ヌード撮影場 梅崎春生
近ごろ東京に、ヌード撮影スタジオなるものがあちこちに出現し、したがってヌード・モデルという職業やアルバイトがあらわれてきた。東京で公称のスタジオは大体十三四個所だが、もぐりの方も相当あるらしい。本領(?)はむしろそのもぐりの方にあるのだろうが、ちょっと手がかりがつかめないので、公称の方の一流どこ神田のSスタジオに出かけることにする。
このSスタジオは全国に会員三千を有し、週刊のカメラ新聞も出している由で、スタジオもなかなか立派で、十五坪ほどもある。ステージがあり、さまざまの形の照明器具、それに背景のカーテンも赤や黒や黄やビニールと、自在にとりかえられる仕掛けとなっている。
専属のモデル嬢が三人、あとは随時アルバイト嬢が呼ばれるというわけで、アルバイト嬢は女子学生や事務員だという。
その専属モデルの一人にステージに立ってもらったが、背景の色や照明の具合、またポーズの変化によって、観者の視覚をたのしませるという仕組みになっているらしい。そこで係りの人やモデル嬢に訊(たず)ねてみると、ほんとに良い写真をうつそうとやって来る人士は全体の半分以下だという。あとは好奇心、それに好色心からだ。そのほんものとにせものとは、眼の動き具合や写真機のかまえ方で直ちに弁別できる由。一流の公称業者の方でほんものは半分以下だという話だから、実数はおして知るべし。カメラを持たないでやってくるのもいるが、さすがにそんなのは断ってしまう由。
私などは女身を坦懐に視覚的にながめただけであるが、視姦的たのしみを求めてやって来るのが相当数いるのだろう。
やって来る客は、重役や高級サラリーマン、学生などで、中年男が四人ぐらいの一組でやって来て、照明も自分たちでやるからと助手を室外に追い出すようなのが一番あぶないという。扉をしめてしまえば一種の密室だから、そこでモデルにさまざまな無理なポーズを要求する。
そういう悪どいのは中老に多いが、若い学生にも時々いるとのこと。係りの人の説明によると、そういうのはふりのお客だけで、会員にはそんなのは一人もいないとのことであった。
ヌード・モデルの料金は、大体撮影者二人で一時間千円、三人四人と増すごとに割増金を取る。そのうちモデルの収入は三分、業者が七分というところ。専属モデルはその他に五千円程度の固定給をとる。アルバイトの場合では、一日三時間はだかになって九百円の収入だが、毎日需要があるわけでなく、相当な労働ではあるし、また厭なこともあるだろうから、アルバイトとして有利かどうか。スタジオ内だけでなく、出張ということになれば、車賃、食事代、宿泊費などが別に出る。
出張も都内でなく地方になれば、撮影者も集団ということになり、それに地方の人士は東京のそれのようにはだかに慣れていないらしく、眼のつけどころや視線のありどころがどうも面白くないとはモデル嬢の話。まあ地方と言っても地方によっていろいろ違うのだろう。一時間に何枚ぐらい撮るかというと、照明や背景をその度に動かしたりする関係上、十二枚程度がふつうだ。
ヌード・モデルはやはり肉体そのものが美しくなくてはいけない。近ごろファッション・モデルからヌード・モデルへ転向の向きもあるが、ファッション・モデルとしては一流でも、ヌードともなれば全然だめだというのがざらだという。すなわちファッション・モデルにはいろいろごまかし(?)的加工があるわけだ。
労働大臣許可というOモデル紹介所へまわる。ここはスタジオは持たず、もっぱら紹介だけ。ここはアルバイト嬢ばかりで、あらかじめ申し込んでおくと、その時刻に当人が出て来る。
モデル嬢の身長や胴まわりなど、くわしく記入したアルバムがあって、それを見て客の方が指定するやり方になっている。
どういうところからモデルを募集するのかと訊ねてみると、職業安定所にも申し込んであるし、またどこから聞いて来るのか単身直接にやって来るのもいるという。それを一応はだかになってもらって、ヌード・モデルに適するかどうか審査するのだが、顔がよくても胸がべちゃんこだったり、乳が立派でも他の部分が貧弱だったり、採用できるのは三十人に一人だとのこと。目をつむってはだかになればそれで金になるというものではないそうである。
私はカメラ(またはだかの女身)に対して没趣味であり、そこで局外者としてではあるが、やはりこれは現代の頽廃(たいはい)の表情のひとつであるという感じを持った。
[やぶちゃん注:昭和二九(一九五四)年六月二十四日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。
「ふりのお客」「フリー」と勘違いしている若者がいるかも知れぬので注記しておくと、「ふり」は「振り」で日本語である。原義は恐らく「振り売り」(棒手振り(ぼてぶ)り。荷を下げたり担ったりして声を上げながら売り歩く行商人)を指す「振り」と思われる。彼らの特徴は特定の場所に店を構えることなく、街頭の「流し」で、小学館の「日本国語大辞典」では「ふり」の意の四番目に、この意を挙げた後、次の五番目に形容動詞として、『近世以降、料理屋、旅館、茶屋、遊女屋などに客が来る場合に、紹介や予約なしに、だしぬけである。なじみでなく、一見(いちげん)であること。突然であること。また、そのさま』とあるからである。なお、とあるQ&Aサイト(変転激しく両者匿名、答えの根拠も示されないケースも多いので、私はこういうサイト・ページのリンクは原則、貼らないことにしているが、引用その他、相応に堅実な方のお答えと拝察したによって例外的に張っておく)の答えに『「近年女かみゆひ行われてより、在るは月極メあるはふり、ふりの本結は弐百に極まる」(「当世きどり草」)といった記述がありますから、ここからも「極め」と「振り」の対照的な関係が忍ばれます』(「當世氣どり草」は「當世氣轉草」とも書く安永二(一七七三)年板行の金々先生作の洒落本。安原平助出版)。『更には、花柳界では一見(いちげん:一=初めて、見=見参の略)の客、つまりは馴染みや常連ではない客を、このような「極め」と「振り」の見方を重ねて、「フリの客」とも称したのかも知れません』。『定まった得意先とか予約や契約をしてくれる常連を「極めの客」としたならば、予告もなく突然訪れる馴染みでもない「振りの客」という事ではないでしょうか』とあり、非常に納得出来た。]
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