北條九代記 卷第九 武藏守平長時死去 付 將軍家若君御誕生
○武藏守平長時死去 付 將軍家若君御誕生
文永元年八月十日、北條武蔵守長時、卒去あり。是相摸守重時の嫡子たり。さしたる文才のあるにはあらざれども、その心操(こゝろだて)、柔和にして、人を愛し、道を嗜(たしな)み、衰へたるをとりたて、非道を諫め、内外(うちと)につけて然るべき人なりけるに、俄に病出(やみいだ)し、幾程もなく失せ給ひければ、恩顧好交(おんここうこう)の輩(ともがら)、その方樣(かたさま)の人々は、淚を血に替へて歎かれけり。年未だ三十五歳、一時の花と散果てたり。人聞の一生は風前の孤燈、榮耀は又、草頭(さうたう)の露、誠に消(きえ)易き世の中なり。同月十二日に、將軍家の若君、御誕生あり。日比よりの御祈禱加持の勳力(くんりき)に依(よつ)て、御子母(ごしぼ)共に堅固にぞ渡らせ給ふ。めでたかりし御事なり。諸將諸侍、思ひ思うひの御産養(おんうぶやしな)ひ、色々の擎物(さゝげもの)、山を重ねて奉りけり。
[やぶちゃん注:湯浅佳子氏の「『鎌倉北条九代記』の背景――『吾妻鏡』『将軍記』等先行作品との関わり――」(東京学芸大学紀要二〇一〇年一月)によれば、「日本王代一覧」巻五及び「将軍記」巻五「文永二年九月廿一日」に基づく、とする。
「武藏守平長時」北条(赤橋)長時(寛喜二(一二三〇)年~文永元年八月二十一日(一二六四年九月十二日))。第六代執権(時頼から時宗への中継ぎ的就任に過ぎず、得宗ではないので、本「北條九代」には含まれない)北条重時の次男。北条氏極楽寺流嫡家赤橋流の祖。家格の高さは北条氏の中では得宗家に次ぐ権威を持ち、最後の第十六代執権赤橋守時や足利尊氏正室赤橋登子(とうし/なりこ)は彼の曾孫に当たる。
「將軍家若君」第六代将軍宗尊親王嫡男で後の第七代将軍惟康親王(文永元年四月二十九日(一二六四年五月二十六日)~嘉暦元年十月三十日(一三二六年十一月二十五日)。
「文永元年八月十日」永元(一二六四)年であるが、前注通り「八月二十一日」の間違い。
「草頭(さうたう)」草の葉の上。
「同月十二日」八月十二日ということになるが、前注通り、同文永元年四月二十九日(一二六四年五月二十六日)の大間違い。即ち、ここは時系列でも順序(長時死去の四ヶ月も前に惟康は生まれている)が狂っている。弔・慶の順に並べた確信犯かも知れない。
「勳力(くんりき)」効力(こうりょく)。効験(こうげん)。
「御産養(おんうぶやしな)ひ」出産後、三日・五日・七日・九日目の夜に親類らが産婦や赤子の衣服・飲食物などを贈って祝宴を開くこと。また、その贈り物。平安時代、貴族の家で盛んに行われた。この名残りが現在の「お七夜の祝い」(子どもが生まれて七日目に行う祝い。この日に赤ん坊に名をつけることが多い)である。
「擎物(さゝげもの)」(「擎」は音「ケイ・ギョウ」で「持ち上げる・差し上げる」の意)捧げ物。]
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