弓流し 梅崎春生
屋島の海戦で、源義経は不覚にも自分の弓を海に落した。すると義経はむきになって、危険をかえりみずして海に飛び込み、それを取り返した。理由は、弓を敵に取られて、義経はあんなに弱い弓を引いていたかと、敵に知られるのがつらかったからである。これは義経の弓流しという有名な故実で、武将の廉恥の標本だというぐあいに私は小学校で教わったが、つまりこれは劣等感のなせるわざで、いまでも人間は劣性をかくすために命がけのことさえやる。私は職業がら時折、短冊や色紙に字を書くことを頼まれるが、そのつど顔をしかめ、どうにかして書かずに済ませる方法を考える。しかしこちらは字を書く商売なので、私は文盲であるとか、字を忘れたとかいう遁辞(とんじ)は通らない。すずりと筆とをつきつけられて、ついやむなく書いたあと、いつも私は義経の弓流しの故事を思い出し、義経公の心境に全く同情共感するのである。幸いにして義経は取り戻せたからよかったが、私の場合、そういうふうにして書かされたのが、何十枚何百枚あるかは知らないが、日本のあちこちに現存して、ああこれが梅崎春生の字か、なんて下手くそな字だろうと、見る人見る人が思うさまを想像すると、身がすくむ。
歳末なんかになると、助け合い運動色紙の会とか、疾病少年保護の会とか、あちこちの団体から色紙の類が送られてくる。それを展示即売して、救恤(きゅうじゅつ)金にあてようとの趣旨なのだが、その趣旨は賛成でも前述のいきさつで、私は良心をちくちく痛めながら、染筆はすっぽかし、色紙短冊は取り込んだまま、というのが毎年の例になっている。
[やぶちゃん注:本篇は昭和三三(一九五八)年一月十五日附『毎日新聞』掲載。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「弓流し」「平家物語」の知られた屋島の戦いで那須与一が扇の的を射落とした直後のシークエンス、巻第十一「弓流」が最も知られる。
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船の中(うち)より熊手薙鎌(ないがま)を持つて、判官(はうぐわん)の兜(かぶと)の錏(しころ)に、からりからりと打懸け打懸け、二、三度しけれども、御方(みかた)の兵(つはもの)ども、太刀長刀(なぎなた)の鋒(さき)にて、打拂ひ打拂ひ攻め戰ふ。されども、いかがはし給ひたりけん、判官、弓を取り落とされぬ。うつぶし、鞭を以て搔寄(かきよ)せ、取らん取らんとし給へば、御方の兵ども、「只捨てさせ給へ、捨てさせ給へ」と申しけれども、遂に取つて、笑うてぞ歸られける。おとなどもは、皆、爪彈(つまはじ)きをして、「縱(たと)ひ千疋(びき)萬疋に、代へさせ給ふべき御(おん)だらしなりと申すとも、いかでか御命には、代へさせ給ふべきか」と申しければ、判官、「弓の惜しさにも、取らばこそ。義經が弓といはば、二人(ににん)しても張り、若(も)しは三人しても張り、叔父爲朝などが弓の樣ならば、わざとも落といて取らすべし。尫弱(わうじやく)たる弓を、敵(かたき)の取り持つて、これこそ源氏の大將軍(たいしやうぐん)、九郎義經が弓よなど、嘲弄(てうろう)ぜられんが口惜しさに、命(いのち)に代へて取つたるぞかし」と宣へば、皆、又これをぞ感じける。
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簡単に語注すると、「薙鎌」は二メートル余の棒の先に鎌を附けた武器(恐らくは海底の海藻や舟に絡まったそれを排除する漁具の転用)。「錏」兜の鉢の眉庇(まびさし)の両端から両頰及び後頸部を蔽う防具部分。「おとな」老武者。「爪彈き」指弾。指を指してあからさまに批判すること。「疋」弓の助数詞。「だらし」接頭語からの連濁で元は「たらし」、その元は「執(と)らし」で「貴人が手にお持ちになるもの」の意で、貴人の持つ弓の意。「叔父爲朝などが弓」「保元物語」によれば弓の達人叔父為朝(源為義八男で義経の父義朝の弟)は身長七尺余(二メートル十センチ)の大男で彼の使った弓は、「五人張り」(通常成人が四人で曲げて一人が弦を張ること)で八尺五寸(約二メートル五十五センチ。普通の実践弓は七尺(二メートル十二センチ)、十五束(そく)の矢(約一メートル十四センチ弱。「束」は「つか」とも読み、矢の長さの単位。「一束」は元は拳(こぶし)一つ分を指し、普通の矢は十二束(九十一センチ弱)であった)を用いたという。弓の鍛錬の余り、左腕が右腕より四寸(約十二センチも長かったとも伝える。「尫弱」つまらなく弱々しいこと・取るに足りないもののことで、ここは小さく、しかも張りの弱い弓のことを言う。
「救恤金」「恤」は「めぐむ」の意で、「救恤」で困っている人に見舞いの金品などを与えて救うことを指し、災害被災者や貧困者などを援助するための義捐(ぎえん)金のこと。]