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2016/09/28

甲子夜話卷之二 19 町奉行根岸肥前守へ松平豆州挨拶の事

2-19 町奉行根岸肥前守へ松平豆州挨拶の事

近頃の町奉行、根岸肥前守は、御徒士より勤め上りて此役に迄なりぬ。予亦舊識なりき。此人勘定奉行公事方たりしとき、或日自宅の白州にて吟味のとき、罪人不平を懷くことありしや、傍に侍坐せる留役某を目がけ、飛かゝりて、その所に在ける燭臺を取て、したゝかに打たるとき、根岸起てその罪人を押へ、背へ膝を掛て動かさず。その中人々馳集りぬ。根岸心に頗これを自負して、或時事を建言するの次に、松平豆州に【信明、老職】、其狀を申述たれば、豆州挨拶には、さても不用心なることに候と斗なり。根岸、甚失言を悔しとなり。豆州の言は、奉行職吟味の席は、その屬吏等正々堂々とあるべき所、必竟備の足らざりしより、不虞の事ありと云意とぞ聞へし。根岸、人と爲り鄙野にて、禮法に疎なるを戒めての言なりけらし。いかにも重職の體を得たる挨拶とて、心あるものは感じ合けり。

■やぶちゃんの呟き

 これはもう、誰にも負けない。私は根岸肥前守鎭衞(しずもり/やすもり 元文二(一七三七)年~文化一二(一八一五)年)の「耳囊」全話を原文全電子化訳注っているからである。ここに出る話は、耳嚢 巻之四 不時の異變心得あるべき事で根岸本人が吟味事件の内容を含め、詳しく細部を語っており、それに私も注し、現代語訳もしてある。引き比べてお読みあれ。その冒頭は「寛政七卯年予が懸りにて」と始まるから、グレゴリオ暦一七九五当年のことである。私は断然、根岸の肩を持つね

「此人勘定奉行公事方たりしとき」本件当時の根岸は勘定奉行(天明七(一七八七)年に佐渡奉行から勘定奉行に抜擢され(この時、従五位下肥前守に叙任された)、寛政一〇(一七九八)年に南町奉行となった)であったが、恐らくは訴訟関連を扱う公事方勘定奉行として、評定所で関八州内江戸府外の訴訟を担当していたものと思われる。

「御徒士」「おかち」。御目見得以下で騎馬を許されぬ軽輩の下層の武士階級を指す。

「舊識なりき」旧知の仲であった。但し、根岸は静山より二十三も年上である。寛政七(一七九五)年当時、静山は満三十五歳で、既に平戸藩第九代藩主であった(文化三(一八〇六)年に隠居、以後はこの「甲子夜話」を中心とした執筆活動に勤しんだ)。

「自宅の白州」。根岸は南町奉行(在職のまま死去)としても。かなりの期間、奉行所内に居住していたことが知られている(必ずしもそこに住む制約はなかったし、通った奉行も多い。どっかの総理大臣が二・二六の亡霊を怖がって官邸に住まないのとは大違いだね)。

「傍」「かたはら」。

「侍坐」「じざ」。

「在ける」「ありける」。

「取て」「とりて」。

「したゝかに」強く

「打たる」「うちたる」。

「起て」「たちて」。

「掛て」「かけて」。

「その中」「そのうち」。

「馳集りぬ」「はせあつまりぬ」。

「頗」「すこぶる」。

「或時事を建言するの次に」「或時(あるとき)、(奉行実務に関わる)事(柄)を建言するの次(ついで)に」。

「松平豆州」老中伊豆守松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年:老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と、文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年)。既注

「其狀」その時の事件の有様。

「申述たれば」「まうしのべたれば」。

「挨拶」返答。

「斗」「ばかり」。

「甚」「はなはだ」。

「悔し」「くいし」。

「屬吏等」「ぞくりら」。勘定奉行支配の役人ら。

「正々堂々とあるべき所」「正々堂々」は態度が正しく立派なさま。公明正大で卑劣な手段をとらないさまの意で専ら使われるが、本来は「孫子」の中の言葉で、軍隊の陣容が整っており、意気や勢力が盛んなさまを指し、ここは寧ろ、後者の意で、油断なく構えて、細部に注意を怠らない警備体制、を指していると読むべきである。

「必竟備の足らざりしより」「必竟(ひつきやう)備(そなへ)の足(た)らざりしより」。伊豆守は、そもそもがそのような怪我人や死者が発生するかも知れないゆゆしき不測の事態が起こらぬよう、初めから万全の備え(予防措置)を行っておくことが勘定奉行の役目である、それが致命的に不足していたからこそ、このような事件が出来(しゅったい)したのである、と批判しているのである(「不虞」は「ふぐ」で「思いがけないこと・そうした事態」の意で、「不慮」に同じい)。

「云意」「云ふ意」。

「人と爲り鄙野にて」「人(ひと)と爲(な)り、鄙野(ひや)にて」「鄙野」は「野鄙」「野卑」と同義で、「下品で洗練されていないこと」をいう。

「疎なる」「おろそかなる」。うとい。粗雑である。

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