譚海 卷之一 壽老人畫の事
壽老人畫の事
〇華人(くわじん)壽老人(じゆろうじん)の畫には、四邊に五色の蝙蝠をゑに書(かく)事也。又祝儀の畫には蜂と猴(さる)とをゑがく也。封侯のこゑを尊(たつと)むゆへなりとぞ。
[やぶちゃん注:「華人」中国人。
「壽老人」「蝙蝠」ウィキの「寿老人」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、記号の一部を省略した)。『道教の神仙(神)。中国の伝説上の人物。南極老人星(カノープス)』(Canopus:竜骨座α星で同座の中で最も明るい恒星であるが、本邦では東北地方南部から南の地域でしか観察出来ず、見える地域でも南の地平線・水平線のごく近くで、肉眼による視認は大気汚染などによって年々難しくなっている。私も数度しか見たことがない)『の化身とされる。七福神の一柱』。『真言(サンスクリット)は、「オン
バザラユセイ ソワカ」(普賢菩薩の延命呪と同じ)』。酒を好み、『頭の長い長寿の神とされる。日本では七福神として知られているが、福禄寿はこの寿老人と同一神と考えられていることから、七福神から外されたこともあり、その場合は猩猩が入る。寿老人は不死の霊薬を含んでいる瓢箪を運び、長寿と自然との調和のシンボルである牡鹿を従えている。手には、これも長寿のシンボルである不老長寿の桃を持っている』。「七福神」を解説したサイトの「鹿を伴った寿老人と藤原氏の謎」によれば、『日本人にとつて、寿老人は福禄寿よりさらに馴染みの薄い神である。次項の自家(自髭)神社を別にすれば、寿老人を主祭神とする神社は、日本に一つもみられない。室町時代に中国文化にあこがれる禅僧が、福禄寿と寿老人の信仰を取り入れた。しかしこの中国人に人気のあった二柱の神様は、日本では禅寺の外にはほとんど広まらなかった』。『そのため七福神巡りの時に、寺院が本尊とは別に祭る福禄寿像や寿老人像を拝むことが多い』。『寿老人は杖を持ち、杖に巻物をぶら下げている姿に描かれることが多い。この巻物は「司命の巻」と呼ばれる一人一人の人間の寿命を記したものだといわれている』。『中国の寿老人の絵に、蝙蝠と鹿が添えられていることが多い。中国の蝙蝠の蝠(ホ〔フク〕』)『の音が福(ホ〔フク〕と同じで、鹿(ロク)と禄(ロク)の音も共通する。そのために蝙蝠や鹿は、福をもたらす縁起の良い生き物とされた』(下線やぶちゃん)。『日本には蝙蝠を好む風習はみられないが、鹿は春日大社(奈良市)や鹿島神宮(茨城県鹿島市)の神様の神使とされていた。春日大社は、朝廷で最も有力な貴族である藤原氏の氏神で、日本国内に多くの分社をもつ』。『春日信仰をもつ人びとが、鹿を従える寿老人に親近感を感じ、寿老人を福の神として重んじる集団の中心となったのであろう。しかし個性のないありふれた上品な老人の姿をした寿老人は、印象が薄かった。そのため寿老人が庶民に馴染み深い福の神となっていくのは、江戸時代に入ってからであると考えてよい』とある。なお、同サイトには「福禄寿と寿老人は混同されながらも、別々の神として日本に入ったのはなぜ?」というページがあり、そこには以下のようにある。北宋の元祐年間『』(一〇八六年~一〇九三年)に、『老人星の化身とされる一人の老人が都(開封)に現われたと伝えられている。その老人は身長がわずか三尺』(九十センチメートル)『で、体と頭とが同じ大きさであったという』。『老人は整った顔で長い髯を生やし、市に出て占いをして生計をたてていた。銭が入ると、酒代にした。老人はしばしば自分の頭を叩いて、「我が身は、寿命を益する聖人である」と言っていたという』。『老人の名前は、伝わっていない。しかもこの占いをした老人の伝承の、どこまでが事実であるかも明らかではない』。『しかし「私は南極星の化身である」と自称する異相の老人が存在したことに』よって、『福禄寿信仰が起こった可能性は高い。彼がのちに信仰の対象とされて、北宋後の南宋』時代(一一二七年~一二七九年)『あたりにその不思議な老人をもとにした福禄寿の絵が描かれるようになったのであろう』。『道教の開祖である老子は、中国で広く祭られていた。この老子が、仙人になって不老不死になったとする伝えもあり、老子は長寿をもたらす神としても祭られた。そのため老子の信仰と南極星の信仰とが融合して、寿老人という神がつくられた。寿老人像は老子像に似た、長い髯の上品な老人の姿に描かれた。北宋の時代に、寿老人が開封に現われたとする次のような伝説もある』。『「開封の町にただ者と思えない神々しい威厳を持つ老人が現われたので、皇帝が宮殿に招き入れた。そうしたところ老人は酒を七樽も飲み干して姿を消した。皇帝が不思議に思っていると、翌日になって天文台の長官が、『昨夜、南極星が帝星のそばで見えなくなった』と報告してきた』。これによって『皇帝は、先日の品の良い老人が寿老人であると知った」この話は後世の人間が、寿老人の権威を高めるために創作したものであると考えられる』。『鎌倉時代の日本の禅僧は、南宋のさまざまな文化を学んでいた。中国の南宋代に別々のものとして祭られていた福禄寿と寿老人の信仰は日本ではまず南宋との関わりの深い禅寺に伝えられ』、『福禄寿は室町時代に七福神とされたが、寿老人はそれより遅れて江戸時代なかば過ぎに七福神に加えられた』と解説されてある。ウィキの「福禄寿」の方を見ると、『中国では、鶴・鹿・桃を伴うことによって、福・禄・寿を象徴する三体一組の神像や、コウモリ・鶴・松によって福・禄・寿を具現化した一幅の絵などが作られ広く用いられた』(下線やぶちゃん)とある。これは本邦の富岡七十九歳時の「寿老図」であるが、蝙蝠がはっきりと見える。
「蜂と猴(さる)」「封侯のこゑを尊(たつと)む」ブログ「鳥獣画家・佐藤潤の世界」の「猿猴図(桜と猿と蜂)」に佐藤潤氏御自身の素敵な絵とともに、『猿と蜂の組み合わせは立身出世の組み合わせです』。『中国では「猿」は「猴」とも書き、音が「侯」に通じ』、『「蜂」の音は「封」(領地を与えられ爵位を受けること)に通じますので「封侯」(侯に封ぜられる=出世)の意味となるのです』と解説を附されておられる。]
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