佐渡怪談藻鹽草 鶴子の三郎兵衞狸の行列を見し事
鶴子(つるこ)の三郎兵衞(さぶろべえ)狸の行列を見し事
鶴子に住(じゆう)せし三郎兵衞といへるもの、急用の事有(あり)て、相川へ出るとて、薄暮に在所を出けるに、本道は遠ければ、
「少しも早く往(ゆか)ん」
とて、ニツ岩道へ掛りけるが、秋雨のあがりなれば、谷合の道、ぬかりて、步行(ありきゆか)ず、
「彼是として、半時斗(ばか)りも、間取(とり)ぬらん」
と思ふ頃、二ツ岩の手前に至り、例の所なれば、何とやらん、ものすごし。心地惑ひけるに、右の方、屛風越道へ行(ゆく)小道有(あり)。其方より、挑燈(ちようちん)三ツ四ツ出たり。
「是は、誰人の來るやらん」
と、其道を退きて、扣(ひか)へ、見居たるに、追々提燈の出(いづ)る事、すでに五六十、二行に並んで、所々に、高張弐(ふた)ツ宛交(まじはり)たり。燈の影に長柄、鑓、打物などもひらめきたり。
「あわや是は、殿樣の何方へ、渡らせ給ふて、御歸りにや」
と畏(かしこまり)て、見居たれば、追々近付き、いまだ、てうちんの紋所は見え分らざる程になりて、一度に消(きえ)たり。はつと思ひて、
「是は、例の彼(かの)團三郎か」
と心付(づく)より、身の毛立て、覺えけれ共、流石(さすが)、跡へも歸られず。ニツ岩を通りて、山道を探りに步行(ありきゆき)、漸(やうやく)、夜半(よは)に馬町へ出(いで)たり。さすがもだし難き所用なれば、用は足したり。夫より病み付(つき)て、百日斗り打臥(うちふ)しけるが、神巫醫藥の助を得て、快驗ありしとぞ。
[やぶちゃん注:遂にここに至って、佐渡最大の化け狸にして佐渡で最も知られた妖怪「團三郎」狸が登場する。ウィキの「団三郎狸」をまず引く(記号の一部を省略した)。『新潟県佐渡郡相川町(現・佐渡市)に伝わる化け狸。佐渡ではタヌキを狢と呼んでいたことから、団三郎狢(だんざぶろうむじな)ともいう。錦絵では同三狸とも表記される。淡路島の芝右衛門狸、香川県の太三郎狸と並び、日本三名狸に数えられている』。『佐渡のタヌキの総大将。人が夜道を歩いているところに壁のようなものを作り出したり、蜃気楼を出したりして人を化かしたり、木の葉を金に見せかけて買物をしていた。自分の住処である穴倉に蜃気楼をかけ、豪華な屋敷に見せかけて人を招き入れたりもした。病気になったときには人に化けて人間の医者にかかっていた』。『悪さをするばかりでなく、困った人には金を貸していた。その金は人に化けて金山で働いたり、盗んだりして稼いでいたという。また、団三郎の住処は相川町下戸村にあり、借用書に金額、返却日、自分の名を記して判を押して置いておけば、翌日にはその借用書は消え、代りに金が置いてあったという』。『後に団三郎は相川町に二つ岩大明神として祀られ、人々に厚く信仰されている』。『佐渡にキツネがいないのは、団三郎が佐渡からキツネを追い払ったためといわれ、それを示す以下の』二つの『伝説がある』。『団三郎が旅の途中、キツネに出会い「佐渡へ連れて行ってください」と頼まれた。団三郎は「連れて行ってやるが、その姿ではまずい。わしの草履に化けなさい」と行った。キツネは言われた通り草履に化け、僧姿の団三郎がそれを履いて船に乗った。やがて団三郎は佐渡へ渡る舟に乗り、海の真っ只中で草履を脱いで海に放り込んだ。以来、キツネは佐渡に渡ろうとは考えないようになった』。『団三郎は旅の途中で』一匹の『キツネに会った。自分の術を自慢するキツネに対し、団三郎は「自分は大名行列に化けるのが得意なので、お前を脅かしてやる」と言って姿を消した。間もなく大名行列がやって来た。キツネは行列の中の殿様の籠のもとに躍り出て「うまく化けやがったな」などとからかうと、たちまちキツネは捕えられ、狼藉の罪で斬殺されてしまった。行列は団三郎ではなく本物であり、彼はあらかじめ行列がここを通ることを知っていたのである』(以上の伝承は本話との親和性が認められる)。『団三郎の人化かしは数多く続いたが、人間との知恵比べに負けたために人を化かすことをやめたという伝説もある』。『団三郎が若い農夫を見つけ、彼を化かそうと団三郎は若い女に化け、具合の悪そうなふりをした。心配して声をかけてきた農夫に「腹痛で動けない」と答えた。農夫は女を送ろうと背負ったが、もしや団三郎かと直感し、女を縄でしばりつけた。慌てる団三郎に「お前さんがずり落ちんように」と答えた。危険を感じた団三郎は「降ろして下さい」と必死に頼んだ。「具合が悪いのに、なぜ降りる?」と農夫が降ろさずにいるので、団三郎は「……おしっこがしたいのです」と答えたが、農夫は笑い「あんたのような美しい娘さんのおしっこならぜひ見てみたい。わしの背中でしなされ」と一向に降ろさなかった。やがて着いたのは農夫の自宅だった。団三郎が「ここは私の家ではありませんが?」と言うと、農夫は「団三郎、もうお前の正体はわかっている!」と言い、平謝りする団三郎を散々懲らしめた。以来、団三郎が人を化かすことはなくなったという』。『団三郎とは越後国の人間の商人の名であり』、明暦三(一六五七)年に『佐渡金山で用いる鞴の押皮をとるために繁殖用の子ダヌキを売っており、後に佐渡で養狸を始めた団三郎が島民から敬われ、タヌキ自体も氏神のように祀られたとの説がある』とある。なお、私の電子テクスト(注附)「耳嚢 巻之三 佐州團三郎狸の事」や「耳嚢 巻之三 天作其理を極し事」も是非とも参照されたい。
「鶴子」「つるこ」と読んでいるが、これは佐渡島でも最古の部類に属する安土桃山時代から近代の大正期まで存在した銀鉱山である、鶴子銀山(つるしぎんざん)のことであろう。相川の東、現在の佐渡金山跡の東方(山の反対側)に広がる一帯である。ウィキの「鶴子銀山」によれば、天文一一(一五四二)年に露頭から銀の採掘が開始されており、文禄四(一五九五)年には『石見銀山の山師を招いて本格的な坑道を使った採掘が始まった。その後、採掘技術は山の反対側で見つかった相川鉱山(佐渡金山)の採掘に応用されている。江戸時代から大正時代を通じて、大量の金・銀の鉱石の採掘が行われた』とある。現在は人家なく、鉱山遺構や鶴子鉱山代官屋敷跡などがあるのみ。佐渡市教育委員会の「佐渡金銀山遺跡追加指定(鶴子銀山跡)の概要」(PDF)を見られたい(写真有り)。
「ニツ岩」現在の相川の東南内陸に「ニツ岩大明神」が、その西の麓の佐渡市相川下戸村に「二ツ岩神社」があるから、このルートと見て間違いない。冒頭の団三郎狸の引用も必ず参考のこと。ここはそもそもが、かの化け狸由来を一つとする場所(明神)なのである。
「間取(とり)ぬらん」「手間取ってしまったようじゃわい。」
「屛風越道」「びやうぶごえみち(びょうぶごえみち)」と訓じておく。現行では確認出来ないが、屛風のように真っ直ぐに切り立っている岩が相川方向に向いて北側、所謂、佐渡金山方向に存在した(している)と考えても何ら、不自然ではない。それを乗っ越す山道の固有名詞であろう。
「扣(ひか)へ」控え。
「高張」「たかばり」。高張提灯。卵形をした大きな提灯で、竿の先に高く吊るし、通常は門前に張り出すように掲げたのでこの名称がある。提灯には家紋や屋号を入れて格式を表明した。江戸初期に武家で使われていた照明用具であるが、時代が移るにつれて芝居小屋や遊廓でも利用されるようになった(朝日新聞社刊「とっさの日本語便利帳」に拠る)。
「宛」「づつ(ずつ)」。
「長柄」「ながつか」と訓じておく。柄(つか)の長い刀。
「鑓」「やり」。
「打物」上記以外の他の刀剣の類い。
「殿樣」これだけの格式の行列から、主人公三郎兵衞はてっきり佐渡奉行のそれととったのであろう。
「何方」「いづかた(いずかた)」。
「馬町」現在の佐渡市相川馬町。二ツ岩神社の西北直近で、相川地区の南部。
「さすがもだし難き所用」「もだし」は「默(もだ)し」で「そのまま無視して捨て置く」の意。ここは怪異に遇って尋常ではない状態にあるのだが、しかしうち捨てておけるような用件ではなかったのである。
「神巫」一般にはこう書いて「いちこ」と読み(「市子」「巫子」などとも漢字表記する)、狭義には、呪文を唱えて霊を呼び出して自分に憑依させ、死者の死後の様子や依頼主の未来のことなどについて予言をすることを職業とした女、「口寄せ」「巫女(みこ)」「いたこ」などを指すが、ここは広く、民間の職業巫女(みこ)や男の修験者などの呪術師を指していると思われる。
「助」「たすけ」と訓じておく。
「快驗」「くわいげん」と音読みしておく。快癒。]
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