甲子夜話卷之二 16 御醫師に付戸田氏挨拶幷浚明廟初而御目見の者正年御尋幷溝口氏幼穉家督のとき留守居内窺の事
2―16 御醫師に付戸田氏挨拶幷浚明廟初而御目見の者正年御尋幷溝口氏幼穉家督のとき留守居内窺の事
思出たることを彼是と書つく。予勤に在とき、木下氏の養子云々につき、老職某の所に屢往て對談せしこと有り。其時、予申述るは、御醫師某も養子病體のことはかくかく申候と云たれば、答に御醫師もたのみ込ば病症もよきように申故、夫を證には成らずと申されし。予畏ぬと答て退たるが、老職の言語とも思はれず。大屋木傳庵にも不ㇾ如と謂べき乎。
又申も恐あるが、明廟に仕て御傍に侍し人の竊に語しは、某生年十何歳、官年十何歳と申て、御目見のとき、入御のうへ御左右に上意ありしは、今日某初て目見したるが、さても善き生立なり。正年は何歳なるやと御尋ありて、御傍の徒、御答にこまり入たりしとぞ。いかにも下情に能通ぜさせられ、且公平の御仁心と申合へりとぞ。
又咲しきは、松平豆州【老職】、新發田溝口氏と近緣なり【そのとき豆州の叔母、彼家に嫁して在り】。溝口氏幼穉家督のことあり。其時に功者と云はるゝ留守居某、其役人と議して、主人餘り幼年なり、因て密に豆州に申して、其年齡を增し、官家に申出んとて、豆州の邸に至り、主人當二歳にして、餘り幼弱なり、因て四五歳と申上ぐ可きやと伺たれば、豆州答に、なり難き義なりと有て、留守居大に謀る所と違ひ、後悔せしと云。是にても豆州の威重を想像すべし。
■やぶちゃんの呟き
標題「御醫師に付戸田氏挨拶幷浚明廟初而御目見の者正年御尋幷溝口氏幼穉家督のとき留守居内窺の事」は「おんいしにつき、とだし、あいさつ。ならびに しゆんめいびやう、はじめておめみえのもの、しやうねんおたづね。 ならびに みぞぐちし、えうちかとくのとき、るすゐ、うちうかがひのこと」と読む。「ある藩医の藩主養子の病状に関する診断結果に就き、老中戸田氏の見解の一件 并びに 浚明廟家治様が、初めて御目見えした者について、その実年齢を周囲の者どもにお訊ねになられた一件 并びに 溝口氏が幼少の者に家督を継がせることとなった際、藩の留守居役の者が内々の伺いを老中に試みた一件」の意。
「戸田氏」「予勤」(つとめ)に「在」(ある)「とき」「老職某」(ぼう)とする。松浦静山は安永四(一七七五)年二月十六日の祖父の隠居によって祖父誠信の養嗣子として家督を相続し、文化三(一八〇六)年に隠居している。この三十一年間で「戸田」姓の老中は戸田氏教(在職:寛政二(一七九〇)年~文化三(一八〇六)年:在任のまま死去)しかいない。戸田氏教(宝暦五(一七五六)年~文化三(一八〇六)年)は美濃国大垣藩第七代藩主。ここでは静山から批判されているが、ウィキの「戸田氏教」によれば、『藩主として善政を行うとともに、幕府老中として幕政に携わり、幕府財政改革に成功した他、ロシア船来航の折は外交問題にも関わり、国家の枢機に携わった。大垣藩政では教育・治水・藩の富強を図り、大垣中興の名主と評された』と評価は高い。ここは後の同じく同時期に老中であった松平信明を同じようなケースで最後に対照賞揚するための道化役に使われたのである。静山より四歳年上。
「浚明廟」既出既注。徳川家治。
「溝口氏」「新發田溝口氏」越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部を治めた新発田(しばた)藩の溝口(みぞぐち)家。
「幼穉」「えうち(ようち)」。「幼稚」に同じい。
「内窺」「うちうかがひ」。ある事柄に対して事前に内々に伺いを立てること。
「木下氏」何流か存在するため、不詳。
「畏ぬ」底本『かしこみぬ』とルビ。
「退たる」「ひきたる」。
「大屋木傳庵」「甲子夜話卷之一 27 大屋木傳庵、老職衆へ答の事」に既出。ここはそれを受けての評言である。
「不ㇾ如」「しかず」。及ばない。
「竊に」「ひそかに」。
「某生年十何歳」の「某」は「それがし」と訓じておく。
「今日某」の「某」は「なにがし」と訓じておく。
「生立」「おひたち」。
「徒」「ともがら」と訓じておく。これはそのお目見えした少年(児童)の御傍の者だけでなく、家治の近侍の者らも総て含めてである。
「能」「よく」。
「咲しき」「をかしき」。
「松平豆州」老中松平信明(のぶあきら 宝暦一三(一七六三)年~文化一四(一八一七)年)。既出既注。老中在任は天明八(一七八八)年~享和三(一八〇三)年と文化三(一八〇六)年~文化一四(一八一七)年の二期。静山より三歳年下。
「溝口氏幼穉家督のことあり」新発田藩第十代藩主溝口直諒(なおあき 寛政一一(一七九九)年~安政五(一八五八)年)か。ウィキの「溝口直諒」によれば、享和二(一八〇二)年に父の死去により家督を継いだが、時に数え年四歳(本文では「當二歳」とあるが、静山の記憶違いの許容範囲内であろう)と幼少であったため、父の時の例に従い、親族の松平信明が後見を行ったとあり、これはまさに松平信明の一期目の終り(老中首座であった)に当たるからである。
「功者」「かうしや/こうしや」(こうしゃ)。物事に熟練しており巧みな頭の切れる人物。
「密に」「ひそかに」
「官家」「かんけ」。幕府。
「伺」「うかがひ」。
「答」「こたへ」。
「威重」厳しく重々しいこと。
« 役に立たなくていいです。人は何かの役に立つために生まれてくるのじゃないのです。 祖父江文宏 | トップページ | 譚海 卷之一 三州萬歳舞太夫の事 »