譚海 卷之一 阿蘭陀人赤髮をたつとぶ事
阿蘭陀人赤髮をたつとぶ事
○紅毛人髮ひげをそるには藥付てそる。髭しやぼんといふものあり。髮にぬりてそるときは、髮やはらかに成(なり)て莖(くき)までさつぱりとそらるゝ也。但(ただし)此(この)くすりたびだび付(つく)れば、髭のいろいつとなく赤くなりちゞれる事也。それゆへ此邦の人はもちひがたし。和蘭にては髮髭あかくちゞれたるものを貴族とす。黑きものはジャガタラの種類とて親しみおとす。それゆへ髭のあかく成(なる)藥を製し、そる時に兼(かね)て用(もちふ)る事とぞ。前年國姓爺(こくせいや)たかさごを責取(せめとり)てをらんだ人を追出(おひいだ)したる時、和蘭人多く長崎へにげ來りて居たる事有(あり)。其後ことごとく本國へ御歸しありけるに、女子(をんなご)二人とり殘し置(おき)けり。長崎の者哀(あはれ)み養育し、伽羅(きやら)の油など付(つけ)髮をゆふてやりける。壹年ほどの内に黑髮に成(なり)たり。其後(そののち)父おらんだより來り、娘の髮黑く成(なり)たるをみて甚(はなはだ)悲しみ、その國にては赤髮を辱しむ事を物語せしと也。扨(さて)すきあぶらをもたゞうちすてゝ置(おけ)ければ、もとの赤髮に成(なり)たるを見て、初(はじめ)て悦び本國へつれ歸りしとぞ。
[やぶちゃん注:「ジャガタラ」「咬𠺕肥」と漢字表記する。通常はマレー人のことを指すが、ここは一種の蔑視としての黒髪のアジア人を広汎に指すようである。
「親しみおとす」馴れ親しみつつ、そこで留まらずに蔑(さげす)んで見下す。
「國姓爺(こくせいや)」明の軍人政治家鄭成功(ていせいこう 一六二四年~一六六二年)。ウィキの「鄭成功」によれば、日本名は福松。『清に滅ぼされようとしている明を擁護し抵抗運動を続け、台湾に渡り鄭氏政権の祖となった。様々な功績から隆武帝は明の国姓である「朱」と称することを許したことから国姓爺とも呼ばれていた』。『日本の平戸で父鄭芝龍と日本人の母田川松の間に生まれた。成功の父、芝龍は大陸は福建省の人で、平戸老一官と称し、平戸藩主松浦隆信の寵をうけて川内浦に住み、浦人田川マツを娶り』、二子を生んだ。二人に『福松と七左衛門と名付けた。
たまたま、母マツが千里ヶ浜に貝拾いにいき、俄に産気づき家に帰る暇もなく、浜の木陰の岩にもたれて出産した。この男児こそ、後の鄭成功である。幼名を福松(ふくまつ)と言い、幼い頃は平戸で過ごすが』、七歳の『ときに父の故郷福建につれてこられる。千里ヶ浜の南の端に鄭成功にちなむ誕生石がある。鄭芝龍の一族はこの辺りのアモイなどの島を根拠に密貿易を行っており、政府軍や商売敵との抗争のために私兵を擁して武力を持っていた』。十五歳の『とき、院考に合格し、南安県の生員』(明及び清朝に於いて国子監の入試(院試)に合格して科挙制度の郷試の受験資格を得た者のこと。生員となったものは府学・県学などに配属され、「秀才」と美称されて実質的には士大夫階級(科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた階層)と同等の待遇をされた)『になった』が、一六四四年、二十歳の時、『李自成が北京を陥落させて崇禎帝が自縊すると、明は滅んで順が立った。すると都を逃れた旧明の皇族たちは各地で亡命政権を作った。鄭芝龍らは唐王朱聿鍵』(しゅいつけん)『を擁立したが、この時元号を隆武と定めたので、朱聿鍵は隆武帝と呼ばれる。一方、寄せ集めの順が精悍な清の軍勢の入関によってあっけなく滅ぼされると、中原に満州民族の王朝が立つことは覆しがたい状況となり、隆武帝の政権は清の支配に対する抵抗運動にその存在意義を求めざるを得なくなった』。『そんななか、ある日』、成功は『父の紹介により隆武帝の謁見を賜る。帝は眉目秀麗でいかにも頼もしげな』彼を『気入り、「朕に皇女がいれば娶わせるところだが残念でならない。その代わりに国姓の『朱』を賜ろう」と言う。それではいかにも畏れ多いと』、彼は『決して朱姓を使おうとはせず、自ら鄭成功と名乗ったが、以後人からは「国姓を賜った大身」という意味で「国姓爺」(「爺」は「御大」や「旦那」の意)と呼ばれるようになる』。『隆武帝の軍勢は北伐を敢行したが大失敗に終わり、隆武帝は殺され、鄭芝龍は抵抗運動に将来無しと見て清に降った。父が投降するのを成功は泣いて止めたが、芝龍は翻意することなく、父子は今生の別れを告げる』。『その後、広西にいた万暦帝の孫である朱由榔が永暦帝を名乗り、各地を転々としながら清と戦っていたのでこれを明の正統と奉じて、抵抗運動を続ける。そのためにまず厦門島を奇襲し、従兄弟達を殺す事で鄭一族の武力を完全に掌握した』。一六五八年、『鄭成功は北伐軍を興す。軍規は極めて厳しく、殺人や強姦はもちろん農耕牛を殺しただけでも死刑となり、更に上官まで連座するとされた』。『意気揚々と進発した北伐軍だが途中で暴風雨に遭い』、三百隻の内百隻が沈没、『鄭成功は温州で軍を再編成し、翌年の』三月二十五日に再度、『進軍を始めた』。『鄭成功軍は南京を目指し、途中の城を簡単に落としながら進むが、南京では大敗してしまった』。『鄭成功は勢力を立て直すために台湾へ向かい』、一六六一年に『台湾を占拠していたオランダ人を追放し、承天府及び天興、万年の二県を、澎湖島には安撫司を設置して本拠地とするも、翌年に死去した。その後の抵抗運動は息子の鄭経に引き継がれる。台湾台南市には』、一六六三年に『鄭経が鄭成功を祀った鄭成功祖廟がある』。『国共内戦に破れて台湾に敗走した中国国民党にとって、いきさつの似ている鄭成功の活躍は非常に身近に感じられており、中華民国海軍のフリゲートには成功級という型式名がつけられている(一号艦名が「成功」)』。『歴史上の鄭成功は、彼自身の目標である「反清復明」を果たす事無く死去し、また台湾と関連していた時期も短かったが、鄭成功は台湾独自の政権を打ち立てて台湾開発を促進する基礎を築いたこともまた事実である為、鄭成功は今日では台湾人の不屈精神の支柱・象徴(開発始祖)として社会的に極めて高い地位を占めている。台湾城内に明延平郡王祠として祠られて』いる、とある(下線やぶちゃん)。本邦では近松門左衛門の人形浄瑠璃「國性爺合戰」(こくせんやかっせん:全五段・正徳五(一七一五)年に大坂竹本座で初演)でと見に知られる。本「譚海」の記事対象期間は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年であるから、鄭成功の台湾占拠は百年以上前の出来事である。
「たかさご」台湾の異名。
「伽羅(きやら)の油」香木の一つである沈香(じんこう:正しくは沈水香木(じんすいこうぼく))から採取される芳香を持った精油。ウィキの「沈香」によれば、『東南アジアに生息するジンチョウゲ科ジンコウ属(学名:アクイラリア・アガローチャ Aquilaria agallocha)の植物である沈香木などが、風雨や病気・害虫などによって自分の木部を侵されたとき、その防御策としてダメージ部の内部に樹脂を分泌、蓄積したものを乾燥させ、木部を削り取ったものである。原木は、比重が』〇・四と『非常に軽いが、樹脂が沈着することで比重が増し、水に沈むようになる。これが「沈水」の由来となっている。幹、花、葉ともに無香であるが、熱することで独特の芳香を放ち、同じ木から採取したものであっても微妙に香りが違うために、わずかな違いを利き分ける香道において、組香での利用に適している』。『沈香は香りの種類、産地などを手がかりとして、いくつかの種類に分類される。その中で特に質の良いものは伽羅(きゃら)と呼ばれ、非常に貴重なものとして乱獲された事から、現在では、ワシントン条約の希少品目第二種に指定されている』。『「沈香」はサンスクリット語(梵語)でaguru(アグル)またはagaru(アガル)と言う。油分が多く色の濃いものをkālāguru(カーラーグル)、つまり「黒沈香」と呼び、これが「伽羅」の語源とされる。伽南香、奇南香の別名でも呼ばれる』とあるから、この「油分が多く色の濃い」「カーラーグル」「黒沈香」のことであろう。だから黒くなったのが腑に落ちる訳である。
「辱しむ」普通なら「はづかしむ」であるが、恐らくここはその「恥ずかしい思いをさせる/恥をかかせる」「価値を低める/地位・名誉などをけがす」の意から、「いやしむ」(賤しむ)と訓じていると私は思う。
「すきあぶら」「梳き油」。
「うちすてゝ置ければ」普通に梳くための髪油なども一切使わずに、そのまま暫くほおっておいたところ。頻繁に洗髪もしたものであろう。]
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