宗祇諸國物語 附やぶちゃん注 狂歌、憂ひを忘る
狂歌忘ㇾ憂(うれひをわする)
長月廿日あまり、美濃國にめぐり、爰かしこ、と見行く、其(それ)の宵、久里部(くりべ)といふ山里にとまりし、宿にて二十餘(はたとせよ)の修行の僧に、あひやどりしけり。此の僧の云く。御僧を見知り侍り。愚僧は河内(かはち)の百舌鳥(もず)といふ在郷(ざいがう)にて、彌藤次と申す者なり、いつの頃か、公(きみ)、我が宅(たく)に一夜を明かさせ參らせし時、いづこへか通り給ふ、と問しに、紀伊より京にとの給ひし、此の後、人に語りしに、夫こそ當時の名匠宗祇よ、と申せし。我れ、いやしき田夫(でんぷ)ながら、及ばぬ和歌の道をわけて、手習侍れど、本性(ほんしやう)、拙(つたな)き口に、又、公(きみ)がごとき名師(めいし)もなければ、猶、くらきよりくらき道にまよひ、さだかに辨(わきま)へたる事も侍らず、年をふり過ぐるほどに、過ぎしとし妻に別れ、又、いくほどなくて、愛子(あいし)におくれぬ。ひとかたならぬなげきに思ひをかさねけるまゝ、世をあぢきなく思ひとり、此のさまに身をかへ、覺壽(かくじゆ)と申し侍る。此の法の道の始め、善光寺に、と心がけ出で侍ふ。今、爰にて參り會ふ事、多年の愁慕(しうぼ)、相叶ひ侍り。修行の供(とも)して一道の教へを請けたくこそ、と、かたる。誠に南紀を出でし時、さる所にとまりたれ。みぬ人の無常を聞だに哀れは思ふ習ひなるを、その人は心ざまやさしく、いなかうどには珍しく、物うちいひたる、賤しからず、茶ひとつくみたるわざも見所有りし、其の夫(をつと)の、歌にすく、と、いふも又、一ふし有り、無下(むげ)にいやしき人にはあらじ、と氏姓(ししやう)をとへど、此の僧、あからさまにもかたらず。深く包めば、いかなる心にや、と、しひても、とはずなりぬ。歌の事は安き御事に侍り。知りたるを知りたるとして、教へ侍らん、と、いふに、よろこびて、年頃よみ置きし歌どもを懷(ふところ)より取出でゝ點を得る。よめる所のさま、つたなからず、歌はあまたなれば、爰にのこしぬ。明くる朝(あした)より友なひ、そこらの名所、不破、野上、藤川、垂井、其の外、神社佛閣、拜み廻る時、靑野が原をわくれば、漸(やうや)う晩景におよぶ。二人とも腹(はら)淋しく食(しよく)求めたき頃也。祇の云く。覺壽は食とぼしからずや、去れば、身つかれ、足もうらぶれ、心苦しく侍るほどに、狂歌をつゞり侍れど、さがなき事を、と思ひ、かたり參らせずと、それそれ、かゝる時は物忘れに、狂歌こそをかしきわざに侍れ、いかにや、と、とふに、
淋しやと夕のはらのあきかせに
よはり果てたる蟲のこゑかな
覺壽
といへば、おもしろし、愚僧も申さん、とて、
秋の野のおなかさびしき夕ぐれは
わらぢも足に喰ひつきにけり
宗祇
と慰みて、里にたどりつきぬ。此の後、七日計り友なひ行きて、祇の見し所に壽のいたらぬ所多ければ、又、相見る迄よ、と、其の心ざすかたへ、行きわかれにけり。
■やぶちゃん注
・「長月」旧暦九月。
・「久里部(くりべ)」不詳。「西村本小説全集 上巻」(昭和六〇(一九八五)年勉誠社刊)は「くりめ」とルビするが、これでも不詳。識者の御教授を乞う。
・「河内(かはち)の百舌鳥(もず)」現在も大阪府堺市堺区に「百舌鳥(もず)」を冠する地名が残る。地名の由来は、仁徳天皇が河内(当時は和泉も河内に含まれた)の石津原(いしつのはら)に出向いて陵(みささぎ)の造営場所を決め、造営を始めたところ、突然、野の中から鹿が走り出てきて、人たちに向かってきた。しかし彼らの面前で倒れ込んで鹿は死んでしまった。不審に思って調べてみると、鹿の耳から百舌鳥(もず)が飛び出し、鹿は耳の中を食い裂かれていた。陵墓の人夫らに危害が及ばぬように百舌鳥が鹿を止めたのであった。この働きを讃えてこの地を「百舌鳥耳原(もずみみはら)」と呼ばれるようになったとされ、「仁徳天皇稜」の正式名称は事実、「百舌鳥耳原中陵(もずみみはらのなかのみさざき)」である。但し、これらの伝承は「百舌鳥耳原」という地名が先にあって、それを説明するために後で考え出されたものと考えられており、この辺りは大昔は「石津原(いしづはら)」と呼ばれていたらしい(地名由来以降はQ&Aサイトの回答を参照した)。
・「法の道」「のりのみち」と訓じておく。仏道修行のための行脚。
・「夫(をつと)」男。
・「歌にすく」和歌を創ることを好む。
・「一ふし有り」一つの目立った特徴(属性)として彼が持っているところの大事な彼らしさである。
・「爰にのこしぬ」割愛するの意味か。
・「不破」古代東山道の関所不破関(ふわのせき)。現在の岐阜県不破郡関ケ原町松尾。
・「野上」現在の不破郡関ヶ原町野上。後に出る中山道の垂井宿と関ヶ原宿の間の宿。街道筋の井戸は「野上の七つ井戸」として親しまれた。歌枕。
・「藤川」現在の滋賀県米原市と岐阜県不破郡関ケ原町及び大垣市を流れる藤古川(ふじこがわ)周辺。この川は古くは「関の藤川」と呼び、六七二年に大友皇子(弘文天皇)と大海人皇子(天武天皇)が関ヶ原で戦った壬申の乱ではこの藤古川を挟んで両軍が対峙したと伝えられる。歌枕。
・「垂井」現在の岐阜県不破郡垂井町で中山道五十七番目の宿場垂井宿。大垣・墨俣(すのまた)などを経由して東海道宮宿とを結ぶ脇往還美濃路との追分であったため、西美濃の交通の要衝であった。
・「靑野が原」現在の岐阜県大垣市青野町附近。南北朝の延元三年/暦応元(一三三八)年一月、上洛を目指す北畠顕家率いる南朝の軍勢と、土岐頼遠ら北朝方足利方の軍勢との合戦「青野原の戦い」で知られる。
・「祇の云く。覺壽は食とぼしからずや、去れば、身つかれ、足もうらぶれ、心苦しく侍るほどに、狂歌をつゞり侍れど、さがなき事を、と思ひ、かたり參らせずと、それそれかゝる時は物忘れに、狂歌こそをかしきわざに侍れ、いかにや、と、とふに」ここは直接話法の掛け合いであるが、やや分かりにくい。書き直すと、
宗祇「覺壽は食とぼしからずや。」
覺壽「去れば身つかれ、足もうらぶれ、心苦しく侍るほどに、狂歌をつゞり侍れど、『さがなき事を』と思ひ、かたり參らせず。」
と。
宗祇「それそれ、かゝる時は物忘れに、狂歌こそをかしきわざに侍れ。いかにや。」
と、問ふに、
である。
・「淋しやと夕のはらのあきかせによはり果てたる蟲のこゑかな」「夕のはら」「夕べの原」(夕暮れ時の曠野原)に「夕べの腹」(夕暮れ時の腹)を掛け、「あきかせ」の「秋風」の「あき」に「飽き」の反語用法である(腹が減って減ってもう)「厭になる」を掛け、「蟲」に淋しき秋の「蟲」と空腹のためにぐーぐー鳴る腹の「蟲」を掛け、「よはり果てたる蟲のこゑ」に空腹のあまり、「よはり果てた」自らの「こゑ」もダブらせている。なお、個人ブログ(ブログ主は男性らしい)「徒然名夢子」の「百人秀歌 第58 さびしさに....(良暹法師:りょうぜんほうし)」で、「百人一首」で知られる「後拾遺和歌集」の「卷第四 秋上」の良暹法師の一首(三三三番歌)、
題不知(しらず)
さびしさに宿(やど)をたち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮
を解説されているが、その中で本篇のこの狂歌を挙げられ、『この狂歌は、明確に良暹法師の和歌を本歌取しているわけではないが、僕は十分に良暹法師の「さびしさ~」を意識していると思う。というのも比叡山の苦行は、水のような粥と、水だけで千日続くのだ。腹も減るし、苦しくなるのは、この覚寿もよく知っていたのであろう』と評しておられる。歌体からは俄かには賛同しかねるが、面白い見解とは思う。
・「秋の野のおなかさびしき夕ぐれはわらぢも足に喰つきにけり」「おなか」が分からない。掛ける相手は「御腹(なか)」でよいが、元の意味が私には分らぬ。当初は「峰」「丘」、山野の小高い所・尾根の謂いかとも思ったが、それだと歴史的仮名遣は「を」でなくてはおかしい。「秋の野の野中(のなか)淋しき」の音変化かとも考えたが、それもなんだかな、である。識者の御教授を乞う。「わらぢ」は無論、「草鞋」である。