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2016/08/10

宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 盜賊、歌に和ぐ

 

    盜賊(たうぞく)歌(うた)に和(やはら)ぐTouzokuutaniywaragu

一とせ上總の國千草(ぐさ)の濱をたどりて、人里を求めんとするに、遠方(をちかた)の葛(くづ)やに煙りのほそくなびくをしるべに、そことなく步む向ふより、むくつけき大のをとこの、色黑く、眼(まなこ)竪(たつ)に切れたるやうなるが、右の手にかたなをぬきながら、會釋もなく近づきよつて、いかに、坊主、酒代(さかで)よこせ、と、いふ。我れは見え侍るまゝの修行者、野に臥し、山を家居(いへゐ)とすれば、人の情(んさけ)に世をわたる乞食の類ひに侍り、身において一物(いつもつ)のたくはへなし、と、いへば、既に衣あり、衣類あり、帶有り、笠あり、油簞(ゆたん)あり。のこらず、わたし通るべし。命計りはたすけなん、と、いふ。扨は赤裸(あかはだか)にてとをれとな、此の上は力なし、我れ、いなむ程ならば、忽ち命をとられなん。予、草庵を出しより、命を風に任せ、身を雲によせて、ありとおもはず、何ぞ名利(みやうり)の爲めにかざる衣服、惜しむ事あらん、と、一衣より始めて、悉く脱ぎ與へて、特鼻褌(とくびこん)計りに成り、誠、增賀聖(ぞうがひじり)の、名利を捨てゝ、赤はだかに成りて都へ歸り上り給ひし、かくや在りけん。さらば通りなん、といへば、賊、猶、あかずや在けん、宗祇の鬚(ひげ)の長く一つかね計りありしを、しとど取りて、法師に似あはぬ鬚顏(ひげづら)、悉く根をぬきて渡せ、箒に結うてつかはんに、嘸(さぞ)つよかん物を、と、いふ。祇は天性(てんしやう)ひげを愛し、一生剃らず、香(かう)をとむるに、ひげにとゞまりて、かをり不絶(たえず)とて、扨なん鬚(ひげ)を愛しぬ。今、此の賊(ぬすびと)に赤裸になされたる事は、露(つゆ)悔ゆる事なくて、鬚をとらんといふにぞ、胸つぶれける。盜人、猶、いらでゝ、早くぬき渡せ、箒(はゝき)にせんと責めけるほどに、

  我が爲に箒計りはゆるせかし

       ちりのうき世を捨てはつる迄

と答へければ、左計(さばか)りおそろしきあらゑびすも、和歌の情(なさけ)は、しる事にこそ、手を打ちて、うい事、申されたり。この體のやさ法師に、何の惡(にく)き所ありて、筋なき物を取るべきと、始めとりたる衣服、返しあたへ、あまつさへ、此の行衞、尚、我がごときの情(なさけ)なき者、出で來べき事、治定也。里ぢかく送り參らせんと、先に立ちて行くに、げにもいひしにたがはず、二、三人、四、五人、山賊どものつれ行くに、二むれ迄、逢ひぬ。され共、此の男の案内(あんない)するを見て、指(ゆび)さすものもなく、本道に出で、賊は暇乞(いとまご)ひて歸る。猛きものゝふの心をも和(やはら)ぐといひし、宜(むべ)なるかな、此の歌、なかりせば、鬚は跡なく、ぬかれ、衣服はもとより返すまじ、行先にてあぶれものゝ刃(やいば)にかけて、命を失ひ、身を損ずる事も有りなんに、神明佛陀(しんめいぶつだ)の感應(かんおう)ある此の道なれば、影にそひて守り給ふにこそ、と有りがたく思ひ侍る。

 

■やぶちゃん注

 最初の方の「右の手にかたなをぬきながら」「ぬきながら」は底本では「ぬぎながら」、男が鬚をせっつく、歌の直前の「早くぬき渡せ」も「早くぬぎ渡せ」となっているのであるが、「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)ではいずれも「ぬき」と清音であり、その方が自然であるので、特異的に訂した。なお、挿絵は今回は「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)のそれを用いた。

・「上總の國千草(ぐさ)の濱」千葉県の南部で東京湾に面した現在の富津(ふっつ)市の下洲(したず)にある千種(ちぐさ)浜と思われる。サイト「グリーンネットふっつ」の「伝統の美学 千種浜地区」に以下のようにある。

   《引用開始》

 下洲・千種浜は室町時代の廻国雑記、歌集未木集などに歌の名所(歌の題材になる場所)として記録され全国的に名が通るようになりました。千種浜の中で場所が特定しにくいのですが「桜井の浜」というところも紹介されていて、浜と同じ名前の桜貝が採れるという趣旨の記事が廻国雑記に出てきます。

 下洲、千種浜の昔を考える時、地形の変化を心に置いておかなければなりません。鎌倉時代、あるいは室町時代まで、小糸川(古代では須恵川と呼ばれていた)の河口が篠部と下洲の間に開けていて、その奥は広く沼地または潟のようになっていたのです。古文書で確認出来ませんが、いつの時代かに常代から人見まで堤防が築かれ、小糸川の付け替えがされたのです。

 義経記(室町時代に成立)で、源頼朝が安房から武蔵、そして鎌倉への北上途中で、須恵川のほとりで源氏の軍勢を待つというくだりがありますが、頼朝が味方する武士を待っていた場所は篠部なのです。

 千種浜は今の金田地区のようなクリークと砂浜が交錯した土地でこれがずーっと飯野あたりまで続いていたのです。

 千種浜が、雅なロマンチックな場所になった背景には、鎌倉時代の親王将軍である宗尊親王が吉野地域を好まれ、奈良の吉野から桜を移植したという伝説の力によるところが大きいようです。(宗尊親王が吉野に来たという史実はありません。吾妻鏡によれば宗尊親王の地方巡行は三島大社や箱根権現などへの参詣だけです。しかし、親王将軍の発議で桜を移植するというような文化的業務は鎌倉幕府が大いに奨励していたはずですから宗尊親王が命じたと言うことは大いにあり得ます。)

 宗尊親王を始めとする親王将軍(宗尊親王追放の後、二代の将軍は宗尊親王の子孫が継いで鎌倉幕府滅亡まで続きます)は日本史の中では極めて低い扱いになっています。北条氏が自らの権威付けのため京都から連れてきて成人して気にくわなくなれば追放する。その捨て駒にすぎないというわけです。

 しかし、結果論でいえば、宗尊親王の周辺の人脈が鎌倉時代の次の時代の特に文化、儀礼、権力者の自画像(思想)を形作っていったようなのです。親王の秘書役として下向してきた上杉氏、血筋から言えば親王に近いという認識を持っていた足利氏、栄尊、夢想礎石などなどです。

 千種浜はそういう思想史の中で歌(田楽、能などの中で歌われるもの、または俳諧、これが転じて茶の湯などに発展)の名所として取り上げられ京都の文化人(今で言えばマスコミ)によって記録、流布されていったわけです。

 また、ここは、ごく近世まで古代的な製塩が盛んだったということです。万葉集の時代からの「藻塩焼く煙」の美学が中世人の詩情を高めたのかも知れません。

   《引用終了》

なお、リンク先には千種の浜の、鬼神も哭する如き残念な現状画像が載る。

・「葛(くづ)や」草葺きの屋根及びその茅屋。

・「眼(まなこ)竪(たつ)に切れたる」猫の眸の如くに奇っ怪であるが、ここは人間離れした目つき、野獣のようなそれという比喩であろう。いや……或いは彼は人ではなく、まことの鬼神の変化垂迹したものであったのかも知れぬ……まさに予定調和として宗祇を守るために――

・「油簞(ゆたん)」既注であるが、再掲しておく。「油單(単)」とも書き、元来は湿気や汚れを防ぐために簞笥や長持ちなどに掛ける覆いで、単(ひとえ)の布又は紙に油をひいたものを指すが、これは外出や旅中の風呂敷や敷物などにも用いられた。

・「特鼻褌(とくびこん)」「西村本小説全集 上巻」では「とくびこん」と右にルビする他、左下方に「ふどし」と左ルビする。「ふんどし」のこと。実際にこう書き、古くは万葉時代は「たふさき(とうさき/とうさぎ)」と訓じた。但し、その頃は現在の褌及び短い下袴或いは猿股のようなものを広く指したと考えられる。

・「增賀聖(ぞうがひじり)」(延喜一七(九一七)年~長保五(一〇〇三)年)は平安中期の天台宗僧。比叡山の良源に師事。天台学に精通して密教修法に長じたが、名利を避けんがために数々の奇行を演じたことでも知られる。大和多武峰(とうのみね)に遁世して修行に勤しんだ。「名利を捨てゝ、赤はだかに成りて都へ歸り上り給ひし彼の裸は」殊に有名で、私の『「笈の小文」の旅シンクロニティ―― 裸にはまだきさらぎの嵐哉 芭蕉』に注してある。参照されたい。

・「香(かう)をとむる」「香の香を聞(き)く」ことを言っているように思う。

・「この體」「このてい」。この場合は様子・風情で、しかも歌学に於ける表現様式を指すところの「体(てい)」をも掛けていよう。

・「筋なき」道理に合わない・不正な。但し、厳密には「筋なく」とすべきところではあろう。この男が一首の上手さを解ったところの歌学の「筋」も掛けているように思われる。

・「治定」「ぢぢやう(じじょう)」必然である、決まってる、の意であるが、ここも俳諧連歌の助辞の用法(後の俳諧の「切れ字」に相当するもの)で意味・内容を断定することを意味するそれも掛けてある。

・「神明佛陀(しんめいぶつだ)の感應(かんおう)ある此の道」言わずもがな乍ら、「此の道」とは歌道のことである。

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