甲子夜話卷之二 7 中川氏幷鳥取侯家紋の事
2-7 中川氏幷鳥取侯家紋の事
中川氏の家紋に、[やぶちゃん注:図Ⅰ。]此ごとき紋あり。彼家には轡くづし、又クルスとも云と聞く。予竊(ひそか)に思ふ、彼先(かのせん)、瀨兵衞の頃は南蠻寺盛に行はれて、瀨兵衞も此宗なりしと云。然ばこの紋は、彼の崇奉する所の十字聖架なるべし。今轡くづしと謂は、忌諱を避るなるべし。又クルスと云もキリスの蠻語轉ぜしにや。一日此ことを松平冠山【因幡鳥取の支侯】に語れば、曰く、吾家に、この紋[やぶちゃん注:図Ⅱ。]を用ること由緒詳ならず。傳る所は天王より拜領せし紋なりと云。世上には祗園守と云なれど、思ふに中川の紋の類にて、恐くは十字ならん。天王の王は主の字なりしも計がたし抔、話りて一咲して止ぬ。又思に兩氏の紋いかにも蠻物の象をなせり。薩の轡紋もやはり十字と見へたり。封内霧島山の絶頂に建る天の逆鉾と云もの、これ亦彼徒の立し十字なるべしと、或人云しは、げにもとぞ思はるれ。
■やぶちゃんの呟き
図Ⅰ
図Ⅱ
孰れも基礎底本(一九七七年平凡社刊東洋文庫「甲子夜話」)よりトリミングした。
「中川氏」サイト「戦国大名探究」の「中川氏」によれば、多田源氏で清和源氏の酒呑童子退治で知られた源頼光の流れを汲むように系図では見える。
「鳥取侯」「因幡鳥取の支侯」鳥取藩の支藩の藩主。若桜藩(わかさはん:別称「鳥取西館新田藩」)。藩庁は鳥取に置かれた。鳥取藩から蔵米で支給を受けていたため、実際の領地はなく、鳥取藩からの独立性も薄かった。
「轡くづし」「くつわくずし」。「轡」は馬具の一種で、馬の口に噛ませて手綱に繫いで馬を制御する道具。馬の口に入るところを「馬銜」(はみ:「喰」とも書く)と称し、その両端にある板を鏡板(かがみいた:或いは単に「鏡」)というが、鏡板には丸に十文字の形状は普通にある。
「瀨兵衞」「せびやうゑ」と読み、戦国大名中川清秀(天文一一(一五四二)年~天正一一(一五八三)年)の通称。ウィキの「中川清秀」によれば、摂津国福井村中河原(現在の大阪府茨木市)に生まれ、『はじめ摂津国人であった池田勝正に仕え、織田信長が上洛してくるとそれに従ったが、後に主家の池田氏で内紛がおこり、勝正が追放され池田知正が当主となると』、一時、信長と敵対、元亀三(一五七二)年、『同じく知正に仕えていた荒木村重と共同して織田方の和田惟政を討ち取り(白井河原の戦い)、戦後はこの戦いで滅んだ茨木氏の居城であった茨木城の城主となった』。『摂津で有力であった和田氏や茨木氏、伊丹氏、池田氏が相次いで衰退・没落すると村重や高山右近と共に摂津にて独立勢力となる。後に信長が村重を摂津の国主に据えると清秀もそれにしたが』い、天正六(一五七八)年に『村重が信長に対して反旗を翻すと(有岡城の戦い)』、初めはともに信長に敵対したものの、『織田軍が大挙して攻めてくると右近と共に降参して家臣となり、逆に村重を攻める側に回った』。天正一〇(一五八二)年に『本能寺の変で信長が横死した後は右近と行動を共にして羽柴秀吉につき、山崎の戦いで大いに活躍した』。翌年の『賤ヶ岳の戦いにも秀吉方先鋒二番手として参戦したが、大岩山砦を右近、三好秀次らと守っている時、柴田勝家軍の勇将・佐久間盛政の猛攻に遭って奮戦したものの戦死した』。『家督は長男の秀政が相続、次男の秀成は後に豊後岡藩初代藩主となり、中川家は藩主として幕末まで存続した』とある。前注に示したサイト「戦国大名探究」の「中川氏」には『清秀は熱心なキリシタンとして育ち、幼少から十字架を離さなかったという。その名残りが、中川氏の家紋のちに「中川久留子」』(なかがわクルス)『とよばれるものに伝わっている。こんな話も伝わっている。清秀が同じキリシタン信者である和田惟政を討ち取ったとき、惟政の前立てが、バテ十字と呼ばれる変わった十字紋であった。これが「中川久留子」の原形となった。信仰もさることながら、清秀、武功の紋でもあった』とある。
「然ば」「しからば」。
「忌諱」この場合は本来は禁制の切支丹由来であることを忌み嫌って、隠すためにという謂いである。
「避る」「さくる」。
「松平冠山」鳥取藩支藩若桜(わかさ)藩第五代藩主池田定常(明和四(一七六七)年~天保四(一八三三)年)のこと。旗本池田政勝次男で冠山は号。第二代藩主池田定賢が享保五(一七二〇)年に五千石の加増を受けて二万石の大名となって、さらに幕府から「松平」姓を許され、柳間詰となった(但し、養子である定常とは直接の血縁はない)。歴代藩主の中では優れた藩主として知られ、藩政改革を行い、文学者としても有名で「柳間の三学者」「文学三侯」とも称された。
・「祗園守」「ぎをんもり」と読み、一般には京都東山にある八坂神社が発行する牛頭天王の護符のこととされる。詳細はサイト「家紋world」の「祇園守紋」を参照されたいが、そこにはまさにこの条のこの下りが現代語訳で引かれており、こ『の池田氏はキリシタンとして知られた摂津池田氏の一族といい、摂津池田氏は「花形十字紋」を旗印に用いた
ことが知られている。加えて、摂津から出たキリシタン大名中川清秀の子孫で豊後竹田藩に封じられた中川氏は、抱き柏紋とともに中川車あるいは轡崩しと呼ばれる家紋を用いている。同紋は、別名中川久留守といわれるように
十字架を象ったものであった。同じく、摂津能勢を領した能勢氏の「矢筈十字」紋は「切竹十字」ともいわれ、クルスを 象ったものという。さらに丹波の戦国大名波多野氏は「出轡(丸に出十字)」を用いたが、これも
キリシタンとの関係を秘めたものであろうといわれている』と解説されてある。
「天王の王は主の字なりしも計がたし抔、話りて一咲して止ぬ」「一咲」は「いつせう」で「一笑」のこと、「止ぬ」は「やみぬ」。祇園が祀る神仏は徹底した神仏混淆で、祇園の守護神というのはインドの祇園精舎の守護神とされた牛頭天王(ごずてんのう)であるが、ここは要は、――天王の「王」は実は「主」から一画目の点を取り去って「王」としたに過ぎぬ、元は「天主」(デウス:ヤハゥエ)の「主」の字であったかどうか、さてさて、推定することも難しい、ははは!――と、さっさと、二人きりの戯言として笑って済まさないと、壁に耳あり、禁教由来などと真面目に取沙汰されては大変なことになるからである。
「思に」「おもふに」。
「蠻物の象」「ばんぶつのかたち」。西洋の記号の形象。
「薩の轡紋」薩摩の丸に十の字のくつわ紋。
「封内」薩摩藩領内。
「霧島山」現在の宮崎県と鹿児島県県境付近に広がる火山群の総称で最高峰は韓国岳で標高千七百メートル。日本神話の天孫降臨説話の舞台とされ、高千穂峰の山頂には天孫降臨に際して逆さに突きたてたという「天の逆鉾」(あめのさかほこ)が立てられている。「霧島」が最初に登場する現存文献は「続日本紀」の承和四(八三七)年八月の条である。
「建る」「たつる」。
「彼徒」「かのと」。
「立し」「たてし」。
「げにもとぞ思はるれ」そうかぁ? 私しゃ、そうは思わんが、ね、静山センセ。