甲子夜話卷之二 15 竹橋の御多門、古空穗の事
2―15 竹橋の御多門、古空穗の事
多紀安長【名元簡、号桂山】の話しと覺ふ。近き頃竹橋の御多門修造のとき、その中に藏せる古靭を修復せられしに、其破めを見れば、はりぬきなるが、皆首帳の反古を以てせり。
其姓名大阪御陣のときの人なりしと云。當年の有さま思はかるべし。
■やぶちゃんの呟き
「竹橋の御多門」江戸城内郭門の一つである「竹橋御門」別名「竹橋見附門」のことと思われる。北の丸の南東で清水門と平河門との間にあったが、現存しない。ブログ「大江戸歴史散歩を楽しむ会」の「竹橋御門」で往時の画像その他が詳しく見られる。
「古空穗」「古靭」孰れも「こうつぼ」と訓ずる。古い「うつぼ」(漢字表記は「靫」とも:矢を携帯するための筒状の容器で、竹などを編んで毛皮を張ったものや、練り革に漆をかけたものなどがあり、右腰に帯した。矢を携帯する際、矢羽を傷めたり、篦(の:矢の主幹たる竹の部分。矢柄(やがら))が狂ったりするのを防ぐためのもの。
「多紀安長」医師多紀元簡(たきもとやす 宝暦五(一七五五)年~文化七(一八一〇)年)。元簡が本名であったが、長じて安清・安長と改めた。ウィキの「多紀元簡」によれば(アラビア数字を漢数字に代えた)、『多紀元徳(藍渓)の長子として生まれる。儒学を井上金峨に、医学を父について修めた。安永六年(一七七七年)に将軍・徳川家治にお目通りが許される。寛政二年(一七九〇年)、老中の松平定信にその才を信任され』、『奥医師に抜擢、法眼に叙せられ』て『徳川家斉の侍医となる。寛政三年(一七九一年)に父の主宰する躋寿館が官立の医学館となるとその助教として医官の子弟の教育にあたった。寛政六年(一七九四年)に御匙見習となる。寛政十一年(一七九九年)に父が致仕し家督を相続。同じ年の八月には同族の吉田沢庵とともに御匙役となった。享和元年(一八〇一年)、医官の選抜に関して不満を直言したため、奥医師を免ぜられて寄合医師に左遷された。文化三年(一八〇六年)に医学館が類焼し、下谷新橋通(向柳原町)に再建し転居した。文化七年(一八一〇年)に再び奥医師として召し出されたが、その年の十二月二日に急死した』。『考証学者などと交わり、古医学書の蒐集・校訂・覆刻につとめ、のちの伊沢蘭軒・多紀元堅・小島宝素・渋江抽斎・森立之らにみる考証医学を確立した』。
「近き頃」静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは文政四(一八二一)年であるが、話主多紀安長はその二年前の文化七(一八一〇)年に亡くなっている。彼「の話しと覺ふ」謂い添えているから、この執筆よりも十年以上は前であろう。
「首帳」「くびちやう(くびちょう)」と読む。合戦の際、討ち取った首と、これを討ち取った者の名前を記した帳面。「首注文」とも呼ぶ。
「はりぬき」「張り拔き」。型に紙を何枚も張り重ねて乾かして後、中の型を抜き取って作った細工物を言う。
「反古」「ほうぐ・ほぐ・ほうご・ほご」などと読み、「反故」とも書く。書画などを書いて後、不用となった紙・書き損じの紙の意であるが、論功行賞後の前者の意であろう。

