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2016/09/11

世代の傷痕   梅崎春生

 

 私のように気力体力ともに劣弱な者にとっては、近時の乗物の混雑は誠に堪え難い。堪え難いと言っても手をこまぬいている訳にはゆかぬから、皆に伍して突き飛ばしたり突き飛ばされたり、足を踏んだり踏まれたりしてどうにか乗込んではいるものの、私如き非力の男から突き飛ばされる連中は私以上に非力の輩が多いので、つまり老幼婦女のたぐいがおおむね私から突き飛ばされているということになるようだ。

 私とても好きこのんで老幼を突き飛ばしている訳ではない。そうした所業を自分に許容する所以は、そうしなければ電車に乗込めないという一点にかかっているので、電車にも乗れないということは大きく言えば、現世で生活出来ないという事に他ならない。此の世に生存して行くためにそんな悪を自らに許容しているということ、すべての人が多かれ少なかれ自分のエゴイズムを容認しているということ、これはなみなみならぬ事であると私は思う。

 此の局面を打開するために、私達市民はどうすれば良いか。それは電車をどしどし製作して誰でも楽に乗車出来るような世の中を造れば良いのだ。皆がその方向に力を合わせること、この事には私も異存はないのである。しかし電車をふやせば全部が解決出来るという言い方には少しばかり疑問を持つ。

 電車が楽に乗れるようになれば、私ももともと好きこのんでやっていることではないから、他人を突き飛ばすことを止めるだろう。しかし止めたからと言って、人を突き飛ばそうとする素質をまで私が失った訳ではない。病根は表面からは消えたけれども、心に深く根強く残っているだろう。そして長い一生だからそれは他の形で表面に現われるかも知れないし、また現われないかも知れない。現われなければ私達の市民としての生活には狂いはないかも知れないが、その病根を胸にひそめていること、そしてそれを意識していること、そしてある一時期にそんな所業を自分に許容したという事は永久に消えぬ。

 私は一年余の短い期間を応召兵として軍隊に暮した。私と一緒に入った連中には大学の教授もいたし工場の技師もいたし、実直な銀行員もいたし温良な牧師もいた。そして私は、飢に堪えかねて教授が残飯をぬすむのも見たし、員数を揃えるために洗濯物を牧師が泥棒した話も聞いた。娑婆(しゃば)のあり方では、そのようなものを否定することによって自分の生活を築いて来た之(これ)等の人々が、此の荒くれた世界で、自分の持つ悪の可能性を頭の中でなく行動でもって確認したということ、私が最も関心するのは此の点である。私の軍隊生活は終始内地であったが、ブーゲンビルやニューブリテンやその他の島々では、もっともっと苛烈なものであったことは、帰還した友達からも聞いたし容易に想像も出来る。現在あの教授が再びどんな具合に子弟を指導しているのか、どんな表情であの牧師が神の道を説いているのか、私は知らない。知らないけれども彼等は(私も含めて)あの頃は辛かったよと笑い過して済むような浅傷でないことだけは確かだ。

 いわば此の大戦で、日本人は日本人がたとえばどんなに背徳不倫のことをやれるかということなどを、観念や可能性の問題ではなく、現実の行動として探り得たわけだ。民族としてもそうだけれども、個人個人の場合でも己れにひそむすべてのものを拡大して摑み得たに違いないのだ。それは兵隊に取られたとか取られないの問題ではなく、あの時代に生きたものに逃れられない宿命みたいなものであった。何等かの意味で、すべての人は皆自己というものと対決せざるを得なかった。

 そして戦が終った。今の時代というものは又別の意味のエゴイズムと対面しなければならない時代である。思想的な屈身やポーカーフェイスは必要としなくなった代りに、例えば私が止むなく老幼を突き倒すような羽目となって来た。自分の生存を確認する為にはどのような事をも自分に許容したくなるのも、あの闇を毅然として拒んだために栄養を失調して死んだ教授のようになりたくない為である。先ず生きることが第一義だということは、私のみならずすべての人が此の戦争を通じて克ち得た考えに違いないのだ。

 死を賭して闇を拒んだという事に対して、私も感動を覚えない訳ではない。しかしそれは人間の極北的な象徴としての意味はあるが、現実の個体の在り方としてはほとんど無意味である。それは誰しも我身をかえりみて感じていることに相違ないから、あの教授に対して起ったさまざまの批判は、皆どこか風が吹き抜けているような空洞があって、結局はそんな事が起らないような社会を造らねばならぬという判り切った話に落ちた如くである。そんな不徹底な口舌を私は憎む。

 戦後の現在の人間の特色は、つまり自分の心の極限的な可能性を行動でもって確認し、現在確認しつつあるという点であると私は思うのである。そしてそれは、必ずしも人間のマイナスの部分、悪や利己心のみでなく真善美に対する極限性でもあることを私は信じるが、しかし後者は実生活を犠牲にすることでのみ追求出来るものであるらしいから、只今生活をないがしろにするということはなみなみならぬことであるし、私の場合で言えば私は老婆を突き転がして電車に乗ったり、法網をくぐって米を買出ししたり、そんな自分を眺めることだけが私の日常である。もっと金に困って来れば強盗にもなれる予感を自分で今持っているが、この事が私には悲しい。罪の意識をもってある事をなした者は、既に彼自身に対して彼は前科者だ。生きて行くために自分の弱さを認容している現代人は、すべて罪人である。私とても自らのエゴイズムを良しとするわけではない。しかしそれを認容しなければ生きて行けないから私はそれを肯定する。肯定する処から新しく出発したい。もし現世に新しい倫理があり得るなら、人間の心の上等の部分だけでなれ合ったようなかよわい倫理でなく、人間のあらゆる可能性の上に、新しく樹立されるべきであると私は思う。私は既に日常生活に於て、私自身に対して前科数百犯の極悪人だ。だからこそ私は自分の悲願の深さを信じる。そして血まみれの掌を背中にかくして、口先ばかりで正論めいた弁舌を弄する論者や、果敢(はか)ない美をうたう詩人や、うそつきの小説家を憎む。何故皆は、現代の人間が、そして自分が、そのような位置にいることを率直に認めようとしないのだろう。認めた場所から何故始めて行かないのだろう。定着した場所を持たずに中ぶらりんの虚空から、何故もっともらしい顔で電車をもっとふやせと説いて行けるのだろう。私には判らない。

 世代の傷痕、とかそんな抽象的なことは私は苦手で、誰かに説明を聞きたいと私は常々思うが、私の場合は以上述べたような恰好で生きて来た。そして今も生きている。やや不健全な市民として今から先も歩みつづけるだろう。そして戦争中の環境が私に強いた生き方、現在が私に強いる生き方を、感傷を混える事なしに見詰め探って行きたいと思う。それは私個人の問題ではなく、すべての人の胸にも通うものに違いない。その中から光を摑(つか)み出す以外には、光はどこにもありはしないのだ。その他の光はすべて偽光である。代用食やカストリ焼酎のような代用酒で、私は現今止むを得ず自分の飲食慾を満たしている状態だが、精神をまで代用の光で明るくしようとは思わない。代用品は日常生活の上だけで結構である。

 

[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年八月号『新文芸』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。

「ブーゲンビル」現在のパプアニューギニア国の島(島全体がブーゲンビル自治州に属す。島名は一七六八年に本島やその周辺を探検したフランスの探検家ルイ・アントワーヌ・ド・ブーガンヴィル(Louis Antoine de Bougainville 一七二九年~一八一一年)に由来する)。同島は第一次世界大戦後、オーストラリアの委任統治であったが、昭和一七(一九四二)年三月に日本軍が米豪遮断作戦の一環としてソロモン諸島の一部である、この島を占領、飛行場建設を開始し、この飛行基地はガダルカナル島攻撃の拠点の一つとなった。一九四三年十一月一日のアメリカ軍上陸から敗戦後の一九四五年八月二十一日に正式停戦がなされるまで激しい苛酷な戦闘が行われ続けた(詳しくはウィキの「ブーゲンビル島の戦い」を参照されたい)。

「ニューブリテン」ニューブリテン島はパプアニューギニア国のビスマルク諸島最大の島。現行の最大都市はラバウル(島名は、ニューギニアを探検した海賊にして探検家であったイングランドのウィリアム・ダンピア(William Dampier 一六五一年~一七一五年)が一七〇〇年二月二十七日にヨーロッパ人として初めて到達した際、彼がこの島をラテン語で“Nova Britannia”(ノヴァ・ブリタニア:新しき英国土)と名づけたことに由来する)。同島は第一次世界大戦後、オーストラリアの委任統治となったが、昭和一七(一九四二)年に「ラバウルの戦い」で日本軍が占領、ソロモン諸島方面進出の拠点とした。一九四三年十二月十五日の米軍上陸から終戦の日まで、現地の日本軍は長い持久戦を行った。

「闇を毅然として拒んだために栄養を失調して死んだ教授」この件では裁判官山口良忠がよく知られ、梅崎春生の「税金払って腹が立つ」で既に注したが、ここで春生が言っているのは、ドイツ文学者で元東京高等学校(一高)教授亀尾英四郎(明治二八(一八九五)年~昭和二〇(一九四五)年)のこと。ウィキの「亀尾英四郎」より引く。『鳥取県米子市糀町出身で足袋製造業亀尾定右衛門の四男であった。『米子中学校、岡山の六高を経』、大正一〇(一九二一)年、『東京帝国大学文学部独文科を卒業、同大学研究室副手とな』った。『ドイツ文学者として早くからゲーテに心酔し、その貴重な入門書とされるヨハン・エッカーマン著』「ゲエテとの対話」を『完訳して世に問うたのは』大正一一(一九二二)年二十七歳の時であった。その三年後に東京高等学校教授となった。敗戦から凡そ二ヶ月後の昭和二〇(一九四五)年十月十一日、『亀尾は栄養失調死した。この事件を新聞は次のように報道した』。――「闇を食はない」犠牲、亀尾東京高校教授の死――『過日、静岡県下で三食外食者が栄養失調で死亡したが、再びここに一学者の栄養失調死がある。東京高校ドイツ語教授亀尾英四郎氏の死である。この度は知名人の死であるだけに社会に大きな波紋を巻き起こしつつある』。『大東亜戦争が勃発して食糧が統制され、配給されるやうになった時、政府は政府を信頼して買出しをするな。闇をするものは国賊だと国民に呼びかけた。同教授は政府のこの態度を尤もだと支持し、いやしくも教育家たるものは表裏があってはならない。どんなに苦しくとも国策をしっかり守っていくといふ固い信念の下に生活を続けてゐた。家庭には操夫人との間に東京高校文乙二年の長男利夫君以下、四歳の覚君まで六人の子を配給物で養ってゐた』。『だが、庭に作った二坪の農園では如何ともすることが出来なかった。六人が三日間で食べる野菜の配給が葱(ねぎ)二本。発育盛りの子供たちに少しでも多く食はせんとする親心は、自己の食糧をさいて行くほかに方法はなかった。遂に八月末、同教授は病床にたふれた。近所に住むかつての教へ子の一人が最近にこのことを知って牛乳などを運んでゐたが既に遅く、去る十一日、遂に教授は死んでしまった。」(十月二十八日付毎日新聞)』。かの実直なる裁判官山口良忠の死も、奇しくも全く同じ同年同月同日の栄養失調死(厳密には栄養失調に伴う肺浸潤(初期の肺結核))であった。

「代用食」記事の発表時から考えて戦中の米の代わりに小麦や雑穀などを用いた節約食を指すと考えてよい。「YOMIURI ONLINE」の『(1)昭和料理再現 ぜいたくは敵「代用食」盛ん』が詳しい。必読。

「カストリ焼酎」原義は新酒の粕を蒸籠で蒸留して取る焼酎であるが、ここはそれとは全く無縁な、戦後のヤミ市で売られた粗悪な(時に危険な)密造焼酎の俗称である。梅崎春生「悪酒の時代――酒友列伝――の私の諸注も参照されたい。]

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