甲子夜話卷之二 11 佐野肥後守發句の事
2―11 佐野肥後守發句の事
述斎又云ふ。今御普請奉行を勤むる佐野肥後守は長厚醞藉の人なり。常に俳諧などするにもあらず風と思ひ出ることを戲に俳句に云て人を笑はすること往々有とぞ。元日の雪を、途中筍輿の中にて思ひよりしとて語りしとなん。
元日や年の頭につもるゆき
又去冬の末に歳暮の句とて、
辛 巳
からき身の年も積けり無事の暮
此人御目付より京町奉行迄經歷せしが、近頃冷局に移りぬれば、其意も含めるにや。さりとは殊勝なる句作りとて、林子語れり。因て又云ふ。柴野栗山【彦助、邦彦】嘗て言しは、昔人の詩も歌も、皆其腹より出たるまゝなり。今の詩歌は、古人の詞を上へやり下へやりて拵たるものにて、ほんの腹より出たるは稀なり。但俳句計は皆各ほんに腹より出るなりと言しが、おもしろきことなりと語られぬ。
■やぶちゃんの呟き
前の「元日の雪、登場のとき輕卒の人の事」と話者が林大学頭述斎で直連関し、しかも話柄に雪・元旦と応じており、また、前話が匿名乍ら、「眞に見苦しく」て「其身柄不相応」なる如何にも情けない「歷々の人」物であるのに対し、この主人公は相応の人格者で、ぐっと賞揚されるという対称性も際立っていて、並置して実に面白い。
「佐野肥後守」旗本佐野康貞なる人物と思われる。
「長厚醞藉」「ちやうこううんしや(ちょうこううんしゃ:或いは後は「をんしや(おんしゃ)」と読んでいるかも知れぬ)」。どっしりとして大きく、奥ゆかしく穏やかにして寛大な人格を指す。「醞藉」は「蘊藉」「溫藉」に同じい。
「風と」「ふと」。
「戲」「たはぶれ」。
「筍輿」「たけこし」。竹で編んで作った輿。
の中にて思ひよりしとて語りしとなん。
「年の頭につもるゆき」「歳」(おのれの齡(よわい))の白髪頭に掛ける。
「去」「さる」。次注参照。
「辛巳」底本では「辛巳」(かのとみ)がルビ状に句の「からき身」(危うい身の上)の右に附されてあり、当年の歳末吟として干支を掛けたのである。前の同じ林の話が特異点で文政五年と明記されてあることから、その前年の辛巳の文政四(一八二一)年のことと判る。されば前の「去(さる)」の謂いもぴったりくる。
「京町奉行迄經歷せし」佐野康貞は文化一〇(一八一三)年から文政二(一八一九)年まで京都町奉行を勤めている。
「冷局」「れいきよく(れいきょく)」と音読みするか。所謂、「閑職」の謂いであろう。「御普請奉行」を指して言っていることが判る。京町奉行(千五百石)よりも役高は上(二千石)であるが、土木・上水管理で、派手な職ではない。
「因て又云ふ」そこで林大学頭は言い添えて言った。
「柴野栗山【彦助、邦彦】」(しばのりつざん 元文元(一七三六)年~文化四(一八〇七)年)は「寛政の三博士」(寛政期に昌平黌教官を務めた朱子学者三人。「寛政の三助」とも称した。彼の他は古賀精里・尾藤二洲であるが、古賀精里の代わりに岡田寒泉とする場合もある)の一人として知られる儒学者。ウィキの「柴野栗山」によれば、邦彦は名、彦輔は字(あざな)。元文元(一七三六)年に『讃岐国三木郡牟礼村(現:香川県高松市牟礼町牟礼)で誕生』、寛延元(一七四八)年、十二歳の時、『高松藩の儒学者後藤芝山の元へ通い、儒学を習』い、宝暦三(一七五三)年、『中村文輔と共に、江戸に赴き』、『湯島聖堂で学問を学んだ』。『湯島聖堂の学習を終えた柴野は』、明和二(一七六五)年に『高橋図南から国学を中心に学問を学び』、その二年後には『徳島藩に儒学者として仕えるようになった』。その翌明和五(一七六八)年には『徳島藩主・蜂須賀重喜と共に江戸に再度』、赴き、後の安永五(一七七六)年からは『徳島藩当主の侍読に就任』、天明七(一七八七)年には、『江戸幕府老中松平定信から呼び出され、幕府に仕えるように勧められた。以後幕府に仕え、寛政の改革に伴う寛政異学の禁を指導するなどの評価が高まり』、遂に寛政二(一七九〇)年、『湯島聖堂の最高責任者となっ』た碩学である。
「拵たる」「こしらへたる」。
「ほんの腹」「本の腹」。本当の感懐。
「但俳句計は」「ただし、俳句ばかりは」。
「各」「おのおの」。
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