近頃の若い者 梅崎春生
この一両日、まったく暑い。こんなに暑くては、仕事するのも厭になる。昨日は東京は摂氏三十八度四分あったそうであるが、今日も昨日に劣らず暑い。頭の中が軟かくなっているらしく、考えの筋道さえ立たない。私は昔はそうでもなかったが、近頃は頓(とみ)に暑さに弱くなってきたようだ。伊藤整がある雑誌に、北海道人は寒さには平気だろうと言うが反対である、と書いていた。ある年の冬、九州生れの福田清人が股引(ももひき)をはかずにいたのを見て仰天した話。つまり暖国の九州人の方が寒さには強いという説なのだが、寒さはそれとして、暑さはどうであろう。暑さには逆に寒国人が強いという説が成立するかも知れない。私も九州生れであるので、そこで暑さがこんなに身にこたえるのだろう。
暑さが私の職業に及ぼす影響ということになれば、まず以上のことが第一であるが、それとは別に、如上の個人的肉体的現象でなく、社会的文壇的なひろがりを持った現象が私の身辺に毎年あらわれて来る。すなわち夏場になると、ふしぎなことに私は毎年流行作家的な症状を呈してくるのである。原稿や座談会やその他いろいろの注文が、春頃にくらべるとぐつと増してくるのだ。それから秋場になると、次第にそれらは減少してくる。この現象に私は二三年前から気がついていて、どうも変だ変だと思っていたのだが、この頃になってやっとその原因をつきとめることが出来た。問題はその夏の暑さにあり、かつ私の家に電話があるという事実によるものであるらしい。
今電話が私の家にあると書いたけれども、正確な意味では、電話がある家の一部に私が寄寓していると言った方が正しい。その電話は私の所有物ではないが、家にくっついている関係上、私は私の職業のために利用している。その電話が流行作家と何の関係があるかと言うと、からくりは簡単である。夏は暑い。人間なら誰でも暑い。私も暑いが、新聞雑誌の記者編集者も暑い。暑いとあまり日向(ひなた)をてくてく歩きたくない。そこで原稿などの注文も、出来るだけ動かないで、すなわち電話などでやろうとする傾向が出て来る。ところが電話などを自前で持っているような作家評論家は、たいていふところがあたたかいので、暑い東京を離れて涼しい海山へ、あるいは温泉場に出かけて、そこで仕事をするということになる。電話持ちで東京に止っているのは、まことに寥々(りょうりょう)たるものである。そこで勢い注文は、その寥々の人々に集中する。そして私は自前の電話持ちではないが、形式の上ではその寥々たる一人であるので、私にも注文殺到ということになる。一日に五つの雑誌新聞社から注文を受けたことさえある。こうなると私もちょっと自分がひとかどの流行作家であるような錯覚を起し、起居の態度もいくらか重々しくなり(暑さで体がだるいせいでもあるが)、軽口や冗談もあまり言わず(これも同前)、倣然(ごうぜん)と座敷で昼寝などをしている。
そんなに注文があるのなら、昼寝ばかりしていないで、どんどん書き捲(まく)って流行したらいいではないかと、家人も言い私も考えるのであるが、そこはそれ天は二物を与えず、先刻も書いたように私は暑さに弱い。今年はことにその傾きがあって、この七月八月を通じて私がした仕事は、この社会時評とあと二三の雑文だけ。小説などはついに一篇も書けなかった。毎年の例で言うと、秋口になって涼しい風が立ち始める頃から、私の体力頭脳力は回復にむかい、存分に(と言うほどでもないが)仕事が出来る状態になるのだが、時すでに遅し、その頃になれば海から山から温泉場から、さっきの腕達者の連中が続々と帰京してきて、私などが無理をしないでも、結構新聞雑誌は発行されるという仕組みになる。毎年この同じ繰返しである。暑さが私に流行作家になる条件を与えてくれるのだが、同じくその暑さが私を流行させることをさまたげる。そういう因果関係になっている。生きて行くということも、なかなか思うようにはならないものだ。ついでながらつけ加えると、秋を過ぎて冬に入ると、またいくらか私の身辺も流行の兆(きざ)しを見せる。これによって、我が国の流行作家評論家の若干が、避寒に出かけるという事実を推定することが出来る。私の夏と冬の流行具合から推定すると、連中の避暑と避寒の対比は、大体十対一ぐらいではないかしら。すなわち連中は避暑は大いにやるが、避寒はあまりやらないらしい。わざわざ出かけずとも、防寒設備のととのった邸宅に住んでいるからだろう。火野葦平談によると、イギリスで小説でめしを食っているのは五指に満たないという。我が国にあっては百指をあまるだろう。文運隆盛というべきか。
こんなに文運隆盛になったというのも、雑誌類がよく売れるからであり、つまり小説類の読者が戦前よりぐんと殖えたせいなのだろう。そこで文筆業が職業として、有利な職業として成立する。一応の筆力と相当な体力(どちらかといえば後者の方が大切)があれば、あとはチャンスさえあれば人々は流行作家になれる。という風に私も考え、近頃の若い者も考える。近頃の若い者、とうっかり筆を辷(すべ)らせたけれども、よく考えてみると私がこの言葉を筆にしたのは、これが生れて初めてである。そう書いたからには、もうこの私は若くはないのか。その思いが私の気分を大層憂鬱にさせる。
私は生れつき身体が弱く、幼年時代には満足に育つまいと言われ、小学校時代は体操の時間が一番いや、長ずるに及んで戦争にかり出されて身体はがたがたとなり、そして今日に及んでいる。戦後は毎年一回、必ずと言ってもいい程、病気をする。病気といっても、風邪や腹下しは病気の中に入らない。まさか癌(がん)とか潰瘍(かいよう)とかそんな大病はまだやらないが、中級の病気が毎年一度ずつ私を訪れる。一昨年は原因不明の熱病 (新型のチフスらしいという医師の推定)、昨年は左右の第一大白歯の抜歯、という具合で、今年は上半期を過ぎた頃から、何か憂鬱な兆候が私の身体にあらわれ始めた。この憂鬱な兆候については、あまり筆にしたくないのだが、また社会時評の枠を離れることにもなるが、まあ筆のついでに書いてみると、先ず一日の夕方になる。夕方になると夕刊が来る。その夕刊を縁側に拡げて読もうとすると、どうも眼がちらちらして、焦点が定まらない。新聞を遠くに離すと、いくらか輪郭がはっきりするようだが、しかしそうなると細かい活字は読めない。そしてある夕方、何気なく眼鏡を外(はず)してみて、私は少なからずおどろいた。眼鏡を外すと、細かいすみずみの活字まで、実にあざやかに浮び上って来るのである。その瞬間私は、活字を読むたびに眼鏡を額にずり上げる中老の人々のことを考え、私の症状がそれに酷似していることを確認した。いささかの狼狽も同時に感じた。戦後派の俊秀が、もう老眼症状になったとあっては、可笑(おか)しいやら気の毒であるやら、また世間に対して申し訳のないような気もするのであるが、事実であるから仕方がない。とはいうものの、まさかという気持も一部にはあって、私はすぐ立ち上って眼科医にかけつけ、眼鏡ならびに眼玉を診察して貰った。眼科医は女医であったが、眼鏡は異常なし、眼玉は症状としては老眼であるけれども、疲労のためにそういうことになることもあるという。気の毒そうな、なぐさめるような口調であった。そこで私はその足でとってかえし、別の内科医の門を訪れ、れいの新薬をお尻に注射して貰った。牛の脳下垂体か何かを粉末にして、それを蒸溜水に溶かしたやつである。この薬だけは五十歳になるまでは注射しまいと、かねて私は心に決めていたのだけれども、事情がこうであればもう止むを得ない。そしてこの新薬はかなり私に効果があった。すなわち翌日から老眼症状はさっぱりと消失した。
その日以来今日まで、その症状が再発しないかというと、憂鬱なことにはそうではないのである。疲労のためかどうかは判らないが、時にその症状がぼんやりとあらわれてくるのだ。その度に私は、これは何でもないと強いて楽天的に考えてみたり、あるいは自分の肉体も盛りを越したのだから、あとはいたわりいたわりして使って行く他はない、と考えてみたりする。かなり侘しい心境である。こういう心境が背景にあるからこそ、ついうっかりと、近頃の若い者という言葉が、辷(すべ)り出たのだろう。すでに自分が若者でないという意識が、胸のどこかにわだかまっている。脳下垂体の移植を必要とするような若者はあり得ないのだから。しかしまあ逆に言うと、この牛脳のおかげで老眼にもならず、まだ形状的には若者の仲間入りをしていると、言えなくもなかろう。爾来(じらい)路傍で牛と出会うたびに、私は感謝の眼でもって眺めるのである。
脳下垂体のみならず、近頃の医薬は飛躍的に進歩して、新聞紙上の薬の広告を見ると、どんな病気でもなおらないものはないような気配であることは、大変めでたいことである。そしてこれが、単に誇大広告ではないという証拠には、日本人の平均年齢が以前よりぐんと大幅に引き上っていることでも判る。たしか私の小学校の頃は、日本人の平均年齢は四十五歳ぐらいであった。ところが今は、五十五歳ぐらいだったかな。二十数年の間に十二歳ばかり伸びている。すなわち医業医薬の発達のため、二年間に一歳ずつぐらい引き上っている勘定になる。これが一年に一歳ずつ引き上ってくれると、どんなに有難いことだろう。そうすれば私は永久に死ななくて済む。私がいくら歳をとっても、平均年齢も同じ速度で上るから、いつまで経っても死亡年齢に到達しないからである。是非そういうことに願いたい。その点について一般医業医薬にたずさわる人々に、なお一層の努力と管起を要望する。永久に生きる、となれば、もう老人も若者もない。近頃の若い者という言葉も自然と消滅する。しかし悲しいかな現今では、まだ生命は有限であるので、どうしても近頃の若い者がということになる。
で、近頃の若い者という言葉であるが、これはそのあとに必ず否定とか悪口がつながる決めになっていて、過去のどの時代にもこの言葉は存在した。さるエジプト学者に聞いた話だが、先年ピラミッドかどこかに発見された象形文字をその道の専門家が苦心して解読してみたら、やはりそこにも近頃の若い者が云々という文章があったそうである。日本でも江戸時代の文章の中に、私は同じ趣旨のものを読んだ記憶がある。どの時代においても、近頃の若い者は、ばかで無思慮で浮薄で、あらゆる悪徳に満ちている。「近頃の若い者はなどと申すまじく候」太平洋戦争中そんな言葉もあったが、その言葉と共に幾多の若い者は特攻隊となり、空しく死んで行った。つまり利用価値のある場合にのみ、老人ならびに中老は青年の悪口を控えるもののようである。それにしても、近頃の若い者に告げるが、近頃の若い者云々という中老以上の発言は、おおむね青春に対する妖妬の裏返しの表現である。一時的老眼症状におち入ったこの私の言であるから、これは信用してもいい。それは妖妬であり、また一種の自己嫌悪の逆の表現である。いろいろヴァリエイションはあるだろうが、大体基底においては同様のものである。
私も若い時は若かったし(当然のことであるが)、中老も老人も同じく若い時は若かった。そしてすべて若かった頃には、その時々の老人連から、近頃の若い者は云々と言われて来た。その口調をちゃんと覚えていて、さて自分が年寄になった時、使用しているのである。私は今次大戦に海軍に引っばられ、兵隊としていろいろ苦労したが、まあ初め二等水兵として入隊する。すると兵長というすごい階級がいて、これが若い兵隊を殴ったり棒で尻をひっぱたいたり、そしてきまり文句で説教をする。そこで、あわれなる上水、一水、二水の面々は、耳にたこが出来るほど同じ文句を聞かされ、それをちゃんと覚えこんでしまう。そして順々に兵長に進級して行くと、同じ文句と同じやり方で、若い兵隊を説教する。はんこでも押したみたいにぴったり同じなのである。「近頃の若い者云々」も型としてはこれと同じだ。その時代その時代で、文句の枝葉末節に変化があるだけに過ぎない。
しかし現代においては、近頃の若い者を問題にするよりも、近頃の年寄を問題にする方が、本筋であると私は考える。若い者と年寄と、どちらが悪徳的であるか、どちらが人間的に低いかという問題は、それぞれの解釈で異なるだろうが、その人間的マイナスが社会に与える影響は、だんちがいに年寄のそれの方が大きい。これは言うまでもないことだ。若い者にろくでなしが一人いたとしても、それは大したことではないが、社会的地位にある年寄にろくでなしが一人いれば、その地位が高ければ高いほど、大影響を与えるものだ。そして現今にあっては、枢要の地位にある年寄達の中に、ろくでなしが一人もいないとは言えない。いや、言えないという程度ではなく、うようよという程度にいると言ってもいい状態である。それを放置して、何が今どきの若い者であるか。
こう書いて来ると、何か私がひどく若者の肩を持っているようであるが、実はこの小文で、近頃の文学志望の若い者に対して、老眼的視角からやっつけてやろうと予定していたのだけれども、どこかでペンがスリップして、妙な方向に来てしまった。そしてついに時間も紙数も尽き果てた。やっつけは別の機会を待つ他はない。やはり酷暑に仕事するものではないようだ。
[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年十月号『新潮』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「寥々」原義は「もの寂しいさま」であるが、ここはメインで今一つの意である「数の少ないさま」としながら、原義の寂しさをも、東京に残っている(行きどころのない)作家という筆者自身の心の寂しさとしても掛けている。
「戦後派の俊秀が、もう老眼症状になったとあっては」ここで梅崎春生は老眼様の症状を訴えているが、発表当時の春生は未だ満三十八で、確かにこれは、眼精疲労の可能性が強い(実際に翌日には回復している)。因みに、私が老眼になったのは(明白に意識し始めたのは)四十八歳の夏頃であったように記憶している(因みに私はかなり強い近眼で高校時代から眼鏡をかけている)。
「れいの新薬」「牛の脳下垂体か何かを粉末にして、それを蒸溜水に溶かしたやつ」既に梅崎春生の小説「大王猫の病気」で注しているが、再掲しておく。rattail氏のサイト「岡田自観師の論文集」(岡田自観(明治一五(一八八二)年~昭和三〇(一九五五)年)とは世界救世(メシヤ)教教主。本名は岡田茂吉)の『医学断片集二十九』(『栄光』一九四号・昭和二八(一九五三)年二月四日発行)に、
《引用開始》
近来流行の牛の脳下垂体埋没法によって、若返るとか、禿に毛が生えるとか、背が伸びるとか、皺(しわ)がなくなるとか、疲れなくなるとか、まるで牡丹餅(ぼたもち)で頬ッペタを叩かれるような、うまい話ずくめなので、その専門の医師が雨後の筍(たけのこ)のように増え、最近東京都内だけで、二百数十カ所にも及んだというのであるから驚かざるを得ない。そのため医師会の問題になり、その対策によりより合議中だが、容易に断案(だんあん)は得られないので困っているようである。
しかしこれを吾々から見ると、はなはだ簡単な話で直ちに断案を得られるからそれをかいてみよう。いつもいう通り医学の方法は、ヒロポンと同様よく効く程一時的効果でしかないから、この脳下垂体法も効果はまず数カ月ないし一力年くらいと思えばよかろう。その先は元の木阿弥(もくあみ)どころか、体内に入れてはならない変なものが入っている以上、これが禍(わざわい)をして厄介な病気になり、随分苦しむ事になろう。確か十数年前に若返り手術などといって、一時流行した事があるが、これもいつの間にか煙になってしまったのは、知る人も相当あろう。
今度の方法もそれと同工異曲と思えばいい。まず一、二年で幽霊のようになってしまうのは、断言して誤りないのである。
《引用終了》
文中の「断案」とは、ある事柄に就いて最終的に決定された考え・方法・態度のことである。さてもまた、『東スポweb』の二〇一二年十一月七日の記事に、「安直な理由で広まった“若返り”ブーム【なつかしの健康法列伝:牛の脳下垂体がブーム】」 というのがあり、昭和二七(一九五二)年に全国の医師が食肉処理場に大挙して繰り出し、牛の脳下垂体を買い求めに来るという事態が起きたとし、それが何と、『牛の脳下垂体を人間の筋肉に埋め込むと、若返りに効果絶大という噂が広がったから。大学病院の医師から開業医にいたるまで、入手希望者が殺到したという』。『施術の具体的な方法は、牛の脳下垂体の皮をむきメスで細かく刻み、細切れになったものを患者の尻の筋膜下に入れ込むというものだったらしい』とあり、『若返り希望者(需要)と、処理される牛(供給)のバランスがとれておらず「処理場では牛の頭の奪い合いだった」という記事も残っている』とある。『また、当時の医者の卵は教授から「ちょっと実験台になってみろ」と、やたらめったら尻の皮膚を削られるという悲惨な現象も起きたとか。もちろん、その若者たちが若者のままであるという事実は一切ないが…』…と、ちゃらかし、『脳下垂体はホルモンのボス的存在。どうやら「ホルモンのボスなのだから、移植すれば若返りに効果があるだろう」というなかなか安直な理由で広まったブームらしい』。『もちろん、細切れの皮1枚を移植したところで効果もなければ副作用もなかったようだ。バカらしく思えるブームだが、「若返り」と聞けば何でも飛びつく習性は、今も何ら変わってないような気もしたりして』と結んでいる。岡田の警告した副作用のなかったのはちょっと残念だが、「注射」となると、私は俄然、プリオン病のクロイツフェルト・ヤコブ病の感染が危惧されるのであるが、如何? ともかくも、梅崎先生、視力の回復はその注射のせいじゃ、ありませんぜ。しかも、医学的効果どころか、もっとアブナい病気に罹るところだったかも知れませんぜ。♪ふふふ♪
「日本人の平均年齢が以前よりぐんと大幅に引き上っていることでも判る。たしか私の小学校の頃は、日本人の平均年齢は四十五歳ぐらいであった。ところが今は、五十五歳ぐらいだったかな」厚生労働省発表のデータによれば、梅崎春生の謂いはかなり間違っている。本記事の発表された昭和二八(一九五三)年当時の日本人の平均寿命は男性が六十一・九歳、女性が六十五・七歳で遙かに高い。春生が例示している「私の小学校の頃は、日本人の平均年齢は四十五歳ぐらいであった」というのはこちらのデータによれば(春生は大正一〇(一九二一)年に福岡市立簀子小学校入学、昭和二(一九二七)年に同校を卒業している)、大正十年から十四年(一九二一~一九二四)年の平均寿命は男性が四十二・〇六歳、女四十三・二歳であるから、こっちもやはり高い。
「すなわち医業医薬の発達のため、二年間に一歳ずつぐらい引き上っている勘定になる。これが一年に一歳ずつ引き上ってくれると、どんなに有難いことだろう。そうすれば私は永久に死ななくて済む。私がいくら歳をとっても、平均年齢も同じ速度で上るから、いつまで経っても死亡年齢に到達しないからである」梅崎先生、平均年齢と個体の死は直に連動しませんぜ。それじゃまるで、ゼノンの「アキレスと亀」と同じ偽命題でがす。]
「さるエジプト学者に聞いた話だが、先年ピラミッドかどこかに発見された象形文字をその道の専門家が苦心して解読してみたら、やはりそこにも近頃の若い者が云々という文章があったそうである」これは都市伝説の類いで信ずるに足らない。まず、このアーバン・レジェンドの元凶は何と、どうもかの柳田國男の知られた評論「木綿以前の事」であるらしい。以下にその箇所を引く。第三章目「昔風と當世風」(このパートの元原稿は昭和三(一九二八)年三月に行われた彰風会での講演が最初)の冒頭に出現する(底本は昭和一三(一九三八)年創元社刊「木綿以前の事」
国立国会図書館デジタルコレクションの画像を視認した)。
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此話題はそれ自身がいかにも昔風だ。平凡に話さうとすれば幾らでも平凡に話される題目である。聽かぬ前から欠伸あくびをしてもいゝお話である。人間に嫁だの姑だのといふものゝ無かつた時代から、または御隱居・若旦那などゝいふ國語の發生しなかつた頃から、既に二つの生活趣味は兩兩相對立し、互ひに相手を許さなかつたのである。先年日本に來られた英國のセイス老教授から自分は聽いた。かつて埃及の古跡發掘に於て、中期王朝の一書役の手錄が出てきた。今からざつと四千年前とかのものである。其一節を譯して見ると、斯んな意味のことが書いてあつた。曰く此頃の若い者は才智にまかせて、輕佻の風を悦び、古人の質實剛健なる流儀を、ないがしろにするのは歎はしいことだ云々と、是と全然同じ事を四千年後の先輩もまだ言つて居るのである。
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ここに出る「セイス」という人物はイギリスの言語学者・アッシュリア学者であったアーチボルド・ヘンリー・セイス(Archibald Henry Sayce 一八四五年~一九三三年)で、広汎に未解読文字研究を行っていた(英文ウィキはこちら)。しかし、この柳田の如何にもな聴き書きの確信犯的断定は、実は全く非学術的で信ずるに足らないものであることを個人ブログ「現在位置を確認します。」の『古代エジプト人は「近頃の若い者は・・・」と言ったか? 噂の出所を探ってみた』で細部に至るまで検証されている。必読!!!
「日本でも江戸時代の文章の中に、私は同じ趣旨のものを読んだ記憶がある」Q&Aサイトの答えなどによれば、享保二(一七一七)年板行の江島其磧(きせき)の浮世草子「世間娘気質(せけんむすめかたぎ)」には『最近の若い女性は、正直であることよりも人からどう見られるかばかり気にしている』と書かれてあると断言してあり、また、こうした「今の若い者は」式の愚痴は『江戸時代の初期からすでに言われていたことは間違い』なく、例えば『江戸初期の頃のとある武士が友人に送った手紙の中で「最近の若い武士はダメだ」と愚痴を書き連ねている内容のものが現存している』とされ、『確か手紙の内容は「我々が若い頃は戦に臨むために懸命に武芸に励んでいたものだが、最近の若い武士は“稽古をしてればそれで良い”という考えばかりでダメだ」といった内容だったとは思う』とある。またこの人物はさらに、『似たような(というか同じような?)内容で、かの徳川家康も「最近の若い武士たちなんかより、戦乱の時代の女たちのほうがよっぽど勇ましかった」と述べたと記録に記されているそうで』、これはNHKの「歴史秘話ヒストリア」でも紹介されていたと明記しておられる。私は今、それらの孰れも確認は出来ないものの(「世間娘気質」は早稲田大学の「古典籍総合データベース」内に当時の公刊本の全画像があるが、とても調べる気にはならない。悪しからず)、これは極めて素直に腑に落ちる。太平の世が続いて実践経験もなく、人を斬ったことのない武士がゴマンといた江戸時代の老人は必ずや、こう言ったと思うからである。
「近頃の若い者はなどと申すまじく候」ネットを調べるにこれは、かの山本五十六大将が高橋三吉大将への書簡に認(したた)めた文言とされるようである。元は確認出来ない(というか、調べる気も起こらない)が、「今時の若い者はと憚るべきことは申すまじく候」辺りが正文か?]
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