譚海 卷之一 太神樂者巫女關八州支配の事 附東照宮御影の事
太神樂者巫女關八州支配の事 附東照宮御影の事
○太神樂(だいかぐら)の者巫女(みこ)の類は、關八州(くわんはつしう)徘徊の分は淺草三社權現神主(かんぬし)田村八太夫支配也。西國の事はいかゞあるにやしらず。右三社權現の内陣に、東照宮の御影(みえい)有(ある)由田村氏の物語也。又淺草御藏前(おくらまへ)西福寺にも東照宮の御影あり。毎年三月・十月十七日に拜まする、諸人參詣拜禮す。尊影は甲冑の畫也とぞ。
[やぶちゃん注:「大神樂(だいかぐら)の者」元来は、伊勢神宮へ一般の参詣人が奉納する神楽で、御師(おし)の邸内で行われたもので、「大神楽」「代神楽」「太太(だいだい)神楽」などとも書いたが、それから転じたものが江戸時代には大道芸となっていた。最初期には伊勢神宮や熱田神宮の下級神官が全国各地を巡っては神事としての獅子舞い(二人立ちの獅子であるが一人立ちで舞うことも多かった)を行う伊勢神宮の宣伝班のようなものであったものが、さらには獅子を舞わせて「悪魔払い」「火伏せ」などを祈禱を行い、ひいては曲芸や狂言風の掛合芸などを演ずるようになって、庶民の人気を呼んだ。
「巫女(みこ)」ここは中世以降の「渡り巫女」「歩き巫女」のこと。ウィキの「巫女」によれば、『祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされる』。『旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていたが、必ずしも流浪していたわけではな』く、一部は『後に寺社の「お抱え」となる集団もあり、男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた』とある。
「關八州」江戸時代の関東八ヶ国の総称。相模・武蔵・安房・上総・下総(しもうさ)・常陸・上野(こうずけ)・下野(しもつけ)。
「淺草三社權現」現在の東京都台東区浅草にある浅草寺(せんそうじ)本堂右隣の浅草(あさくさ)神社の通称。ウィキの「浅草神社」によれば、「三社」とは『浅草神社の草創に関わった土師真中知(はじのあたいなかとも)』、『檜前浜成(ひのくまはまなり)・武成(たけなり)を主祭神とし、東照宮(徳川家康)・大国主命を合祀する。檜前浜成・武成の他のもう一柱の主祭神については諸説あったが、現在では土師真中知であるとしている。この三人の霊をもって「三社権現」と称されるようになった』とあり、『現存の社殿は徳川家光の寄進で』慶安二(一六四九)年に完成したものと記す。東照宮の浅草寺境内(神仏習合)への勧請自体は元和四(一六一八)年である。
「田村八太夫」彼はこうした神事舞(じんじまい:神事として行われる舞い。鎮魂を目的とする神楽のなかの禊・祓い・神おろし・託宣の舞お、或いは神の霊験を具象化した舞い、悪魔払いの舞い,田植神事に於ける農耕の予祝祈願の田楽から、悪霊・怨霊の鎮魂や魂送りのための舞い、降雨祈願の舞いなどを広汎に含む)の東国での総支配の地位にあったらしい。「巫研 Docs Wiki」の中山太郎氏の「日本巫女史」「関東の市子頭田村家の消長」の「一 田村家の由来と舞太夫」に詳しい。
「御影(みえい)」ここは神格化された貴人の肖像。「ぎょえい」「ごえい」「みかげ」とも読む。
「西福寺」現在の東京都台東区蔵前にある浄土宗東光山松平良雲院西福寺西福寺。元は松平家・徳川家発祥の地である三河国松平郷(現在の愛知県豊田市)にあったが、家康の関東入府の際、現在地に移転したとされる。江戸浄土宗の随一とされ、千駄ヶ谷に百石の御朱印を受けていた。家康の側室於竹の方の墓もここにある。]