環状七号線 梅崎春生
私が世田谷から練馬に引越して来たのは、昭和三十年。今から十年前になる。練馬区の建売住宅に当選したのだ。その後ずいぶん建増ししたので、当時の面影はないが、それでも毎月、区に償還金を払っている。今は月に五千円ぐらいのものか。十八年年賦なので、あと八年経つと、土地も建物も私のものになる。
引越した当時は、周囲には田や畠や林があり、小鳥も飛んでいた。近くに茫漠とした広くて長い空地があって、黄土でもっておおわれ、風が吹くと黄塵(こうじん)を巻き上げ、うちの洗濯物を黄色にした。一体何のためにこんな迷惑な地帯があるのかと、土地の人に訊ねてみると、元はそこは畠だったが、国に買い占められ、そのうちに道路になる予定だという。道路になるのはいいが、黄塵のまま放って置くのが、気に食わなかった。
その状態が六七年ぐらいつづいた。その間の迷惑はすくなくなかった。ちょいと風が吹くと、障子やガラス扉のすき聞から、黄塵の微粒子が部屋内に忍び込み、部屋や廊下をざらざらにする。一日に二度掃除してもおっつかない。私はその黄土地帯を憎んだ。
それから工事が始まり、環状七号線ということになる。
ふつうの道路造りと違って、相当大規模な道なので工事も大がかりで、たいへんうるさい。一帯はしばらく音の修羅場となった。どしんどしんという土固めや、時には大型ドリルのような音さえ混る。昭和三十六七年頃、私の小説製造が不振だったのは、半分はこの音のせいである。しかも末期時代には、とうとう突貫工事となり、夜も眠れなくなった。冬の間は雨戸やガラス戸でふせげたが、夏になると開け放しなので、ことに音と響きが体にこたえる。蓼科(たてしな)に山荘をこしらえ、夏場は逃げ出さざるを得なくなった。
やっと完成。完成といってもここだけのちょん切れ完成で、あまり車の交通もなく、うるさくなかった。しかし一昨年、全線完通に及んだら、俄然(がぜん)交通量が激増して、昼間だけでなく、夜通しダンプカーがぶっ飛ばす。その度に家が揺れ、眼が覚める。
環七と私の十年の苦闘の歴史は以上の如くだが、副産物もある。大道路であるから、ガソリンスタンドや修理工場があちこちに出来る。近頃私の近くの曲り角に「ダンロップタイヤ」と看板をかかげた事務所が出来た。これが車の売り買いや、下取りなどもするらしく、駐車場がないので、横町の私の家の前に、車をずらずらと置き放しにする。おかげで道が狭くなり、夜なんかタクシーが入って呉れない。狭くて入れないというのだ。何ということだろう。
環七の完成によって、地価は上った。私が住みついた頃は区有地で、坪八百円に査定されていた。今は坪二三十万なんて称されている。その点私は得をしたように見えるが、それは売りに出した場合であって、持っている分には固定資産税が値上りになるばかりで、一向に得にならない。私は環七から損害を受け放しである。
今度いずれ「環状七号繰」という長篇を書き、元を取ってやりたいと思っている。主人公はもちろん環七である。
[やぶちゃん注:昭和四〇(一九六五)年六月号『風景』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。「環状七号繰」への鬱憤は先に電子化した梅崎春生の「税金払って腹が立つ」(『週刊現代』連載「うんとか すんとか」第四十八回目の昭和三六(一九六一)年三月十九日号掲載分)も参照されたい。いろいろと将来的なことを梅崎春生は述べているのであるが、彼はこの翌月の七月十九日午後四時五分、肝硬変のために満五十歳で白玉楼中の人となってしまうのであった。なお、底本の「エッセイⅣ」パートはこれを以って終わっている。]