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2016/09/19

諸國百物語卷之二 八 魔王女にばけて出家の往生を妨げんとせし事

    八 魔王(まわう)女にばけて出家の往生を妨(さまた)げんとせし事


Maou

 攝州勝尾寺(かちおじ)のほとりに、たつとき出家ありける。色欲のみちは、とりけだ物まで厭離(ゑんり)しがたきならひにて、此僧、女をかくしをき、年ひさしくなじみけるが、あるとき、僧つくづくと思ひけるは、一たび佛のみちに入りながら、又、凡俗にけがるゝ事、後の世も、いかゞおそろしき事也と、さとりて、あたりちかき所に善知識(ぜんちしき)のましませしに、行きてざんげし、二たび淸淨(しやうじやう)の心ざしにて行(をこなひ)すましてゐたりけるが、かの女も、なごりをおしみて、をりをり、かよひてはなるゝ事なし。僧も、是れをうるさくおもひ、氣やみになりてわづらひつきけるが、あたりの人をたのみて、

「くだんの女、われをたづね來たらば、いつわりて歸し給はれ」

といひけるに、あんのごとく、女、又、きたりて、僧をたづねければ、あたりの人、出であひて、

「その僧は、きのふの暮ほどに、しゆぎやうのためとて、いづくともなく出でられたり」

と云ふ。女、ちからなく立ち歸りぬ。そのゝち、かの僧のわづらひ、ぜんぜんにをもりて、つゐにむなしくなりける。あたりの人々、ひごろなじみの女なりとて、くだんの女をよびよせ、しかじかのしだい、かたり聞かせければ、女、すこしもなげくけしきなくて、云ひけるは、

「かの僧は五百生(ひやくしやう)いぜんより、われわれがかたきなりしが、出家となりて成佛せんとする所を、われわれ、さまざまにかたちをへんじて佛果(ぶつくわ)をさまたげけるが、死(しに)めにあふ程ならば、すなをにわうじやうは、とげさせまじきものを」

とて、いかりをなし、そのたけ二丈あまりの鬼神(きしん)となり、まなこは日月(にちげつ)のごとくかゞやき、口よりくわゑんをふきいだし、大をんあげて天にのぼりけるが、しばしは雲のすきまにひらめきみへけるが、そのゝちはきへうせけると也。まことに第六天の魔王、しゆしやうをさまたげて、げどうにいれんとすると、佛のとき給ふも、かくのごとくなるべし。

 

[やぶちゃん注:話も「曾呂利物語」巻一の「三 女のまうねん生をかへてもわすれぬ事」と同話。但し、そちらでは場所は特定されない。

「攝州勝尾寺(かちおじ)」現在の大阪府箕面市にある真言宗応頂山勝尾(かつお/かちお)寺。なお、歴史的仮名遣は「かちを」が正しい。

「たつとき」「尊き」。秘め事であった女犯(にょぼん)以外では篤学の僧であったのである。

「とりけだ物」「鳥・獣(けだもの)」。

「厭離(ゑんり)」穢れたこの世を厭(いと)うて離れること。歴史的仮名遣は「えんり」が正しい。

「善知識(ぜんちしき)」衆生を導いて仏道や悟りに導き入れる高徳の僧。

「ざんげ」「懺悔」。本邦に於いて過去の罪悪を悔いて神仏の前で告白してその許しを乞う仏教用語。本来は「さんけ」と清音であったが、近世中期以後、「ざんげ」の濁るようになっていた。

「淸淨(しやうじやう)の心ざし」仏法に従って修行し、煩悩や罪などがなく、真に清らかな精神状態を目指すこと。

「かよひてはなるゝ事なし」「通ひて離るる事無し」。

「氣やみになりてわづらひつきけるが」「氣病みになりて患ひ就きけるが」。過度の心配から起こる精神障害様の病態(まずは強迫神経症が疑われるが、その後に重篤化して亡くなっているところからは、何らかの致命的な脳障害も疑われる)となって、それが慢性化し、床に臥せがちになってしまったが。

「あんのごとく」「案の如く」。

「しゆぎやう」「修行」。

「ぜんぜんに」次第に。

「五百生(ひやくしやう)いぜん」転生(てんしょう)すること、五百回以前から。しょぼくさい五百年ではない(と思われる)ので注意。因みに、「六欲天の魔王」と自称した織田信長に倣って人生五十年を単純に当時の平均値とするならば、五百回の転生は二万五千年以前に遡ることになる。因みに、地球史的には最終の氷河期末期(ウルム氷期のピーク)に相当する。

「われわれがかたき」「我々が仇」。

「佛果(ぶつくわ)」修行によって得た仏法の境地。

「死(しに)めにあふ程ならば」我々の永年の確信犯としての仇討の結果としてではなく、彼自身に与えられた因果と命数の自然に従って死を迎えたというのだったら、といった謂いであろう。

「すなをにわうじやうは、とげさせまじきものを」「そんな素直な易々(やすやす)とした往生は、これ、絶対に遂げさせなかったはずじゃったにッツ!」

「二丈」凡そ六メートル。

「鬼神(きしん)」「きじん」「おにがみ」とも読み、本来は神道や仏教の教義の「神」の意義とは遠いものと認識してよい。寧ろ、通常の人間の耳目では捉えることが出来ない、超人的超自然的能力を持つ存在の包括的総称であって、人の死後の霊魂・物の怪・化け物などを広汎に指す。但し、本篇では標題及び最後にある通り「魔王」と同義とする。この「魔王」は仏教に於ける仏道修行や作善を行おうとする気持ちを妨げるところのネガティヴな天魔の王で、後に本文で明かされるように、後世に構成された仏教教義によって欲界(三界(さんがい:欲界・色界・無色界。凡夫が生死を繰り返しながら輪廻する世界を大別して三つに分けたもの。仏はこの三界での輪廻から解脱した存在である)の一つ。欲望(色欲・貪欲・財欲など)にとらわれた生物が住む世界。さらにその中が六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天上道)に区分される)の「第六天の王」魔王波旬(後注参照)とする。但し、その教義的解説はそれはそれとして(仏教はすこぶる論理的数理的な宗教ではあるが、日本の神仏習合の中で醸成され変形した「鬼神」や「魔」を論理的に理解しようとすると私は矛盾がはなはだ多く感じられると考えている)、私はもっと一般名詞的な「魔王」、即ち、人に災いを与えたり、悪の道に陥れたりする魔物、所謂、原初的な「御霊(ごりょう)」信仰の荒ぶるところの御魂(みたま)のようなものを想起した方が解りがよいと思う。

「くわゑん」「火炎」。歴史的仮名遣は誤り。「くわえん」が正しい。

「ふきいだし」「吹き出だし」。

「大をん」「大音」。大音声(だいおんじょう)。

「ひらめき」「閃(ひらめ)く」。ギラギラと、妖しく輝いて。ハレーションを起こすような閃光である。

「第六天」六道の最高位である天上道(「天上界」とも呼ぶが、私は三界の分類単位と混同するので採らないし、使わない)の中で、我々人間(人間道の存在)と比較すれば相対的には遙かに清浄であるものの、未だ欲望に捉われる六つの天(フィールド・時空間)の最高位である他化自在(たけじざい)天を指す。ウィキの「他化自在天」によれば、『三界における欲界の最高位、且つ六道の天道』『の最下部である、六欲天の第六天。欲界の天主大魔王である第六天魔王波旬』(はじゅん)『の住処』(因みに、ここより上位の天では、例えば六欲天第四天の兜率(とそつ)天(須弥山の頂上から十二由旬(ゆじゅん:一由旬は一説に七キロであるから八万四千メートル上空)の所にあるとする)では弥勒菩薩が如来になるために修行中であり、第二天の忉利(とうり)天には帝釈天が、栄えある第一天の四大王衆(しだいおうしゅ)天にはお馴染みの仏法の強力な守護神であるところの持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王がいる)。『この天は、他人の変現する楽事をかけて自由に己が快楽とするからこの名がある。この天の男女は互いに相視るのみにて淫事を満足し得、子を欲する時はその欲念に随って膝の上に化現するという。天人の身長は三里、寿命は』一万六千歳という。但し、魔王波旬にとっての一尽夜(一夜。魔界だから「一昼夜」ではないのだろう)は人間の時間の千六百年に『相当するという』。『天人としての他化自在天は、弓を持った姿で描かれる』とある。このような一見、邪悪極まりない存在が仏教の「人間道」の上位の時空間に配されてあるかという疑問は自然に生ずるであろうが、それは例えば、ウィキの「天魔」の「大般涅槃経での波旬」の項に、『大般涅槃経では序品において釈尊が今まさに涅槃せられんとする場面から始まり、そこには釈尊の涅槃を知って様々な人物が供養しようとして馳せ参じるがその中には魔王波旬もいたと説かれる』。『波旬は、仏の神力によって地獄の門を開いて清浄水を施して、諸々の地獄の者の苦しみを除き武器を捨てさせて、悪者は悪を捨てることで一切天人の持つ良きものに勝ると仏の真理を諭し、自ら仏のみ許に参じて仏足を頂礼して大乗とその信奉者を守護することを誓った。また、正法を持する者が外道を伏する時のために咒(じゅ、真言)を捧げ、これを誦する者を守護し、その者の煩悩は亀が六を蔵す(亀が四肢首尾を蔵めて外敵より身を守ること)ものであると述べて、最後の供養者として真心を受け給うよう願い出た。釈尊は「汝の飲食(おんじき)供養は受けないが、一切衆生を安穏にせんとするためのその神咒だけは受けよう」と仰せられた。波旬は三度懇請して咒は受け入れられたが終に飲食供養は受け給わず、心に憂いを抱いて一隅に座した、と記されている』とあり、次の「法華経と第六天の魔王」の項に(但し、この節には『検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください』という注意喚起・出典提示要請がなされてある)『日蓮は、第六天の魔王を、仏道修行者を法華経から遠ざけようとして現れる魔であると説いた。しかし、純粋な法華経の強信者の祈りの前には第六天の魔王も味方すると、日蓮は自筆の御書で説いている。日蓮があらわした法華経のマンダラに第六天の魔王が含まれているのは、第六天の魔王も、結局は法華経の味方となるという意味である。第六天の魔王は、仏道修行者の修行が進むと、さまざまな障りで仏道修行者の信心の邪魔をするが、それに負けず、一途に信心を貫くものにとっては、さらなる信心を重ねるきっかけとなるにすぎない。なぜなら、信心を深めることにより、過去世からの業が軽減・消滅し、さらなる信心により功徳が増すきっかけとなるからであると日蓮は説いている』とある。引用出典が示されていないのは確かに残念だが、この後者の見解は私も仏教的世界観を全的に論理矛盾なしに受け入れる解釈の一つとして、その通りだと個人的に思ってきたし(私は信仰する宗教はない)、至極、納得出来る。

「しゆしやう」「衆生(しゆじやう)」であろう。

「げどう」「外道」。狭義には仏教以外の誤った思想や宗教及びその信者を指すが、ここも広義の真理に反した説、邪道の意でとった方がよい。]

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