水泳正科 梅崎春生
水泳正科
わたしの学んだ簀子(すのこ)小学校では、夏になると水泳を正科とした。日本広しといえども、水泳を正科とするような幸福な学校はあまり多くないだろうと思う。あれは体操の時間を水泳にすり替えたのだろうか。もっとも全校生徒でなく六年生だけだったけれども。
教室で着物を脱ぎ水泳の支度をして、行列して黒田別邸の下におもむく。そこで泳ぎの練習をするのである。六年生だから、さすがにフリチン(あまり上品な言葉じゃないが)ということはない。男生徒はふんどし、女生徒は海水着をそれぞれ教室でつける。「福岡県の地理」の俯瞰(ふかん)図によると簀子町、大工町の浜もずっと埋め立てられているようであるが、当時は自然の海岸線だった。学校のすぐ裏まで波打ちぎわが迫っていた。だからわたしたちは裸のまま泳ぎ場まで直行した。
六年生のとき、わたしたちの教室は新校舎にあった。上級学校志望者を集めた男女混合組である。簀子小学校は戦災にあって旧校舎は燃えてしまったらしい。読者の藤原さんという女性からの来信によると、
「いまは旧校舎はなく立派な鉄筋の三階建で、昔の新校舎、講堂がございます。生徒数も増し、いまでは大濠のかまぼこ兵舎を使っているようです」
とあるから新校舎は焼け残ったらしいが、なにしろ建ってから四十年近くになるから、あの建物も相当に古びたことだろう。
わたしたちの時は全校生徒数が八百人だったが、いまでは鉄筋三階のほかにかまぼこ兵舎まで使っているというから、生徒数も相当なものだろう。
わたしたちは男も女も着物を着て登校していた。筒袖に兵児(へこ)帯をしめて袴は着用しない。洋服を着てくる子はほとんどいない。あの学区がほとんど商人町や漁師町から構成されていたせいだろうと思う。わたしも着物で通っていた。洋服のほうが着物より活動的だが、ある点では着物のほうがずっと便利なこともある。海水浴の用意をするときなど洋服だといちいちズボンを脱がねばならぬが、着物だと帯さえとけば前がはだけて、手早く用意がはかどるのである。
で教室で海水浴の用意するときは、皆うれしそうにがやがやしている。だれだって勉強よりも海水浴のほうがうれしい。
女生徒のA子というのがうれしさに手もとが狂ったのか、はらりと腰巻きを落っことした。それっとばかりわれわれ男生徒は目をさらのようにして、とは言い過ぎになるが、目をふだんより少し大きくしてそこらを見きわめようとしたが、瞬間横にいたB子が向うむきのままパッと自分の腰巻きをひろげて、われわれの視線からA子の姿体を遮断した。わたしたちはがっかりした。
われわれ男生徒はその日二々五々帰りながらB子の機敏にして適切な処置に感嘆し、同時にA子の豊麗な下半身を見そこなったことを大いに残念がったのである。
ああ、なつかしい少年の日々よ!
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第三十四回目の昭和三六(一九六一)年二月六日附『西日本新聞』掲載分。前日分「伊崎浜」との連関性を記憶の中の郷里での海水浴の思い出を経て、少年期の性の目覚めを絡めて心地よい。
「水泳正科」教科科目の中に、「体操」(「体育」)ではなく、「水泳」という正課授業が六年生にのみ存在したということである。
「簀子(すのこ)小学校」梅崎春生(大正四(一九一五)年二月十五日福岡県福岡市簀子町(すのこまち)生まれである。私が若い頃から彼に強い親近感を持つのは彼の誕生日が私と同じだからでもある)は大正一〇(一九二一)年に現在の福岡県福岡市中央区大手門にあった福岡市立簀子小学校に入学、昭和二(一九二七)年に卒業し、前に出た福岡県(立)修猷館中学校に入学している。簀子小学校は大正元(一九一二)年に大名尋常高等小学校から分離して開校、当該地に移転、当時は「簀子尋常小学校」が正式名称である。現在は平成二六(二〇一四)年九月に福岡市立舞鶴小学校・福岡市立大名小学校・福岡市立舞鶴中学校と統合し、小中連携の「福岡市立舞鶴小中学校」に変わって百二年の歴史に終止符を打った(ウィキの「福岡市立簀子小学校」に拠る)。「簀子」という地名は、かつてこの附近に内陸に在りながら、潮の満ち引きが判る「簀子石」なるものが存在した(現在は消失)ことに由来するという。山田孝之氏のブログ「Y氏は暇人」の「陸地から潮の満ち引きがわかる簀子(すのこ)石」の考証が詳しく、面白い。必見。
「黒田別邸」福岡県中央区舞鶴(簀子小学校東南角から東へ六百メートルほどの位置)にあった「黑田家濱町(はまのまち)別邸」。旧福岡藩主黒田家が敷地約三千坪の別邸を構えていた。但し、調べる限りでは別邸が作られてそれ自体が機能したのは明治維新以後のようで、「福岡市中央区」公式サイト内の「黒田家別邸跡碑」によれば、『別邸は大正になって大修築が行われ』、『福岡城内の門や櫓もいくつか敷地内に移されて、豪壮な構えを見せてい』たが、昭和二〇(一九四五)年の福岡大空襲(後注参照)で『消失してしま』った、とある。この濱町も以下の簀子町や大工町と同様、『の北側が海岸で、美しい砂浜が続いていたことからその名が付』いたが、やはり内陸化してしまい、『現在、昔の砂浜には那の津通り』(なのつどおり)が走っている、とある。
「簀子町」福岡城跡北直近の現在の福岡県福岡市中央区大手門三丁目附近。簀子地区として名が残る。前注した通り、ここで春生は生まれた。
「大工町」現在の福岡市中央区大手門二丁目附近(簀子町の東。その東には魚町・浜町と続いた)。当時の地図を見ると、孰れの町も北は海に接している。梅崎春生の言う通り、現在は埋め立てによって内陸化してしまっている。
「簀子小学校は戦災にあって旧校舎は燃えてしまったらしい」恐らくは昭和二〇(一九四五)年六月十九日から翌六月二十日にアメリカ軍によって行われた福岡県福岡市市街地を標的とした福岡大空襲によるものと思われる。これにより、千人以上が死亡・行方不明となっているが、ウィキの「福岡大空襲」に『戦後の調査によれば、市内でもとりわけ奈良屋・冷泉・大浜・大名・簀子の5校区の被害が激しく、死傷者の9割を占め、簀子校区は2軒を残して全ての家屋が全焼する』『など、あたり一帯は瓦礫ばかりの焼け野原と化した』とあるからである(下線やぶちゃん)。
「大濠のかまぼこ兵舎」現在の中央区大濠(おおほり)の大濠公園内児童公園附近(福岡城跡の西直近の大濠池の西岸)にあったGHQの兵舎。福岡市博物館のアーカイブズのこちらで昭和三〇(一九五五)年撮影の写真が見られる。]
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