譚海 卷之一 越前侯茄子獻上の事
越前侯茄子獻上の事
○越前家より毎年茄子獻上あり。寒國にて雪深けれども、かく早く出來る事は、獻上の茄子ばたけは別にありて、冬中苗をうへて、後その畑の四邊へ溝をほり𢌞し、したゝかにこやしをくみ入(いれ)溝にみて、扨(さて)中央のはたに茄子をうへ重疊(ちやうじやう)におほひをしかけをくゆゑ、冬のうちの苗を生長する事すでに四五寸に及ぶと云。
[やぶちゃん注:「越前侯」越前国福井藩(現在の福井県嶺北中心部を治めた藩)藩主越前松平家。「譚海」の記載時期(安永五(一七七七)年から寛政七(一七九六)年)の藩主は第十二代松平重富。但し、彼の藩政は劣悪で、ウィキの「松平重富」によれば、『藩政においては藩士の知行削減などを中心とした財政再建を目指したが、連年による大雪・大火・風水害・疫病などによる被害が大きく、逆に財政は悪化する。しかも重富自身が江戸の一橋家の生活に慣れていたために』(彼は御三卿の一つである一橋家の初代当主徳川宗尹(むねただ)の三男として江戸一橋家屋敷で生まれたが、福井藩第十一代藩主で異母兄であった重昌が宝暦八(一七五八)年に死去したためにその養子となって跡を継いでいた)『豪華絢爛な日常生活を送り、さらには米商人に対して御用金を課すなどの悪政を行なった。ところが』、『この御用金政策が逆に米価高騰を招き、さらに凶作も重なって福井には貧民があふれ』、明和五(一七六八)年には『打ちこわしまで起こった。そして、福井藩ではこの領民の不満が爆発した藩政史上最大の打ちこわしに対応できず、やむなく一揆側の要求を認め、家老酒井外記ら関係する役人や御用商人を処分する』。『徳川将軍家と縁戚だったため(重富は』第十一代『将軍となった家斉の伯父であり、その父で一橋徳川家』第二代当主治済(はるさだ/はるなり)の『同母兄にあたる)、幕府から援助金をもらって藩政の再建を目指すが、天明の大飢饉をはじめとする災害などもあって財政はさらに悪化した』とある。献上茄子なんぞ作ってる場合ではない!
「うへて」「植ゑて」。歴史的仮名遣は誤り。後も同様。
「したゝかに」しっかり。十二分に。
「こやし」「肥し」。
「溝にみて」溝に満たして、の謂いあろう。
「はた」畑(畠)。
「重疊(ちやうじやう)」何重にも。
「おほひ」「蔽ひ・覆ひ・被ひ」。
「しかけをく」「仕掛け置く」。
「四五寸」十二~十五センチ。]