譚海 卷之一 同國の船洋中を渡るに水桶をたくはへざる事幷刄物をろくろにて硏事
○享保年中おらんた人へ御尋ありしは、世界を渡海致し數十年を經候には、何をもちて水をたくはへ候やと。和蘭人申上候(まうしあげさふらふ)は、一切水たくはへ不ㇾ申(まうさず)、其所の洋中に就(つき)て潮をくみ石にこし眞水に致し遣ひ候よし。卽その石を長崎にてをらんだ船より御取候て上覽有(あり)。レキステインと號す石のよし。石屋へ御尋ありけるは、此邦にもかやうの石有ㇾ之(これあり)やと。石屋(いしや)申上候は、伊豆より出(いで)候砂にて御影(みかげ)と申候石よく是(これ)に似候、諸石の品にて最下の品に候と申上候。則(すなはち)砂みかげにて和蘭にて水こし候石の形に鉢にはらせ、濁水或は潮水など入させ上覽あるに、石の目よりしたゝり出候(いでさふらふ)水、最上の眞水に成(なり)て盬氣(しほけ)一向なく、和蘭のレキステヰンの功に少しもをとる事なし。但(ただし)和蘭の石はかけ損ずる事なし。此邦の石は數年用(もちふ)れば損じ安く、をらんだの石よりはもろき處有ㇾ之(これある)よし。漢名をも御尋被ㇾ遊候處(おたづねあそばされさふらふところ)、海井(かいせい)と申(まうす)物のよし成島先生言上有(ごんじやうあり)。近年鎌倉水戶の尼寺の後の山よりも此石出る。其山悉く砂みかげ成(なる)由、功(こう)能(よく)又豆州の產にかはる事なし。右水こし石を用たりしは享保中の事也。又らんびきにて潮をにて淸水をとりたる事も有しが、後々はをらんだ此石をもちひず。洋海の底は汐まじらず眞水なる事をやうやう悟り、直(ぢき)に洋底の眞水をくむ器を製し用る也。其器つるべの如くに拵へ、ふたをおほひ、くさりにて洋中にくりおろす。此器洋底にあたる時は、そのおほひたる蓋ひらく樣にからくりをこしらへ、器におもりをつけておろす。其(その)をもりの形ふんどうの如く鉛にて製し、しりを「ふらすこ」の樣に少しくぼめ、油をぬりておろす也。おもりのしりくぼみ有(ある)故にふれずに眞直におろさるゝなり。油をぬる事は汐をきりてさはらずおろさるゝ樣にせし事也。さて引上る時は器の内に水みちてあるゆへ、潮水まじる事なければ、自由に眞水を汲(くみ)て遣ふ事になりたり。但(ただし)此くさりの繩七十尋(ひろ)あるを、二筋常にもちありく、海ふかき處はかの二筋を繼合(つぎあは)せ一筋となしておろす也。此にておもへば世界の海のふかさ、百四十尋よりふかき處はなきものにやといへり。近年はなをなを奇工甚しく熟(じゆく)し、此つるべをも止(やめ)、革にて筒を製し、いくらもネヂにてつぎたし、おもりをつけ洋底へくりさげ、直に船のうちより眞水を吸(すひ)とる樣にからくりを拵へたり。和蘭人長崎の旅館に有(ある)とき、此革の筒にて遠處(ゑんしよ)の井の水を引取(ひきとる)事每事用ゆる也。彼邦の人機關は不可思議なる事なり。近年江戶にても御用にて此革筒をこしらゆる工人、能(よく)其妙を得て製する也。佐渡國金山のしき、水を入(いれ)てくみほしかねたるに、種々人足を仰付(おほせつけ)らるれ共(ども)全く功なし、此革筒にて水をすひとらせけるに甚(はなはだ)宜敷(よろしき)由。さりながら冬中案内なく用たれば、金山のしき中(なか)冬は熱する事(こと)故、みづ湯の如くに成(なり)たる中へ此筒を入(いれ)ければ、もとよりチヤンにてぬりかためたる物なれば、熱氣にチヤンとけて用(もちひ)がたく成(なり)たるとぞ。此筒兩人して龍骨車をまはすやうに、あやとりつかふもの成(なる)由、又和蘭人小刀をとぐには、一人砥石をろくろにてまはし、一人小刀を砥石にあてて動さず持(もち)をる、扨(さて)ろくろかたまはりにするゆへ、小刀も片刄(かたば)なれば自然とむらなくとぎ上(あげ)らるゝ也。
[やぶちゃん注:「享保年中」一七一六年から一七三五年。
「レキステイン」「水漉し石」「潮漉(しおこ)し石」「レツキステイン」などとも称する。 石狂人の木内石亭の、私の偏愛する石博物学の名著「雲根志」(安永二(一七七三)年~享和元(一八〇一)年成立)に、
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水漉石
蠻國物(ばんこくもの)にて今の世渡りあり大船に持て甚だ重寶の物也船中にて水きれし時此石を持てこす故に中くぼみて鉢の形に造りなせり潮(うしほ)を入るゝに下に垂るゝ水は淸淨の水となれり潮にかぎらず酢醬油酒油たりとも此石にてこす時は水となる白色(しろいろ)にて浮石(かるいし)のかたちに似て重き石也蠻名レツキステインといふ和產和刕(わしう)幸當谷(こうたうたに)にありと予是を取得見るに大に異なれりつまびらかならず又伏見の人所持せり又詳ならず
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なお、文中に大和国の幸当谷という地名が出るが、不詳。識者の御教授を乞う(但し、次の「草廬漫筆」から生駒山の麓にある「生駒谷」、現在の奈良県生駒市と大阪府東大阪市との県境にある生駒山地内の谷であろう)。なお、「譚海」は安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年の記録である)。さらにまた、武田信英(事蹟不明)著「草廬漫筆」(江戸中後期の成立か)の「卷二」巻頭に以下のようにある。
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○潮漉石水漉石、蠻名スラングステン
阿蘭陀船中ニ用意ス。夫潮ハ常ノ水ヨリ輕ク、水ハ潮ヨリ重シ、海中トイへ共、潮ノミ有ニアラズ。水ト相交レリ。海中四十尋ヨリ下ハ眞水ナリ。潮ヲ漉テツカフトキハ常ノ水ナリ。故ニ紅毛人、此石ヲ船中ニ用意スル也。倘此石ノ用意ナキ時ハ、俵ニ米ヲ置テ潮ヲ漉テ水ヲ取ベシ。水漉石、日本ニテハ大和生駒山ノ麓生駒谷ニ有。生駒山ノ名產ナリ。此石ヤハラカナルハ碎ケ安ク、堅キハ水ヲ漉ガタシ。程ヨキヲ佳ナリトス。船中往來ノ人ハ必ズ持ベキ事ナリ。
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ここに「スラングステン」とあるように、或いはこれを「龍骨」=「須羅牟加湞天(スランカステン/スランガステン/スランガステーン)」(slangensteen)と同一物(或いは混同)する記載も見かける。なお、「スランガステン」については、私の「大和本草卷之十四 水蟲 蟲之上 龍骨」の私の注及びそこにもリンクした私の『寺島良安「和漢三才圖會 卷第四十五 龍蛇部 龍類 蛇類』冒頭の「龍」の私の注を参照されたい。但し、言うまでもないことだが、この辺りから、この話柄は明らかに怪しくなってくる。汚濁した水をろ過する石(岩石層)は無論、存在するし、濾過機としても古くから実用化されてはいるが、海水を入れてそこから透過して滴るものが真水になるという石の実在は少なくとも私は知らない。識者の御教授を乞う。但し、巨大な地層の濾過効果というのはナシにして呉れたまえ。
「御影(みかげ)と申候石」「砂みかげ」「御影」「石」は狭義には現在の兵庫県神戸市の地名(旧武庫郡御影町。現在の東灘区御影石町附近)から産する花崗岩の石材名を特に「御影石」或いは「本御影」と呼び、その後、広く花崗岩の石材の通称となった。「砂みかげ」は恐らく、粗悪で脆い花崗岩が砕かれて砂状なったものを指すと思われる。
「海井(かいせい)」このような中国名を現認出来ない。識者の御教授を乞う。
「成島先生」本書が書かれた時制から考えると、江戸中期の幕臣で儒者であった成島錦江(なるしまきんこう 元禄二(一六八九)年~宝暦一〇(一七六〇)年)か。朱子学と古文辞学を修め、詩や和歌にも優れた。奥儒者として徳川吉宗の侍講を務め、書物部屋を預かった。陸奥白河出身。
「鎌倉水戶の尼寺」現在の鎌倉市扇ガ谷にある浄土宗東光山英勝寺。「新編鎌倉志卷之四」の「英勝寺」の項に(リンク先は私の電子テクスト)、
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石切山(いしきりやま) 歸雲洞の南なり。山下は石切場なり。【東鑑】に、龜が谷の石切谷(いしきりがやつ)とあり。
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とある。これである。しかし、あそこら辺から上質の花崗岩が出るとは考え難い。鎌倉周辺の「鎌倉石」と呼ばれるそれは、概ね、加工はしやすいが脆い砂岩である。単に水を濾過するというのならば、性質上は納得出来る。
「らんびき」江戸時代に海水・薬油・酒類(焼酎)などを蒸留する際に用いた器具。ウィキの「ランビキ」によれば、『「羅牟比岐」、「らむびき」、「蘭引」、「らんびき」とも表記される。『この蒸留器具の原型は』九世紀の『イスラム帝国宮廷学者ジャービル・イブン=ハイヤーンが発明したとされるアランビック蒸留器で、「ランビキ」という日本での呼称もこれに由来する。ただし、ヨーロッパで用いられたアランビック蒸留器(英語: Alembic)とは形状が異なり、三段重ねの構造となっているのが特徴である。この蒸留器具の日本への伝達経路や時期については不明な点が多く残っている』。『ギリシャ語で、空冷する「くちばし」を意味する』ambix 『が、アラビア語に入』って『al-'anbiq となり、ここからポルトガル語で alambique という呼称が生まれた』。『ランビキとは、「熱水蒸留法」のための』三段『重ねの装置である。最下段は抽出原料と水を入れて加熱する「加熱槽」(蒸留槽)で、ここから水蒸気と共に上昇する精油成分が、冷水が入っている最上段の「冷却槽」の底で冷やされ、「露」として中段の「回収槽」の樋に溜まり、管を通ってフラスコなどの容器に流れ込む。この回収槽自体は古代ギリシャ人の発明だったが、アラブ人がそれに冷却装置を加えたので、ヨーロッパでは「ムーア人の頭」(Caput Mauri = Moor's head)として知られていた。また、ユーラシア大陸での蒸留器の発展史を見るとMoor's headとモンゴルや中国で利用された蒸留器との違いは一目瞭然で、ランビキが南方経由で日本に伝わったとの説を後押ししている』。『日本で見られるランビキの多くは陶製』で、『江戸時代には植物精油や化粧用香油水及び蒸留酒を製造するために、医家や薬種屋、上流家庭の茶席などで使われた。陶製のランビキは』四十~五十センチメートル『程度の大きさで、大量に製造するには適していない』。『日本における蒸留器の歴史にはいまだ不明な点が多く残っている。中国の宋代に刊行された『金華冲碧丹経祕旨』は、絵図を交えながら様々な容器、釜、冷却装置を描写しているが』、『それらの情報が日本にまで届いた形跡は見つかっていない。 日本での蒸留器の出現はこのような煉丹術とは無縁であり、むしろ焼酎の導入と関係があるようだ』。『宗田一らによると』十六世紀には『焼酎とその製造法がまず』、『琉球王国に到来したとされている。すでに』永禄二(一五五九)年に『薩摩で焼酎が蒸留された可能性があるが、遅くとも』十七世紀初頭の『薩摩藩の琉球征伐により薬用の泡盛が本格的に江戸、京都などに広まった』。一五四九年(天文十八年)以降、『日本で活躍していたポルトガル人も蒸留酒の普及に貢献した可能性が高い。現存する南蛮流外科の文書を見れば、彼らは「アラキ酒」を木綿に浸して傷を洗うことを紹介し、アルコールの外用的使用を導入したようだ。しかし、蒸留酒に関する記述が所々に確認できるとはいえ、その製造法を具体的に示す資料は大変乏しいと言わざるを得ない』。『江戸時代に広く利用されたランビキという蒸留器がいつ頃出現したかは明らかではない。文書資料での登場は比較的遅い。この名前が示された出版物としては』貞享三(一六八六)年に『俳諧三つ物の多数板行で著名な井筒屋庄兵衛が刊行した『貞享三ツ物』が最初のもののよう』で、『「おなし山の西なるは、花ランビキの露とる家にて」』がそれとする。平賀源内「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」(宝暦一三(一七六三)年刊の博物学書。源内が師田村元雄とともに開いた薬品会(物産会)の出品物計二千余種の内から主要なもの三百六十種を選んで、産地を示し、解説を加えたもの)などの十八世紀の『文書ではランビキは「阿蘭陀人」と関連づけられている(蘭引、蘭曳)』とある。以上では専ら、酒の蒸留器としてしか語られていないが、私が二十代の初め頃に判読を依頼された慶応二(一八六六)年の八丈島の船乗りの難破漂流記(正式書名「長戸路方御船 大淸國漂流記」(私が最初に荒い判読をした後、多くの識者の精緻な判読を経、平成六(一九九四)年に刊行された。非売品)では、遭難した船乗りたちが貯留させていた雨水が切れて来たため、
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鍋釜ニ而ランビキ樣ニこしらへ潮ニ而水取晝夜ニ而弐升五合位之水船中三拾六人飯焚水吞水ニ相用
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とあったから、この頃には、漁師たちも「ランビキ」を水を得るための海水蒸留器として認識していたことが判る。この漂流記、判読は今から思えば、かなり誤読の多いものではあったが(それでも一夏かけた。判読料は二枚の大きなクサヤの干物だったが、とても美味かったのを忘れない)、私にはとても懐かしいものである。
「洋海の底は汐まじらず眞水なる事をやうやう悟り」言わずもがなであるが、これはトンデモない誤りである。流行りの海洋深層水から深海底の水が実は真水だなんどと思う人間は今時、どこにもおらぬ。この辺りから、さらにさらにアブない叙述になってゆく。
「直(ぢき)に洋底の眞水をくむ器」以下に語られる採取装置はあってもおかしくはないし、十分、有り得る。
「ふらすこ」お馴染みの理科の実験で誰もが持ったことのある、あの口の試験管の一種である小さいガラス製容器で、蒸留や攪拌に用いるところの「フラスコ」である。日本語の「ふらすこ」はポルトガル語の“frasco”(英語は“flask”)に由来する。もっと辿ると、「独立行政法人 科学技術振興機構」の「JSTニュースリリース」のこちらの西田節夫氏の「瓶は瓶である」という記事に、『フラスコはラテン語のフラスカ(flasca)が語源。これが英語ではフラスク(flask)、ドイツ語ではフラッシェ(flasche)となり、スペイン語・ポルトガル語ではフラスコ(frasco)となった。日本でもっぱらフラスコと呼ばれているのは、最初にこの言葉を伝えたのが16世紀後半~17世紀前半(安土桃山~江戸時代初期)に日本へ宣教や交易にやってきた南蛮人(スペイン人・ポルトガル人)であったかららしい。といっても、当時はフラスコとは普通の「瓶」とか「酒瓶」を意味していた。これがもともとの語義なのである』。『19世紀、理化学の飛躍的な発展に伴い、さまざまな実験器具が発明された。円筒状の細い頸部とふくらみのある胴部をもつガラス容器もそのひとつだが、この形態はまさに瓶にほかならないため、当然フラスコと呼ばれた。しかし考えてみれば、これは瓶のことを瓶と呼ぶという同義反復におちいっている。そのうえ、考案されたフラスコには、側容・蒸留・化学反応・細菌培養などの用途に応じて、ナス形・ナシ形・複数の枝つきなどさまざまな形状のものがあって、じつにまぎらわしい。そこで、区別のため、考案者の名前を付すようになった。例えば表紙の円錐底面形のフラスコは、これを1866年に考案したドイツの化学者の名にちなんで「エルレンマイヤー・フラスコ(Erlenmeyer flask)」と呼ばれている。もっとも、日本では簡明に「三角フラスコ」と呼ばれることのほうが圧倒的に多いのだが』とある。
「おもりのしりくぼみ有(ある)故にふれずに眞直におろさるゝなり」「油をぬる事は汐をきりてさはらずおろさるゝ樣にせし事也」これらの構造は決しておかしなものではないが、しかし、そんなに古くから海洋深層水の持つ、清浄性や無機栄養塩類の豊富さ、低温安定性が知られていたんだろうか? でなきゃ、こんな装置でわざわざ採取はすまいよ。
「七十尋(ひろ)」水深の場合の一尋は六尺で約一メートル八十二センチ弱であるから、百二十七メートル強となる。
「百四十尋」約二百五十五メートル。
「奇工甚しく熟(じゆく)し」器具の改良が非常に進んで機が熟し。
「革にて筒を製し、いくらもネヂにてつぎたし、おもりをつけ洋底へくりさげ、直に船のうちより眞水を吸(すひ)とる樣にからくりを拵へたり」舷側などから下ろすのではなく、船本体に、既にこの装置が組み込まれているというのだが? ホンマかいな? 識者の御教授を乞う!
「遠處(ゑんしよ)の井」非常に深い井戸のことか。
「金山のしき」「しき」は「鋪(しき)」で鉱山に於いて坑道の一区切りの区画を指す専門用語である。
「水を入(いれ)て」ここは地下水が自然に湧出・噴出して、の謂いであろう。
「チヤン」通常は「瀝青」アスファルトを意味するが、この頃は同様な充填・塗装材であった松脂もこのように言ったものと思われはする。
「龍骨車」「りうこつしや(りゅうこつしゃ)」。低い水路から有意に高い位置に水を揚げるための揚水装置。個人サイト「愛知県の博物館」の「龍骨車(りゅうこつしゃ)」が優れている。
「あやとり」「操り」の意で採っておく。]
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