日記のこと 梅崎春生
昭和十九年五月召集令状が来たとき、日時が切迫していたので、持ち物を整理する余裕もなく、そのほとんどをHという友人に預けて出発した。終戦後復員、その年の十月に上京してみると、Hの行方が判らない。さんざん苦労して、やっと川崎市のはずれの稲田堤の農家の二階にいるのを探しあてた。で、私もその二階に居候になってころがりこみ、三カ月ばかりそこで暮した。この頃の生活のことは「飢えの季節」という小説にも書いたが、毎日毎日が空腹の連続で、ことに階下の百姓一家は鬼の牙のような白飯をたらふく食べているのだから、とてもやり切れた生活ではなかった。
しかしここでは空腹のことを書くのが目的でなく、荷物のことなのだが、Hもいろんな事情で住居を転々とした関係上、私の荷物もHの友人たちに分散されていて、布団だの衣類だのの生活必需品は一応戻ったが、書籍その他は大体焼けてしまったらしい。この方はほとんどと言っていいほど戻って来なかった。
その戻ってこない物品の中で、私は今でも痛惜にたえない品物が一つある。それは昭和七年以来書きためた日記帳のことだ。
私はもともと几帳面(きちょうめん)な性分でなく、毎日毎日はきちんと日記をつけるたちではない。気まぐれなつけ方で何も書かないのが半年もつづくと思えば今度はやけに詳しく、一日分を十数頁にわたって書いたりする。昭和七年高等学校入学当初から昭和十九年までだから大型ノートとか自由日記とりまぜて十数冊はあったと思う。Hはその日記類だけとりまとめて、Aという女友達に保管を託した。A女は終戦時まで確実にその日記類を保管していた。戦災は蒙(こうむ)らなかったわけだ。
そこで私は上京後直ぐA女に連絡して、それを返還してもらえばよかったのだが、なにしろ時勢が時勢で、昔の日記どころのさわぎでない。生きるため食うためにじたばたせねばならぬ時代だから、ついそのまま放っておいた。それが悪かった。
そして私がA女(未だ会ったことがない)に連絡の手紙を出したのは、翌年の春のことだ。そのA女の返事は私をすっかりがっかりさせ、またむしゃくしゃさせた。A女は私の日記をとりまとめて、二カ月ほど前屑屋に売ってしまったというのだ。
焼けたら焼けたであきらめがつくが、屑屋とはあきらめ切れない。あんなものは、書いた当人にとっては絶大の価値があるが、他人にはいささかのねうちもないだろう。屑屋だってそれを紙屑並みの目方で買って行ったにちがいない。
それにその後文筆を業とするようになって、昔のことを書くような場合も出てくる。そんな場合、私はあまり記憶力がいい方ではないから、あの日記帳が残っていたら、と思うことがしばしばだ。あの日記帳や大型ノートには単に日常の記録のみならず、小説の習作みたいなのも書いてあった筈だし、まことに痛恨極まりない。
そういう関係上私はがっかりして戦後はしばらく日記をつける気にもならなかったが、近頃またすこしずつ書く習慣をつけてきた。近頃のは自由日記ではなく、毎日毎日が一頁におさまる当用日記というやつで、これは主情的な記述は全然入れず、人の来往、食事のおかずのことまで、簡単に書き入れる。
誰にも経験があることと思うが、日記というやつはそういうやり方の方が長つづきするものだ。
そしてそんな簡単な記述でも、文字として残しておく限り、何年経ってもその日のことを想い出すめどとなる。人間の記録などというものは、堆積(たいせき)する雑多の日常におしつぶされて空々漠々としているが、それでも何かめどなりヒントなりがあれば、割にあざやかに過去を再現出来るものだ。やはり生きてきた過去を記憶の彼方に押し流してしまうのは、私にとってはやり切れない気がする。
といって、私はここで別に日記の効用を説く心算は全然ない。私の場合をただ書いてみただけである。
[やぶちゃん注:初出誌未詳。昭和二九(一九五四)年二月の執筆クレジットを持ち(推定)、昭和三二(一九五七)年一月現代社刊の単行本「馬のあくび」に所収(書誌は以下の底本解題の複数記載を参照した)。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。ここに記された内容では、昭和七(一九三二)年から昭和一九(一九四四)年までの梅崎春生の日記は完全に消失したかのように読めるが、底本の解題によれば、昭和七・八・九・十年度分の日記が一冊の厚表紙ノートに記載されたものが残っており、また昭和十一・十四・十六・十八年(昭和十二・十三・十五が欠損か)がそれぞれ「当用日記」記載で残っており、昭和十九・二十・二十一・二十二年度分は一冊の大学ノートに合わせて記入したものが残っているとある(但し、同底本全集本文にはそれらから抄録されたそれが載っているだけである)から、どうもおかしい。ここで語ったものとは別に記した日記が、どこかに保存されて残っていたと考えるしかない。
「H」底本全集の別巻の年譜によれば、『川崎の稲田登戸の友人、波多江』とある。
「飢えの季節」昭和二三(一九四八)年一月号『文壇』初出。]