現代風俗と小説 梅崎春生
近ごろ銀座などに出てみると、行き交う男女の姿は終戦頃に比べて見違えるように綺麗(きれい)になっていて、私の如く怪しげな恰好をしていると気がひける程だ。しかしそれら男女を眺めて、さて彼等がどんな素性をもち、どんな職業に従事しているかという段になると、私にはほとんど判断がつかないのである。男は皆闇屋に見えるし、女はことごとく娼婦に見えて来る。それというのも現今の風俗が混乱しているせいのみではなくて、人間を外観から識別する能力を私が喪失したからに違いない。
私とても昔はそうじゃなかった。盛場を歩いても、あれは女給、あれは新聞記者、あれはタイピストと、身体の感じで指呼することができた。何故かというと、私は私の生活の範囲であらゆる経歴職業の人々と交際し接触できたからで、それらの風俗の匂いをはっきりと嗅覚で捕えることが出来たのだ。最下等の娼婦ですら、充分市民生活の枠の中でつき合うことができた。
ところが今は違う。ある種の女とつき合うには正常な市民生活でまかないきれぬ莫大な金額を要するし、また別種の女とつき合うには健康な肉体を犠牲にすることを予想せねばならぬし、更にある種の男の生態を知るためには生命の危険も考慮に入れねばならぬ。つまり現今では、正常市民の枠の外に荒くれた世界がいろいろ拡っていて、それが都会の消費面の主流をなしている。私達市民は、精神か肉体か物質かを犠牲にしなければ、その面の生態に触れ得ない仕組になっている。
近頃の雑誌に散見する風俗小説が私に面白くないのも、その間の事情によるに違いないと思う。風俗作家が、現下インフレ風俗の主潮を描ききれずに、次第に題材をせばめて身辺に取る結果、作品は私小説じみたものとなって来る。私小説というのはもともと厳しい自律性を支えとしているものだが、この風俗私小説はそれを持たぬ。読者を感動させないのが当然で、その類の小説は毎月多量に生産されて文芸雑誌や娯楽雑誌を飾っている。疎開小説というのもおおむねこの類に属する。
たまに勇敢にそんな世界を描こうとする作家もいるが、二三の例をのぞくと、みな戦前の自分の体験から現代の風俗を類推して、強引に作品を作り上げている。あるいは観念の庖丁で切割った空虚なアラベスクを提示するに止まる。ローマの娼婦も現代のパンパンも本質的には同じものだ、などと悟りきった心境で作品を製作するから、出て来る人物は影のように生気がなく、読者は誠に失望する。
私には風俗小説を書く意図もないしその能力もないが、常凡な読者の一人としてこれら作家に要望したいことは、小説の面白さはやはり見知らぬ世界を作品で体験することにあるようだから、書斎の中の観念や類推による製作ではなくて、血の通った作品を読ませて貰いたいということだ。そしてそれが出来ないとしても、決して私小説まがいを作って下さるな。近頃私小説に対する風当りが強いが、それは私小説自体が袋小路に行詰ったせいもあろうが、一半にはこの類の偽小説の横行もあずかって力あると思われる。
私小説が亡ぶべきとは私も思うが、これとは別の意味で如上の現代小説の衰弱を私は憎悪するものである。
[やぶちゃん注:昭和二一(一九四六)年五月十五日号『第一新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「アラベスク」(フランス語:arabesque)イスラム美術の装飾文様。偶像禁止の教義に基づき、植物の蔓・葉・花の図案化や星形の展開といった対称性に富む文様が発達した。ルネサンス期以降のヨーロッパにも広まった(三省堂「大辞林」に拠る)。]

