多情多恨 梅崎春生
福日から借りてきた三冊のうち一冊はアラビアンナイトで、あとの二冊は題名は忘れたがやはり西洋童話であった。西洋の童話はそれまであまり読んだことがなかったから、わたしは夢中になって読みふけった。夢中にさせるおもしろさが、たしかにそこにはあった。こんなのが自由に読めるのなら、なにも好きこのんでマメ本のかくれ読みなんかしやしない。
すっかり読み上げて戻しに行く。本と別れるのが寂しい気がする。ナニナニさんは応接間でまた紅茶をごちそうしてくれて、
「しっかり勉強して立派な人間になるんだよ。お父さんによろしく」
とわたしの頭をなでた。わたしはお礼を言って外に出た。
あの童話本はナニナニさん個人の所有物だったのか、それとも社の図書室にそなえつけのものだったか、いま思うとどうも後者のような気がするが、しかし新聞社に童話本なんか置いてあるのかしらとも思う。
そのうちに円本時代がはじまる。
筑摩版の『現代日本文学年表』を見ると、大正十五年、昭和元年のところに円本時代はじまるという記述がある。わたしが六年生のころだ。
うちでも円本をとった。『日本文学全集』、『日本大衆文学全集』、『世界大衆文学全集』など。さいごの『世界大衆文学全集』は一円でなく五十銭だった。『日本文学全集』の第一回配本は尾崎紅葉で、まず、巻頭の「多情多恨」から読みはじめたが、いっこうおもしろくない。読んでいるうちにおもしろくなるかと思ったが、いつまでたってもおもしろくならない。うんざりして途中で投げ出してしまった。いま思うと小学六年や中学一年で「多情多恨」をわかろうとはむりな話である。
そこで『日本文学全集』は敬遠して、もっぱら『日本大衆文学全集』と『世界大衆文学全集』にかじりつく。この二つはよくわかったし、おもしろかった。マメ本のおもしろさの比ではなかった。マメ本の卒業の期にわたしは入っていたのだろう。
現在わたしの作品がエンタテインメントの要素が強いと批評されるし、また直木賞をもらうようなことになったのも、このころの読書傾向の影響があるのかもしれない。
円本もまだほかにいろんな種類があったし、五十銭本の全集もたくさん発行された。戦後の全集ブームの比ではなかった。生活も昔のほうが余裕があったのだろう。それに昔は現代ほど娯楽の種類が多くなかったから、いきおい読書に集中したということもある。
五十銭本の中には探偵小説(日本と西洋の)、『ルパン全集』、『シャーロックホームズ全集』など探偵ものがずいぶん出た。わたしはすでに中学生になっていたが、たちまち探偵ものの魅力にとっつかれてしまった。いまでもわたしは推理小説が好きである。
わたしも乞われるままに二三、推理小説を書いたが、推理小説というものは南京豆でもかじりながら気楽に読むべきものであって、額に汗してえいえいと書くものではないことがわかったので、このごろは書かない。
[やぶちゃん注:「南風北風」連載第四十七回目の昭和三六(一九六一)年二月十九日附『西日本新聞』掲載分。これはもう完全に前日の続き。
「多情多恨」尾崎紅葉(慶応三(一八六八)年~明治三六(一九〇三)年)の長編小説。明治二九(一八九六)年に『読売新聞』に連載、翌年、刊行。亡妻を慕いつづける青年教師が、最初は嫌いであった友人の妻に何時とはなく魅せられてゆく心理を克明に描いた作品。筋の面白さを捨て、平凡な日常的事件をとらえて人物の心理や性格を言文一致体によって精細に描いた写実的心理的な手法は、二葉亭四迷の「浮雲」を継いで一つの完成を示しているとされ、次代の自然主義文学への架橋となっているという。「源氏物語」や西洋文学にその手法を学んでおり、また、姦通の破局を回避するところに、同時代の深刻小説の傾向に、和して同ぜぬ批判を忍ばせるなど、かなり複雑な構成を持っており、『快腕の大創作』を自称した野心作である(以上、私は昔、誰かと同じく(彼のように少年ではなかったが)飽きて読み捨てた儘であるので、平凡社の「世界大百科事典」の記載を元にした)。
「わたしも乞われるままに二三、推理小説を書いた」昭和三〇(一九五五)年九月号『小説新潮』発表の「十一郎会事件」、昭和三二(一九五七)年一月七日号『週刊新潮』発表の書簡体探偵物「尾行者」辺りを指すか。]