諸國百物語卷之一 七 蓮臺野二つ塚ばけ物の事
七 蓮臺野(れんだいの)二つ塚(つか)ばけ物の事
みやこ蓮臺野と云ふ所に、むかしより塚ふたつありけるに、そのあいだ、二町ばかりへだてけるが、ひとつの塚は夜な夜なもへける。今ひとつの塚はすさまじきこゑにて、
「こいやこいや」
と、よばはりける。これをきく人ごとにおそれまどひて、日ぐれになればとをる人なし。ある時、あめ風はげしき夜、わかきものども、あつまりて、
「たれにても、こよひ、蓮臺野へゆきて、ばけ物のありさまみて歸るもの、あらんや」
といへば、そのなかに、ちから、人にすぐれて心がうなるわかものありて、
「それがし見とゞけ參らん」
と、云ひて行くほどに、闇(くら)さは闇し、雨はふる、すさまじき事、いふばかりなし。されども心こうなるものなれば、ひとつの塚にたちよりて聞けば、例のごとく、
「こいやこいや」
とよばはりける。此男いふやう、
「なに物なれば夜な夜な、かく云ふぞ。まことのすがたをあらはして、ざんげせよ」
とぞ云ひければ、塚の内より四十あまりなる、色あをざめたる女、たち出でゝ、
「かやうに申す事、べつのしさいもなし。あれにみへたる、もゆる塚へ、われをつれてゆき給へ」
と云ひければ、男もおそろしくはおもひけれども、もとよりおもひもうけたる事なれば、やすやすとせなかにおひ、かのつかにおろしけるに、女そのまゝかの塚へ入るかとおもへば、塚のうち鳴動して、しばらく有りて、かの女、鬼神のすがたとなりて、まなこ、かゞやき、身にうろこはへて、すさまじき事たとへんかたなし。又、男にむかつて、
「もとの塚へ、われをつれてかへれ」
と云ふ。この時は氣も魂(たましひ)もうせはてゝ、死に入るばかりにおぼへけれども、又、せなかにおいて、もとの塚へをろしければ、鬼神よろこび、家の内に入り、しばらくして、又、もとの女のすがたとなり、
「さてさて御身のやうなるこうの人はなし、今こそ、のぞみをはれて、うれしく候ふ」
とて、ちいさき囊に、なにやらん、おもき物を入れて、あたへける。かの男、わにの口をのがれたるこゝちして、いそぎ、わが屋にかへりて、右の人々に、はじめをわりを物がたりして、件(くだん)の囊をとり出だし見ければ、金子百兩ありけると也。それよりのちは此塚なにごとなし、と、いひつたへ侍るなり。
[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻三の「三 蓮臺野にて化け物に遇ふ事」と同話であるが、塚からの呼ばはる二度の声はともに原話は『怖やこはや』であること、こちらが女の亡霊が男に与えた袋の中身が「金子百兩ありけると也」とし、「それよりのちは此塚なにごとなし、と、いひつたへ侍るなり」で終るのに対し、「曾呂利物語」では、怪異を友に語ったところ、『各々、手がらの程を感じける。彼(か)のふくろに入れたる物は、如何なる物にかありけん、知らまほし』と終わっている点で異なる。塚からの声は意味不明の「こいや」(「來いや來いや」とは認めるが、それでも呼ばれても行きたくはない点に於いてこの「こいや」の方がよい)がよいと思うが、エンディングの方は、個人的には起承転結かっちりよりも、読者に気を持たせる「曾呂利物語」の方が、遙かによい。挿絵の右キャプションは「蓮臺野のばけ物の事」。
「蓮臺野」洛北の船岡山西麓から現在の天神川(旧称は紙屋川)に至る一帯にあった野。古来、東の「鳥辺野(鳥辺山)」、西の「化野(あだしの)」とともに葬地として知られた。後冷泉天皇・近衛天皇の火葬塚がある。
「心がうなる」「心剛なる」。
「心こうなる」「心かうなる」の誤り。清音は前の「心剛なる」の古形。
「ざんげ」「懺悔」。既注。元は「さんげ」と清音。原義は仏教で過去の罪悪を悔いて神仏などの前に告白をし、その許しをこうことであるが、ここは変化(へんげ)のものに対して、「こいやこいや」の意味と、そう叫ぶ意図を「包み隠さずに打ち明けること」を指している。近世中期以後に濁音化して「ざんげ」となった。但し、そういう意味では、塚から出た亡霊は、この男に「懺悔」は結果として、していない。或いは、それはあまりに自身にとって恥かしいものであったから語りたくなかったのかも知れぬし、或いは、生者に語っても最早、理解出来ない死霊同士(今一つの塚の主との)事柄であったのかも知れぬ。それは、送られた女が塚から再び出でた時、「鬼神のすがたとなりて、まなこ、かゞやき、身にうろこはへて、すさまじき事たとへんかたなし」であったことを考えると、安易に訊ねることも私(藪野直史)には出来ないことであると言い添えておく。
とぞ云ひければ、塚の内より四十あまりなる、色あをざめたる女、たち出でゝ、
「おもひもうけたる事」どんな怪異が起こっても、と前以って心の準備もし、覚悟もしていたこと。
「やすやすと」(女の命じた通り、)素直に。
「のぞみをはれて」「望み終はれて」。望みをし終えることが出来て。しかし、この女怪の望みは何であったのか、鬼女に変じたところに妬心は十二分に見てはとれるものの、今一つ塚が誰のそれであり、そこで何を成したものかは闇に隠れたままである。しかし残ったは事実としての謝礼金百両のみ。この最後の物的リアリズムが、ホラーを完成させている。
「わにの口」「鰐の口」。言わずもがな、「鰐」は鮫の意。]