盛期には阪東妻三郎と人気を二分するチャンバラ俳優であった』『戦後は芸名を百々木直(ももきなお)と』変えている。本名は上田直正。広島県広島市に生まれ。明治四五(一九一一)年に「近江源氏戦陣館(おうみげんじせんじんやかた)」の小四郎で初舞台を踏み、十二歳の時、市川中車の門下となって、「ちんこ芝居」(小青年歌舞伎)の一座を組織し、各地を巡業した。十七歳の大正一一(一九二二)年九月、帝国キネマ演芸小坂撮影所へ入社、同年の中川紫郎監督「異端者の恋」「大江戸の武士」に出演して映画俳優デビューしたが、その直後あたりから、凄まじく人気が上昇、白塗りのメーキャップに派手な殺陣、前髪立ちの小姓に扮し、美男子ぶりを看板にするチャンバラ劇を演じて、大正末期には一番の人気スターとなった。『人気絶頂期には、会社の言うことも監督の言うことも聞かない暴君と化したといわれるが』、昭和五(一九三〇)年頃から『人気が下り坂となり、同年帝キネを退社』、河合映画(後に大都映画に改組)へ移り、自ら主演の剣戟映画を量産している。昭和八(一九三三)年には大都を退社、『日活太秦撮影所に入社』したが、昭和一三(一九三八)年の池田富保監督の「赤垣源蔵」を最後に第二次世界大戦後まで出演記録が途絶える。『当時の読売新聞によると、俳優を引退し、薬屋を営むことにしたという。日活を辞めたあとは女剣劇の一座に加わってしがない旅を続けているうち、いつしか消息を絶ったとも』噂され、『戦後は役らしい役ももらえず、チャンバラのカラミで生きていたとも』されるが、昭和二九(一九五四)年末の東映京都撮影所製作の丸根賛太郎監督・東千代之介主演映画「竜虎八天狗」に『今川蝉阿弥役で出演して映画界に復帰』した。しかし、昭和三六(一九六一)年の工藤栄一監督「八荒流騎隊」の茂兵ヱ役を最後として映画界を去り、事実上、引退した。『晩年は半身不随』となり、『別府温泉で寂しく療養していたといわれる』。生涯に二百本以上の映画に出演したが、その内、百五十本がサイレント映画だったとある。
「月形竜之助」「月形龍之介」(明治三五(一九〇二)年~昭和四五(一九七〇)年)が正しいので注意。本名は門田潔人(もんでんきよと)。ウィキの「月形龍之介」から引く。『戦前から戦後の約半世紀の間時代劇スターとして活躍し、阪東妻三郎、大河内伝次郎、片岡千恵蔵、嵐寛寿郎、市川右太衛門、長谷川一夫とともに「七剣聖」と呼ばれた。戦前期はニヒルな剣士役で人気を得、伊藤大輔監督の『斬人斬馬剣』などの名作に主演した。戦後は渋みと風格のある脇役となり、悪役も演じた。戦後の当たり役は水戸光圀で』、十四本の『シリーズ作品がある。晩年はテレビドラマにも出演。生涯に出演した映画は約』五百『本以上に上る』。『宮城県遠田郡小牛田村(現在の美里町)』生まれ。大正九(一九二〇)年六月に牧野省三が設立した日活関西撮影所俳優養成所に第一期生として入り、「中村東鬼蔵」を芸名とした(養成所仲間には次に出る高木新平がいた)。同年九月公開の尾上松之助主演「仙石権兵衛」での端役が映画デビュー作。、大正一三(一九二四)年半ばに「月形龍之介」に改名している(その後、一時期は「月形陽候」とした)。その後独立プロダクションを二度、設立した後、上昭和一七(一九四二)年四月に大映に入社した。この頃から脇役を演じることが多くなったが、黒澤明監督の「姿三四郎」での敵役檜垣源之助役、稲垣浩監督の「無法松の一生」で侠客結城重蔵を演じ、重厚な演技で場面を引き締めている(私はこの二本と次の「透明人間現わる」の彼が好みである)。戦後は一時期、GHQによってチャンバラ映画が禁止されたことから、現代劇に出演、昭和二四(一九四九)年の安達伸生監督・円谷英二(戦争映画関与でホワイト・パージされていた彼の戦後復帰第一作)特殊撮影になる「透明人間現わる」では『あらゆる物質を透明にしてしまう薬品を開発した科学者という、それまでに経験したことがない役どころを演じており、実年齢より大幅に上まわるこの老け役に、抑えた重みのある演技で謎めいた雰囲気を付加することに成功している』とある。
「高木新平」(明治三五(一九〇二)年~昭和四二(一九六七)年)は俳優・映画監督・映画プロデューサー。初期の芸名は「片岡慶左衛門」「片岡慶三郎」。本名は高木慶吉。身のこなしの軽さから「鳥人」と呼ばれた。参照したウィキの「高木新平」(及びそのリンク先ウィキ)によれば、長野県下諏訪町生まれで神田英語学校卒。大正九(一九二〇)年にマキノ俳優養成所に入り、牧野省三に師事、大正一二(一九二三)年六月より先の初期芸名名義で映画に出演し始めた。東亜キネマ所属であったが、昭和二(一九二七)年に独立して高木新平プロダクションを設立、監督業も行ったが、翌年にはマキノ・プロダクションに入社した。牧野没後の昭和五(一九三〇)年、帝国キネマ演芸に移籍し、その後は宝塚キネマエトナ映画社に移っているが、昭和十年から第二次世界大戦終結までは出演記録がない(戦時中は近衛連隊に所属した)。
戦後、昭和二四(一九四九)年に東横映画に出演して復活、昭和二九(一九五四)年には黒澤明監督の「七人の侍」で野武士集団の頭目役、三年後の同監督の「蜘蛛巣城」に武将役で出演、その後は新東宝の映画に出た後、昭和三六(一九六一)年には再び、黒澤の「用心棒」(丑寅方の子分役)に出演している。昭和三三(一九五八)年のテレビ・ドラマ「月光仮面」では怪獣「マンモスコング」のぬいぐるみを制作、自らこれを着けてマンモスコングを演じている。昭和四一(一九六六)年のNHK大河ドラマ「源義経」の出演(頼朝挙兵を助けた佐々木四兄弟の父佐々木秀義役)が最後か。
「大井広介」(大正元(一九一二)年~昭和五一(一九七六)年)は「大井廣介」が正しい。文芸評論家で野球評論家でもあった。本名は麻生賀一郎(現在の政治家麻生太郎の父親である麻生太賀吉は従弟)。ウィキの「大井廣介」によれば、『福岡県出身。旧制嘉穂中学校卒業。早くに父を喪ったため、伯父から庇護を受ける』。十八歳で東京に出、昭和一四(1939)年には『文芸同人誌『槐』(えんじゅ)を創刊』、翌年に『同誌の誌名を『現代文学』と改め、平野謙や荒正人、佐々木基一、杉山英樹たちを迎えて文芸時評を執筆』、同誌を昭和十年代の代表的『文芸同人誌に育て上げた』。『同誌は戦後の『近代文学』の礎となったが、大井は『近代文学』から距離を置き、党派性を批判して自由人を標榜。イデオロギーを排し、ゴシップ的手法によって社会批判をおこなった』。『異色の野球評論家としても活躍。『週刊ベースボール』に長期にわたってコラムを連載していた』。『また、「近代文学」の仲間は探偵小説好きが多かったが、大井もミステリ好きで、「田島莉茉子」名義でミステリ』「野球殺人事件」(昭和二六(一九五一)年刊行)『を発表したのは、大井と言われている』。また、一九六〇年代には『雑誌「エラリー・クイーンズ・ミステリ・マガジン」にミステリ時評を発表。死後に『紙上殺人現場』として刊行され』ている。ここに出る「ちゃんばら芸術史」は昭和三四(一九五九)年実業之日本社刊。
「ダグラス・フェアバンクスの『ドンQ』」アメリカの名優ダグラス・フェアバンクス(Douglas Fairbanks 一八八三年~一九三九年)主演の“Don Q Son of Zorro”(一九二五年公開)。前年公開された“The Thief of Bagdad”(「バグダッドの盗賊」)に続く、彼の主演映画で、やはり彼の主演で脚本も担当した “The Mark of Zorro”(「奇傑ゾロ」:一九二〇年公開:後にリメイクされて私も小さな頃によく真似をした「怪傑ゾロ」の話である)の後篇と目される作品。「Movie Walker」のこちらでシノプシスが読める。]
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