うたごえ酒場 梅崎春生
戦後あちこちに、アルバイトサロン、焼鳥キャバレー、等々と新しい形式の飲屋が発生したが、近ごろ「うたごえの店」という新機軸が発生、大いにはやっているとの話なので、早速興をもよおして、見学に出かけることにした。
まず新宿の歌舞伎町のTという店。とびらを押して入ったのが午後七時過ぎ。野間画伯と本紙のH記者と私、三人がまとまって掛けることのできないほどの混み方で、店内の百名ぐらいの座席は、それぞれ若い男女でぎっしりつまっている。われわれ三人は辛うじて補助椅子を求め、便所のわきに席を占めることができた。
暗い酒場風の店を予想して来たが、その予想は外れた。全然明るいのである。そしてここは酒オンリーでなく、軽食もあるし、コーヒーその他の飲料もある。われわれはビールを注文した。
やがて七時半、入口近くにある小さな台に、専属のリーダーと覚しき屈強の青年が立ち 「そろそろ始めましょうよ。それともも少しお休みになりますか」と声をかけ、始めろ始めろとのかけ声に、アコーディオン伴奏で合唱が始まる。
皆T歌集というこの店発行の小型歌集を持っていて、リーダーが何ページの何、たとえばカチューシャとかアンニイローリーとか指定すると、アコーディオンが鳴り出し、客たちが一斉に歌い出すという仕組みになっている。
客は学生、若いサラリーマン、オフィスガールといったところで、せいぜい二十五歳どまり。しごく楽しそうに歌っている。大合唱は窓から表に流れ出るから、立ち止って窓からのぞいている行客もたくさんいる。
歌うあほうに歌わぬあほう、ということであれば、歌った方が得のように、私には感じられた。
といって、私も合唱に参加したわけではない。参加できるほどまだアルコール分が入ってないし、第一私だの野間画伯だのの年齢は、この店では場違いなのである。
だから小さくなって、ビールを飲む。なにしろウェイトレスまで歌っているのだから、客の私たちが歌わないのは不自然なので、ピーナツをかじるのに忙しいふりしてごまかす。
三十分間次々歌って、三十分間の休憩。それはそうだろう。少しは休まないと、声がかれてしまうし、第一飲み食いの暇を客に与えないと、経営が成りたたない。
ビールでおなかがふくれ、便所に立つ。便所には落書きがいっぱい。「日本共産党万歳」と書かれたそばに「大日本海軍万歳」というあたらしい落書きがあった。戦争映画でも見ての帰りに、書きつけたものらしい。
それで興をそそられて、女便所に入ったら「人間はオールばかである!」などと書いてあった。
経営者にきくと、この店ははじめ「五十円均一食堂」として出発、それで失敗、続いてロシア料理店となり、ロシア民謡などのレコードをかけているうち、お客たちがそれに合わせて歌うようになり、それでそのまま「うたごえの店」に移行したという。つまり客の方から盛り上った、自然発生的な形態だとのことだ。
そう言えばリーダーの態度も押しつけがましくなく、客もたいへん楽しそうで、陶酔の色さえ浮べている。
こんなに歌をうたっていてはお客の回転率が悪くないか、との私の質問に、経営者はうなずいた。一人せいぜい百円どまりで、回転率は悪い由。しかし超満員であるから、それでおぎないをつけているのだろう。
ここの経営者は、早稲田大学を昭和二十八年卒という青年で、社長秘書をやっていたが厭になり、独立でこんな店を開いたと言う。若いのによくやるものだと、私はほとほと感服した。
私のとなりに、連れのない若い女性がひとり、コーヒーをのんでいるので、話しかけてみたら、初めてこの店に来たとのこと。職業をたずねたら、都立病院の看護婦。
ここをどう思うかと聞くと、田舎とちがって都会には、大きな口を開いて歌う場所がない。だからこんな店があるのはたいへん有意義で、これからしばしば来てみたいとのことであった。
八時、また合唱が始まる。
ますますお客がたてこんでくる。
女の外人が入ってくる。常連なのだそうである。社会党のH代議士も時々やって来る由。Hはたしか私よりはるかじじいのはずだが、どんな顔して、どんな気持でうたうのか。
リーダーが童謡、赤とんぼなど出すと、客席から二三「反対」の声が上る。大人の歌をうたいたいらしい。
席がなくなって、通路にも客があふれてきたから、私たちは大合唱の中を退散することにした。
店の前でタクシーをつかまえて乗る。その若い運転手に「うたごえの店」をどう思うかとたずねたら「いいですねえ。私も行きたいけれど、忙しくて、忙しくて」と嘆息した。
だいたい若い者全般に、ああいう傾向の店は支持されているとみてよろしい。
新宿二丁目の、Dという店に行く。ここもうたごえ酒場とのことだったが、アコーディオンが鳴っているばかりで、合唱は全然聞かれなかった。
ルパシカ姿のボーイを呼んでたずねると、以前は合唱したが、このごろはお客が歌わなくなった由。歌いたいのは前記T店に吸い取られてしまったのだろう。
合唱が聞けなければ、いても意味ないので、Dカクテルという一杯五十円の怪しげなカクテルを飲み、早々に退散した。
これで使命は完了。われわれはいそいそとわれわれ向きの飲屋におもむき、しずかに日本酒の盃(さかずき)をかたむけた。
[やぶちゃん注:昭和三二(一九五七)年五月二十三日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。標題では「うたごえ酒場」であるが、本質的には変わらない(但し、正規の喫茶店は酒類を提供出来ないのが法律上の規定で、「食品衛生法施行令」第三十五条で、「喫茶店営業」とは「喫茶店、サロンその他設備を設けて酒類以外の飲み物又は茶菓を客に飲食させる営業をいう」とはっきり明記している)ウィキの「歌声喫茶」を引用しておく。歌声喫茶は『客全員が歌う(合唱)ことを想定した喫茶店で』ある。昭和三〇(一九五五)年前後の『東京など日本の都市部で流行し』、一九七〇年代までに概ね衰退した。『リーダーの音頭のもと、店内の客が一緒に歌を歌うことを主目的としている。伴奏はピアノやアコーディオンのほか、大きな店では生バンドも入っていた。歌われる歌はロシア民謡、唱歌、童謡、労働歌、反戦歌、歌謡曲など。店が独自に編纂した歌集を見ながら歌うこともできる』。『発祥については諸説あり』、昭和二五(一九五〇)年頃、『東京・新宿の料理店が店内でロシア民謡を流していたところ、自然発生的に客が一緒に歌い出して盛り上がり、それが歌声喫茶の走りになった、また、当時公開されたソ連映画「シベリア物語」』(“Сказание о земле Сибирской”(シベリアのバラード):ソヴィエト映画で監督はイヴァン・プィリエフ、主演はウラジミール・ドルージュニコフ。一九四七年にソヴィエト公開、翌一九四八年に日本公開された、ソ連(モスフィルム)製作に成る第二作目のカラー作品)『に同様なシーンがあり、これに影響されたともいわれている』。昭和三〇(一九五五)年、『東京・新宿に「カチューシャ」、「灯(ともしび)」がオープン』(本篇冒頭の「T」は、この「灯(ともしび)」と考えてよいであろう。昭和五二(一九七七)年に閉店したが、後に移転再開、現在も「歌声喫茶」として営業している)。『これをきっかけとして東京に歌声喫茶が続々と誕生する。労働運動、学生運動の高まりとともに人々の連帯感を生む歌声喫茶の人気は上昇し、店内は毎日のように人であふれ、最盛期には日本全国で』百軒を『超える店があったという。また店の看板的存在であるリーダーの中からは、さとう宗幸や上条恒彦のようにプロの歌手としてデビューした者もいた』。『歌声喫茶はうたごえ運動という政治運動において大きな役割を果たしたが、それだけでなく、集団就職で単身東京に移住してきた青年たちの寂しさを紛らす心のよりどころでもあった』。昭和四〇(一九六五)年頃を『ピークに、歌声喫茶のブームはうたごえ運動の退潮に連動して急速に衰退、その後の』十年ほどで『ほとんどの店が閉店していった』。さらに、一九七〇年代後半のカラオケスナック、一九八〇年代の『カラオケボックスの出現により、「人前で歌を歌える」需要の受け皿はそちらに移行した。歌声喫茶は一般の喫茶店やカラオケボックスとは異なり、客全員が合唱する形態のため、飲食物の注文が少なく客単価が低いという根源的な問題があったからである』とある。
「アルバイトサロン」和製カタカナ語。ドイツ語の“Arbeit”とフランス語の“salon”の合成和語。「素人のアルバイト」という触れ込みで、女性が客の飲食の相手をする店。主に関西での呼称。アルサロ。
「焼鳥キャバレー」サイト「新宿西口思い出横丁 もつ焼き専門第二宝来家」内の「花のやきとりキャバレー」に詳しい。必読!
「社会党のH代議士」不詳。]