交友について 梅崎春生
先日、高等学校の友達四人があつまって酒を飲んだ。高校と言っても、今のシステムでなく、旧制のだから、年齢的にはすこし上になる。私は十七歳で入学した。私のクラスは文学好きが多くて、級友の十人ぐらいが相談して、同人雑誌を出すことになった。三号まで出したと思う。四人(H、M、S、それに私)はその同人誌の残党で、現在在京しているのは、この四人だけだ。あとは戦死、病死したり、自殺したり、地方にとどまったり、行方の知れないのもいる。それを思うと、昔の仲間なんかはかないものだ。
飲んだ場所は銀座。Hが選んだ。Hは東芝に勤めていて、銀座にくわしい。
久しぶりに会うと、皆それぞれの形で老けている。なぜあつまったかというと、Mが九州の竹田から上京して来たからだ。彼は東大英文を卒業後、勤めることはせず、家業をついで、造り酒屋の旦那になっている。今度息子が東京の大学を受験するというので、息子につきそって東京にやって来た。もうそんな息子があるのかとおどろくが、おどろく私にしても、鬢髪(びんぱつ)に若干白いものが交っているのだから、おどろく資格はない。
銀座のその店は、話し合うのにうるさ過ぎた。座を変えようと言うので、本郷に行き、「松好」という飲屋に行った。戦前からあった店で、さすがにここは静かである。そこでいろいろ話し合ったが、ふと気がついてみると、昔の話ばかりしている。
「なんだ。おれたちは昔話ばかりしているじゃないか」
と私が言ったら、皆同感した。誰かが言った。
「昔の話する以外に、話がないじゃないか」
前記の三人は、学生時代の友人としては、私はもっとも親しい。その親友たちとも、前向きの話題でなく、回顧談一本槍になるというのが、何かわびしい気持がした。
小学校時代の親友と、仕事の上では別の道を歩きながら、終生相変らぬ友情と交渉を保ち続けている例が、時にはある。しかし現代のように、変転が烈しい時代には、まれと言うべきではないだろうか。私(現在四十七歳)も小学校時代の友達と、今つき合っているのは一人もいない。同窓会も開かれていないようである。交友が成立するためには、ある程度の共通の基盤が必要である。同じ小学校に学んだということだけでは、薄弱である。おそらく同窓会が開かれたとしても、もう誰がそれであるかは、弁別出来ないだろう。やっと思い出したとしても、話は小学校時代のいたずらや先生のことなど、すべで後向きの話題に終始するだろう。
でも、子供時代に返ったような気持になって、
「ああ、愉快だった」
と一夜の歓を尽し、それで四方に別れ去るだろう。六年間の友情は、数十年経つと、一夜の歓で終るのだ。それは過去の交友であって、現在の交友ではない。
もっとも昔の友達がなつかしいという感情には、個人差があるらしい。テレビの「私の秘密」という番組に、御対面というのがある。あれで昔の友達が出て来る。ひどくなつかしそうに、手を取り合って、
「おお、君だったのか。すっかり見違えて」
と感激する型もあれば、ああ、君か、とひどく冷淡なのもいる。観ている側からすれば、もちろん前者の方が好ましいが、私自身をかえりみると、どちらかというと後者に近い。現在にかかわりないことには、あまり興味を持てないのである。まだ後向きの姿勢になりたくない気持もある。これが普通の現代人の感情じゃないだろうか。
それと同じ意味で、私は戦友との交際はひとつもない。近頃読者の連絡欄みたいなものが、各新聞に新設されたが、あの中に「何々部隊の人に告ぐ。会合を開きたいから連結して下さい」というような文句がよく出ている。あつまって苦労の当時をしのぼうという趣向だろう。あれから十七年も経つし、生活も安定したし、その気持はよく判る。
私も一年半ばかり海軍に召集された。応召の下級兵士としてである。血気盛んな兵長や下士官にぎりぎりとしぼり上げられた。その当時我々(いっしょに応召して来た)はたいへん仲が良かった。さまざまの職業や経歴の人たちがあつまっていたが、軍隊に入ったとたんに、そういう条件はすっぽりと剝脱され、兵士という一単位になってしまう。同じ釜の飯を食い、同じ訓話を受け、同じような制裁を受ける。親愛の情がそこに湧かないわけがない。
「一度でいいから畳の上で、ちゃんとした蒲団にくるまって寝たい」
海軍で寝るところはハンモックだから、そんな嘆きが出て来る。私たちに共通した嘆きであった。しかし、そんな時でも私は、
「これは友情というものじゃない。被害者同士の連帯感だ。つまり奴隷(どれい)の友情に過ぎないのだ」
という思いが、いつも胸から去らなかった。で、昭和二十年初秋に復員、それから戦友に会いもしないし、文通することもない。お互いに被害者の身分を解き放たれて、自由な生活に戻ると、共通感はとたんに解消してしまうのである。特に私たちは当時三十前後の、兵隊としては老兵で、皆ちゃんとした職業を持っている。復員してしまうと、心の通いようがないのだ。つまり彼等は、私の心の中で生きているだけで、現実に相わたることがない。交友というものは、現実に相わたるものがある時、初めて成立するものであって、死んだ過去のつながりは条件として成立しないように思う。
いい友人を持つということは、その人の一生の幸不幸を決定する、なんて言葉もあるけれど、どうもそれは疑わしい。所詮人間は孤独なものであるし、よき友達が出来るのも、偶然がそれを決定する。というと、私にはよき友人がいないように響くかも知れないが、私は割に友人運に恵まれていたような気がする。学校時代には級友、卒業して勤めると職場の友人、という具合に、たすけたりたすけられたりして、今日までやって来た。やって来たつもりである。
与謝野鉄幹にこんな詩がある。
妻をめとらば才たけて
顔(みめ)うるわしくなさけある
友をえらばば書を読んで
六分の侠気四分の熱
明治ののんびりした空気が感じられるが、そんな都合のいい女房や友人が、おいそれと見つかるものでない。鉄幹子はこれを現実としてでなく、理想のものとして歌い上げたものだろう。私個人の好みからすれば、六分の侠気四分の熱、などを持った男と、あまり友人になりたくない。親分風を吹かせてがらがらしたような男が眼に浮んで来る。
友情なんてものは、誤解の上に成り立つのではないか。そんなことを私は考えたことがある。高等学校最後の一年、私は素人(しろうと)下宿にいた。止宿人は四人。皆仲よくやっていた。その中にKという私の下級生がいた。私が卒業して上京、ある日校友会雑誌が送られて来た。見るとKがそれに小説を発表している。私はそれを読んでおどろいた。私がモデルになっているのである。私という人間を、徹底的にやっつけてあるのだ。書いてある条件や環境は、そっくり事実だが、Kの受け取り方が違う。私が好意でやったり、しゃべったりしたことを、Kは私の悪意からの所業だという風に書いてあるのである。おどろくというより、愕然としたと言った方が正しい。
「ああ、Kのやつは、そんなことを考えていたのか」
それを見抜けなかった私の人の好さもあるだろう。でも、人間は本質的に他人を理解出来ないものだ。その思いが強く私に迫って、その考えは今でもそう変らない。人間は自分のことだってよく判らない。まして他人のことなど、判りっこはないのである。
それと逆の場合が、交友だの恋愛だのに起るらしい。惚れて通えばあばたも笑くぼ。そういう風なものだ。人間はすべてのことを、大体自分の都合りいいように解釈するものである。(都合の悪い方に解釈するようになると、その人はノイローゼという病名を与えられる。)友情だってその例外ではない。おれとあいつは無二の親友だ、と考えることは、誤解であり、さもなくば誇張された悲壮感である。私は信用しない。
と言えば、みもふたもない。が、根本的にそんな自覚があれば、重大な破局に際し、おれはあいつに裏切られたと、怒ったり嘆いたりすることはないだろう。
先ほど交友というものは、ある程度の共通の地盤がないと成立しないと書いたが、あまり共通し過ぎると、かえって成立しない。友達というより、競争相手としてあらわれるからだ。ことに現在は、小さな島に一億もの人間がひしめき合っている。人を蹴落さねば、自分の存立があぶない。虎視耽々(たんたん)としてそのチャンスをねらっている、という事情が成立しかかっている。その点で言うと、子供時代の交友が一番純粋で、大人のそれはさまざまのニュアンスや陰翳(いんえい)を含んでいる。
交友について書けと言われて、書いている中に妙にペシミスティックになってしまった。私の考え方は偏していて、おそらく一般的でないだろう。だからこの文章は読み捨てて、新しくいい友人を持ちなさい。人間の一生がかけがえがないのと同時に、良い友達もまたかけがえがないものだ。
[やぶちゃん注:昭和三七(一九六二)年六月刊の『電信電話』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。
「妻をめとらば才たけて/顔(みめ)うるわしくなさけある/友をえらばば書を読んで/六分の侠気四分の熱」與謝野鐡幹の明治『三十年八月京城に於て作る』(明治三十年は西暦一八九七年)の添え題を持つ「人を戀ふる歌」の第一連。こちらで全篇が読める。
「私が卒業して上京、ある日校友会雑誌が送られて来た。見るとKがそれに小説を発表している。私はそれを読んでおどろいた。私がモデルになっているのである」熊本第五高等学校の学校誌「龍南会雑誌」しかないが、「熊本大学附属図書館」公式サイトのこちらで閲覧出来る。梅崎春生卒業前後に欠本は、ない。私は、或いはこれか? と感じる一篇を見つけたが、自信はない。興味のあられる方は、どうぞお探しあれ。]