諸國百物語卷之二 十三 奧州小松の城ばけ物の事
十三 奧州小松の城ばけ物の事
ちかきころ、奧州小松といふ所の城の留主居番をする侍あり。この妻は同國宇和岐(うわき)の何がしがむすめにてありしが、ある夜、せつちんへゆきければ、むかうより、かねくろぐろとつけたる女のくびひとつ、とびきたりて、妻をみて、にこにことわらふ。この妻、おそろしくは思ひけれども、かやうの物に見まけぬれば、あしき、と、こゝろえて、目を見ひらきにらみつけてゐられければ、かのくび、にらみまけて、しだいしだいに、とをざかりゆきて、つゐに、きへうせけると也。妻、うれしくおもひて、かはやよりいでゝ、ねやにかへりければ、灯(ともしび)、きへてあり。つぎのまへゆけども、つぎにも、灯、きへて、くらし。そのとき、妻も氣をとりうしなひ、たをれふしぬ。男、ほかよりかへりて、妻をたづねければ、かしこにたをれふしてゐけるが、いきたへ、よべども、おともせず。人々、おどろき、氣つけなどあたへければ、やうやう、よみがへりぬ。さて、事のやうすをたづねければ、はじめをわりの事、物がたりしけると也。そのゝち、かのかわやも所をかへて立てなをしければ、かさねては出でざりしと也。
[やぶちゃん注:美事に典型的なる偏愛する飛頭盤の再出現! この留主居役の妻、にこにこ笑うそれと、にらめっこするたぁ、大した女傑じゃて! 挿絵の右キャプションは「小松のしろばけ物の事」。
「奧州小松といふ所の城」現在の山形県東置賜(ひがしおきたま)郡川西町(まち)中小松にあった小松城。秋田城介氏のサイト「秋田の中世を歩く」の「小松城」を参照させて戴くと、築城時期は不明で、『もともと長井氏に与した在地土豪船山氏が居住したとも』あり、康暦二(一三八〇)年、『伊達宗遠が長井氏を滅ぼして置賜郡を制圧した後、元中・応永年間』(一三八四~一四二八年)『の城主として大町修理亮貞継が、亨禄年間』(一五二八年~一五三二年)『頃から桑折播磨守景長が在城したと伝えられます。そして』天文一一(一五四二)年『に勃発した「天文伊達の乱」後、乱で晴宗方に与した牧野弾正景仲が居住しましたが、元亀元』(一五七〇)年、『牧野弾正久仲は実父中野宗時・新田義直と謀り』、『伊達輝宗に叛いたため、小松城は伊達軍の攻撃を受けて落城し、ほどなく廃城になったと思われます』とある。他のサイトの記載ではその後に桑折氏が再び城主となったとあるものの、思うに、江戸時代にはとうに廃城となっていたとしか考えられない。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には『当時』としてこの牧野弾正が誅殺された一件が載るのであるが、どうもこの『当時』がおかしい。本篇冒頭は「ちかきころ」である。本「諸國百物語」は延宝五(一六七七)年刊行である。百年前を「近き頃」とは首を飛ばされても言わぬ。どうも判らぬ。
「同國宇和岐」前掲「江戸怪談集 下」の脚注には『不詳。ただし上小松の小字に「姥神(うばき)」がある』とある。
「かね」「鉄漿(かね)」。お歯黒。
「見まけぬれば」「見負けぬれば」。物の怪や獣などとは、目が合ったら、見つめ続けるのが大事。逸らした方が襲われてしまい、負けるのは民俗社会でもそうだし、動物生態学上でも概ね正しい。
「かしこ」少し離れた部屋。
「おと」「音」。応答。返事。
「かのかわやも所をかへて立てなをしければ、かさねては出でざりしと也」終りがショボ「臭い」のは厠なればこそ仕方がないか。]