佐渡怪談藻鹽草 窪田松慶療治に行事
窪田松慶(くぼたしようけい)療治に行(ゆく)事
窪田松慶といへる外科醫師有(あり)。柴町に住(すみ)けるが、享保の始(はじめ)、初冬の事なるに、或夜、寒冷常ならず、寒け立(たち)ければ、
「いざ寢て、あたゝまらん」
迚(とて)、亥の刻斗りに、夜具抔(など)あたゝめて居る處へ、門より下司人の聲して、
「窪田松慶樣の御宿は、爰(ここ)にて候哉(や)」
と問ふ。
「成程」
といらゑしかば、
「急病有て、御迎(おむかへ)に參りたり。とくとく」
と申(まうす)にぞ、召仕(めしつかへ)の男は、所用にて外へ遣(つかは)しぬ。
「今少し待れ候得」
と申しければ、
「駕籠を持(もち)て參りたり。御藥箱を持(もつ)者も參りたり。一刻も早く、御出被下(おいでくだされ)かし」
と申にぞ、松慶申けるは、
「然らば、金瘡などにて候哉(や)」
と尋しかば、
「成程、手負人有て、御迎申(まうす)」
と答ふ。
「いざゝらば」
とて、急ぎ、寢卷の上に、小袖着て、胴服引かけ、藥箱懷中して、立出(たちいで)ければ、駕籠の戸明(あけ)て、打(うち)乘せて、飛(とぶ)が如くに行ける。折しも、闇の夜なれば、木傳ふ風の音のみ、諷(うた)ふと吹落(ふきおち)て、肌をおゝし行(ゆく)程に、七八丁も行(ゆき)て、鍵に登る心地して、川を右にして、ひたすら行し折々、駕籠の窓すだれの透(すき)よりみれば、山林高く見ゆ。何國とも分難(わけがた)し、また問(とふ)べき心も付(つけ)ずして、ひたすら行(ゆく)程に、最早、壱里も來ぬらんと思ふに、忽然として、向ふに大なる兩開の門有。
「是は何方(いづかた)にや、かゝる門の有(ある)家居迚(とて)、近在に覺えず」
と思ひ、駕籠のものに、
「是は門にや」
と問へば、
「さん候」
と答ふ。さらば
「下りて、拾ひ候半(さうらはん)にや」
といへば、
「急病の事に候得ば、苦(くるし)からず、しかしか」
と斷(ことわり)ければ、門の番人、其儘通しぬ。夫より、四五拾間も行て、或(ある)臺に至る。
「窪田松慶樣、御出」
と言へば、袴羽織着たるもの、四五人出て向ふ。駕籠より下り、辭儀して、玄關に至りて見れば、床餝、武道具のきらびやかさ、尋常にあらず。をよそ弐拾疊にも、敷(しく)候わんと覺ゆ。夫より、招請して、石爐に炭火を小山の如く起し、火體弐ツ、たばこ盆備へて、待(まち)たる風情也。金屛風の照りもまばゆく、衣服の無造作を恥(はぢ)る心持にて居たるに、年の程、五十才餘の人、骨柄宜(よろ)しきが、羽織袴、長き脇差を帶して出(いで)、
「是は松慶樣、遠方へ御招申(おまねきまうす)事、無據(よんどころなき)急病人有て、主人方より、迎(むかへ)を遣る處、早速御出(おいで)忝存候(かたじけなくさふらふ)。夫(それ)、御茶を」
といへば、角前髮の小姓、菓子盆持(もち)、茶を持て出(いで)、ふんふんたる薰り、田舍の花香とも覺えず。弐三碗給(たまひ)て後に、
「御病人樣は、何方(いづかた)に」
と問へば、
「暫(しばらく)、御待候へ。主人へ申聞(まうしきく)べく」
由を言て、良(やゝ)有て、七旬餘りの禪門、白小袖に十德を着て出て、
「是は是は松慶老、夜中と申(まうし)、遠方の御出、過分に存(ぞんづ)る。隨而(したがひて)、申進候(まうしすゝめさうらふ)は、末子義、怪我をいたし、手薄なる生故(ゆえ)、なやみ申(まうす)間、金瘡の樣子、見て貰ひ申(まうし)たし。是(これ)へ是へ」
と、立て入る。心ならず、松慶も、頓首する程に、人物終(つひ)に見し人は壱人もなし。其奧の間に至れば、金銀の屛風を引𢌞し、病人と覺しく、中央に、蒲團うづ高く重ね、其上に十三四斗(ばかり)の美少人、鉢卷をして、白め成(なる)小袖を着し、胸息によりて、顏をしかめ居たり。近邊にて、看病と覺しく、男女大勢詰(つめ)居たり。件(くだん)の禪門、
「いざいざ疵(きず)の樣子を、懇(ねんごろ)に見て給(たまは)り候へ」
と申(まうせ)ば、
「近く寄(より)て、御疵を伺ひ申(まうし)たし」
と申せば、側へ立寄、疵を卷(まき)たる衣類をほどけば、いまだ血とまらず、流るゝより、血留を以て覆ひ、其樣子を見るに、切先にて、突(つき)候樣成(やうなる)疵、二ケ所、さして深手にもあらず。仍て、松慶申けるは、
「當分の御(おん)疵にて候。必(かならず)御安事(おんやすきこと)被成間敷候(ならせまじくさうらふ)。血止り候得ば、格別疵は、少く見え候(さうらふ)物にて候。此血止を能々御用ひ、其上へ、只今調合申(まうす)膏藥を、御張被成候得(おんはりなされさうらへ)ば、疵も早速留(とま)り可申(まうすべし)」
と申せば、老人を始め、一座の面々、嬉し候(さうらふ)に興じて、
「いざ松慶樣へ、御酒一つ、參らせよ」
といへば、以前の席へ案内して、吸物盃小付など出(いだ)し、種々饗應ける有樣、言葉に述(のべ)がたし。
「夜中なれば、御暇」
とて、罷立(まかりたて)ば、前の挨拶人、懇(ねんごろ)に禮を申(まうし)て、
「膏藥抔(など)、したゝめ置(おき)、一兩日中に、又御見舞可申(まうすべし)」
とて、立出(たちいづ)。夫(それ)より駕籠を早め、暫くの内に、我宿の前に來り、
「いさ、御歸り」
と、門より聲すれば、宿所にも、起居て迎ふ。扨(さて)、松慶は、
「駕籠の衆暫く、茶を一ツ」
と申て、立出(たちいで)みれば、早歸(かへり)たり。召遣ひの男に、
「追掛(おひかけ)て御主人の名を問へ」
といひ、追掛たれど、跡形もなく、松慶も、忙然たる心地にて、後悔しぬ。其夜、寺田彌三郎と言(いふ)士、下戸御番所の邊にて、怪異の物を切(きり)しよし、後に思ひ合(あは)すれば、松慶が療治に行し所はニツ岩團三郎ならんか。
[やぶちゃん注:この話、江南文三のエッセイ「佐渡が島から」(大正一四(一九二五)年一月刊『明星』初出。私は不所持であるが、今回、「青空文庫」に同話の伝承型と本篇の簡単な梗概が収録されていることを知った。リンクはそれ。作者江南文三(えなみぶんぞう 明治二〇(一八八七)年~昭和二一(一九四六)年)は石川県出身の詩人・歌人。東京帝国大学に入学した明治四三(一九一〇)年から石川啄木の後を受けて『スバル』の発行・編集人となり、同誌の全盛期を創り、自らも詩歌・小説などを発表し、大学卒業後は千葉や東京などで中学教師をした。著作に「日本語の法華経」など)。参照されたい。
「窪田松慶」不詳。上記の江南の聞き取りでは「瀧浪玄伯」という名の医師である。
「柴町」現在の佐渡市相川の北辺部に柴町(しばまち)が残る。
「享保の始」「享保」一七一六年から一七三五年。始めであるから、一七二二年ぐらいまでか。
「亥の刻」午後十時頃。
「下司人」「げすにん」。ここは身分低い役人の意か。下賤の者の意もあるが、このシークエンスではその声掛けの言葉遣いの感じから、それは判ろうというものである。
「成程」肯定を表わす感動詞。「いかにも」「たしかに」。
「召仕(めしつかへ)の男は、所用にて外へ遣(つかは)しぬ」たまたま助手(下男並みか)は外に用事があって遣わしていたために、実動出来るのは松慶だけであった。訪問者とやり取りさせ得るレベルの者も家内いなかったということである。
「金瘡」松慶は外科医であるから、頻りに急いでいるところからは金属性の武器や道具によって受傷したかなり大きな創傷かと問診したのである。
「胴服」「どうぶく」と濁る。羽織の古称。
「諷(うた)ふと吹落(ふきおち)て」「♪ヒュウーッツ♪」っと、あたかも声に節をつけ、抑揚を持たせて唱える歌うかのように風が木立から吹き落ちてきて。
「肌をおゝし行(ゆく)」「おおす」は恐らくは「おほす」の歴史的仮名遣の誤りで、「負ほす・課す・科す」と書き、肉体的(或いは精神的)な重荷を身に受けさせるを原義とするサ行下二段活用の他動詞であろう。あまりに風が強く、駕籠の中にいても隙間から入ったその風が、肌を有意に風圧が感じられる、圧されるのが実感されるままに行く、の意ととる。
「七八丁」七百六十四~八百七十三メートルほど。
「鍵に登る心地して、川を右にして、ひたすら行」鉤(かぎ)の手に直角に曲がったかと思うと川を右手に見せて登ってゆく感じで、というのである。現在の相川柴町から直線で一キロほど南下すると、川があるが、その手前、現在の相川下戸浜町(おりとはままち)の交差点の手前を右に直角に折れて(左に折れたら海)行くと、右に川を見ながら、少し行くと、川を渡って(現在は、である。河川状況を見ると上流に断絶した流域や溜め池のようなものがあって、やや不審。或いは江戸時代は流域が違っていた可能性もある。なお、この「下戸」は本篇の最後で武士が変化(へんげ)の「もの」を斬った地名と一致していることにも注意されたい)地蔵権現大神から山裾を南に回って二ツ岩神社、そこを東に折れて山に向かえば、その山道の彼方には、実に先の「鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事」に出た、まさしくかの団三郎狸所縁とされる二ツ岩大明神があるのである。私はこのルートを私のロケ地に選ぶ。
「何國」前にも感じたが、或いはこれで「いづく」(どこ)と訓じているのかも知れぬ。それで私は読む。
「問(とふ)べき心も付(つけ)ず」使者の者らに訊ねようとする気も起こらず。かなりのペースで急いでおり、風も強ければ、遠慮したともとれなくはないが、寧ろ、明らかに訳のわからぬ場所へ向かっているのだから、詰問する気にならなかったというのは自然ではない。即ち、その不思議で迂闊な心の持ちよう自体が、松慶が知らず知らず、異界への通路を通り抜けている証左ともなっているのだということに気づかねばならぬ。
して、ひたすら行(ゆく)程に、最早、壱里も來ぬらんと思ふに、忽然として、向ふに大なる兩開の門有。
「家居」「いへゐ」。家。住まい。
「さん候」「さにさうらふ」の転訛したもの。さように御座いまする。
「拾ひ候半(さうらはん)にや」格式の高い武家屋敷らしい大門であるから、松慶は駕籠を下りなければならぬと判断し「徒歩で参りましょうか?」と使者に問うた(と私はとる)のである(だから「門の番人」もまた、その使者の言ったように、咎めもなしに「其儘通し」た、というのである)。但し、「拾ふ」は、雨などでどろどろになった道をぬかるんでいない箇所を拾うようにして「歩く」ことから転じた尊敬語で、厳密には自分の徒(かち)歩きに使うと自敬表現となってしまい、厳密にはおかしい。
「四五拾間」七十三~九十一メートル。エントランスも長い。広大な屋敷である。
「臺」高い建物の謂いであるが、私はこれは「式台・敷台」、玄関の上がり口にある一段低くなった板敷きの客を送り迎えする場所と読む。
「床餝」「とこかざり」と読む。玄関の間にある掛物や花・置物。
「武道具」しかし、本来の武家屋敷の玄関の間はこんな奢侈はしない。
「弐拾疊にも、敷(しく)候わんと覺ゆ」「敷(し)く」は当て字でカ行四段活用の自動詞「若(し)く・如(し)く・及(し)く」で「及ぶ」「匹敵する」「相当する」の意であって四十枚の畳を「敷」いたほど、という意味ではない。玄関の間だけで、二十畳にも及ばんとする広さに感じた、というのである。……しかし……案外、団三郎の金玉の皮敷きだったりして、ね(あれは八畳敷だけど、団三郎はスケールが五倍違ったりして)……ふふふ♪
「石爐」巨大な石製の火鉢。
「火體弐ツ」「くわたいふたつ」と読んでおく。前述のような大火鉢を二基、の意でとっておく。
「衣服の無造作を恥(はぢ)る心持にて居たる」松慶は寝巻に小袖、それに防寒用のぶくぶくの羽織を引っ掛けた、何とも不格好にして無様な姿であることに注意。
「骨柄宜(よろ)しきが」肉体的な人体(じんてい)とそこから受ける人柄及び着こなしも含んだ風采(ふうさい)総てが如何にも相応の格の御方と思しい御仁が。
羽織袴、長き脇差を帶して出(いで)、
「角前髮」「すみまへがみ」。江戸時代の元服直前の武家の少年が結った髪型。ウィキの「角前髪」によれば、『通常の少年の髪形と同様に髷を結んで前髪を垂らすが、前髪の生え際の左右を角を立てるように小さく剃り込んである』髪型を指し、『元服の際は、この角前髪から前髪を落として大人の髪型(銀杏髷など)にする』。
「小姓」「こしやう(こしょう)」高位の武家や貴人の側近くに仕え、身の回りの雑用を務める少年。
「ふんふんたる」「ふんぷんたる」。「芬芬たる」と書き、においの強いさま。多くは、よい香りに用いるが、悪臭にも使う。
「七旬餘り」七十歳ほどの。
「十德」「じつとく(じっとく)」。室町時代に下級武士の着た、脇を縫った素襖(すおう:直垂(ひたたれ)の一種で、裏をつけない布製のもので菊綴(きくとじ)や胸紐に革を用いたものを指す。略儀式の服装。室町時代には庶民も常用した)のこと。江戸時代には腰から下に襞をつけて医師・儒者・絵師などの礼服となった。絹・紗(しゃ:生糸を絡み織りにしたもので軽く薄い)などを用い、色は黒に限った。「じっとく」は当て字で、この様式であった昔の僧衣「直綴(じきとつ)」が転じたものともいう。
を着て出て、
「手薄なる生故(ゆえ)」深く突き刺したり抉るような深いものではないが、身体の表面を「ごく薄く」広く「削いだような」形状の受けたばかりの「生」傷(なまきず)であるために。
「なやみ申(まうす)間」痛がって苦しんでおりまするによって。
「心ならず」特に意識して確認したわけではないのであるが。
「頓首する程に、人物終(つひ)に見し人は壱人もなし」挨拶した、最初使者らも、門番も、出迎えた四、五人の羽織袴の下士らも、出迎えた「五十才餘」のがっしりとした武士も、「角前髮」の「小姓」も、七十歳余りの禅僧姿の男も皆々(有に十人以上である)、未だ嘗て見知った人は一人もいなかった、と言うのである。或いはプレで次のシーンの患者である少年の周囲にいる「看病と覺し」い「詰(つめ)居」る「男女大勢」もそれに含むと読んでもよいであろう。
「胸息によりて」激しく息をし、胸部もそれにつれてひどく上下している様子を描写したものであろう。何らかの感染症などの症状ではなく、一種のショック状態による、過呼吸のような発作と見られる。
「仍て」「よつて」。そういう見立てと決したによって。
「當分の御(おん)疵」差し当たって、見たままの傷。大した傷ではないという意。
「必(かならず)御安事(おんやすきこと)被成間敷候(ならせまじくさうらふ)」意味不詳。「御安き事(なる疵にて候)。(重き樣(やう)には)必ず成らせ間じく候ふ(疵にて候ふ)」でなくては意味が通らぬ。「ご安心戴いて問題のない軽い傷にて御座います。重い症状になるというようなことは、決してない傷にて御座います」であろう。私はそれで通して読む。
「血止り候得ば、格別疵は、少く見え候(さうらふ)物にて候」出血が止まりさえ致しますれば、見れば、傷は思ったよりもごくごく少なく、極めて小さなものであることがお判りになるでしょう、というのである。ショック状態が激しく、血圧が上がり、激しい出血が激しいために、傷痕が実際以上に大きなものに見受けられるだけで、至って傷は軽度のものです、というのである。
「血止」「ちどめ」血止薬。これは傷口に直接添加封入するタイプのものであろう。直後に「其上へ」膏薬をお貼りなされば、と述べているからである。
「嬉し候(さうらふ)に」如何にも嬉しそうに、の謂いであろう。
「御酒」「ごしゆ」。
「參らせよ」差し上げよ。
「小付」「こづけ」。酒肴として出す小鉢や小皿に盛った料理。つきだし。
「饗應ける」「もてなしける」と訓じていよう。
「前の挨拶人、懇(ねんごろ)に禮を申(まうし)て」最初に出迎えて挨拶した五十絡みの男である。ここはその男が松慶に改めて往診の御礼を申し、されば、それに最後に松慶が「膏藥抔(など)、したゝめ置(おき)、一兩日中に、又御見舞可申(まうすべし)」(「血は直に止まりますが、その予後に貼付する膏薬などを処方致しました上(或いはここは「当座の膏薬はすでに処方して置いてありますから」の意かも知れぬ)、一両日中には、また、再往診申し上げましょう」)と述べたのである。末尾のジョイントが、その台詞と上手く繋がっていないのが私にはやや気になる。
「いさ、御歸り」「さあて! 御主人様のお帰りぃ!」。送った使者の言上げであろう。これが変化の「もの」の退場の言上げともなっているのである。
「後悔しぬ」治療代を貰わなかったからではない。悪意はないとは言え、全体、変化の「もの」に誑かされた事実に悔しい思いをしたのである。但し、先に示した江南の聞き取りではかなり違う。彼『の聞いた話では、歸るとき先方で、實は自分は二つ岩團三郎であると打ち明けて、お禮として錢差に差した一さしの金を寄越して、これは極めて輕少だが、いくら費つても最後の一文だけを殘しておけば再びもと通りになるのだから、人に隱して子孫へ傳へるやうにと言ふ事だつたさうです。處が、子孫のなかに言ひ付けを守らない男が出てみんなつかつてしまつたので、もう決して殖えなくなつたが、其錢差だけは今も尚瀧浪家の神棚に下げてあると言ふ話です。瀧浪の子孫の家は私の家から一二町南にあります。二つ岩道へ出る處にありますが、昔大した醫者の居た家とは思はれない家構です』とある。最後の掟が破られることによって呪力が永遠に失われる典型譚の、実に興味深いヴァリエーションである。
「士」武士。
「下戸御番所」現在の相川下戸町(おりとまち)及び「下戸」地区附近(前の注に出した相川下戸浜町の南には「下戸炭屋町」「下戸炭屋裏町」最北には「下戸村」さえも現存する)にあった佐渡奉行所の番所。]