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« 無事平穏の後味――今年のメーデー   梅崎春生 | トップページ | 明恵上人夢記 52 »

2016/09/04

ダムでの感想   梅崎春生

 

 七月二日、建設省の招待で、栃木県男鹿川の五十里(いかり)ダムの見学に行った。

 一行三十名ばかり、東京駅から貸切りのバスに乗り九時半出発。ダム建設の現場についたのは、もう夕方である。もっとも途中あちこちと見学に寄ったり、利根川の大堤防で昼食をとったりしたからこんなに時間がかかった。しかしまだ道路が完備されていないから、バスは揺れ、相当に疲労した。バスがいくら上等でも、道が悪ければ、何にもならない。現在の道路の状況では、バスによる観光は、当分無理であるように思う。六月末北海道に行き釧路から阿寒に入ったが、あのバス道路はもっとひどかった。北海道随一の名勝もこの悪路のためにずいぶん損をしている。

 鬼怒川温泉からダムまでの道路は、川沿いの崖を切り開いた道で、自動車がやっとすれ違えるほどの幅だ。すれちがう度に胆を冷やしながら、川治に着く。川治の事務所で小休止。ダムの解説など聞き、現場に向かう。現場を見下す山上の崖だ。

 私は幼ない時から、他人よりも高所恐怖がはげしくて、高いところへ登ると目がくらんで来る。生れつきの苦手である。だからあまり崖縁に近寄らぬようにして遠くからのぞいてばかりいた。ダムはまだ基礎工事の程度でコンクリートの入った吊車が、崖から対岸へ行ったり来たりしている。川床の方では豆粒みたいに人々が動いている。あそこからこんな具合にダムを造るのだと指差して説明されたが、どうも感覚的にはピンと来ない。とんでもない大規模な工事にも思われたが、また大自然全体からすれば、とるにも足らぬ小工事とも思われた。しかしこれは人間が造る大工事であることは間違いない。大自然と比較しないで川床の豆粒人間と比較すればすぐに判る。

 説明によれば、鬼怒川筋の水害は年々激しくて、もしこのダムが完成すれば発電のみならず、年平均農耕地一九四〇町歩、家屋三二〇戸が氾濫浸水を免れ、それに伴う土木災害も減少することになるという。また四月から九月までの灌漑期間中は、灌漑用水の補給に役立つから、これによって農作物の増産をはかることが出来る由。

 遠くはるかの下方に飯場らしい建物が点々と見える。ここで働いている人々とも話し合いたかったが、時間の関係上ついに果たし得なかった。主任の人に事故や災害のことを訊ねてみる。こんな工事で一番事故が起き易いのはハッパによるものだそうであるが、ここではそれに極力注意して、ハッパのための死傷者はまだ一人も出ていない由。不注意とか墜落とか衝突、そのための犠牲者はすでに出ているとのことであった。それから人造湖が出来る関係上、上流住民の立退きのことなど。

 風致や生活や人命、そういうもののある程度の犠牲は、こんな大工事にはつきもので、あるいは仕方のないことかも知れない。しかしそんな犠牲の上につくられたダムが、その電力が、一般民衆の幸福のために使われなくてはならぬ。それ以外のことに用いられてはならぬ。これは自明の理だ。一般の家庭がしばしば停電したり電圧低下に悩んでいたりする時に、武器や爆弾製造工場で惜しみなく電力が使われている。そんな莫迦(ばか)な状態に日本をおいてはならない。崖から川床を観望しながら、私はそんなことを考えた。

 

[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年七月十六日号『建設工業新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。ここに最後に書かれた梅崎春生の感懐は、原発事故の聖痕(スティグマ)を負わされた今の我々には、もっと違った複雑な感懐として反響してくるではないか。

「栃木県男鹿川」「おじかがわ」と読む。利根川水系で鬼怒川の支流の一つ。一級河川。次の注の引用も参照されたい。

「五十里(いかり)ダム」栃木県日光市川治温泉川治に現存する男鹿川に建設された国土交通省関東地方整備局が管理するダム。ウィキの「五十里ダムより引く。高さ百十二メートルの『重力式コンクリートダムで、男鹿川及び合流先の鬼怒川、利根川の治水と栃木県営の水力発電を目的とし、同水系において最初に完成した多目的ダムである。ダムによって形成された人造湖は五十里湖(いかりこ)と命名され、日光国立公園に指定されている』。男鹿川は『栃木県・福島県境を水源として南へ流れ、途中海尻橋付近で右側より湯西川を合わせ、ダム地点を通過した後川治温泉付近で鬼怒川に注ぐ。ダムは男鹿川と鬼怒川の合流点からわずか』〜二キロメートル上流の『地点に建設された。なお合流部から西へ延びている鬼怒川のすぐ上流に川治ダムがあり、さらに上流に行くと川俣ダムがある。五十里・川治・川俣の三ダムに加え、五十里湖に注ぐ湯西川に現在建設されている湯西川ダムを一括して鬼怒川上流ダム群』『が形成されている』。『ダムが建設された当時の所在地は塩谷郡藤原町であったが、平成の大合併に伴って現在は日光市となっている。名前の由来であるが、この地点が江戸からちょうど五十里』(約二百キロメートル)『あることから「五十里」が地名となり、そこに建設されたので「五十里ダム」となった』。『鬼怒川の洪水調節用ダム建設計画は』大正一三(一九二四)年から『始まり利根川水系でも歴史が深い。当初は上流の海尻(現・海尻橋付近)地点にダムを予定し』、昭和六(一九三一)年より工事に着手したが、『掘削中に多数の断層を発見、建設を断念した。その後』昭和一〇(一九三五)年に旧内務省は全国七河川一湖沼に於いて河水統制事業を立案、その中で鬼怒川も対象とされ、昭和一六(一九四一)年より海尻地点に高さ百メートル級の『ロックフィルダムを建設する計画に着手したが』、『戦争により中断した。『戦後、建設省(現国土交通省関東地方整備局)発足後に再度建設地点の検討を行ったが海尻地点は予想以上に建設費が掛かる事から放棄され、より岩盤が堅固で安定した現在の五十里地点にダム建設を計画。利根川水系の大ダム』第一号として『型式も重力式コンクリートダムに変更し』、建設を進め、本記事が書かれてから三年後の昭和三一(一九五六)年に完成した』。『利根川水系において最初の多目的ダム』であると同時に百メートル級ダムであり、堤高百十二メートルというのは、『完成当時は日本一の高さを誇るダムであった。洪水調節・不特定利水・発電が目的である。近年、洪水調節機能を更に高めるために、ダムを貯水したまま堤体に穴を開け』、『放流トンネルを』二本『増設する工事が行われた。この際』、四十五年『振りに掘り出されたコンクリートは、全く劣化していなかった』とある。『五十里ダム完成後は鬼怒川本川におけるダム建設が進められ』、これら『五十里ダムを始め』とする『川治ダム・川俣ダム、そして湯西川ダムは「鬼怒川上流ダム群」と呼ばれ、何れも国土交通省鬼怒川ダム統合管理事務所が総合的な管理業務を行っている』。また、『湖水の有効利用を図り』、『利水を強化する目的で「鬼怒川上流ダム群連携事業」が行われ』、二〇〇五年に竣工した。これはトンネルを通じて『五十里湖と八汐湖(川治ダム湖)の湖水を融通、無駄な放流をなくし』、『利水効率を上げる目的を持つものであ』った。『ダムは日光国立公園内にあり、川治温泉から至近距離にある。また、鬼怒川温泉・湯西川温泉や龍王峡、日塩道路経由で塩原温泉郷にも近いため観光地化されて』おり、二〇〇六年には『東武鉄道の東武鬼怒川線が東武日光線経由でJR東日本と相互乗り入れを開始し、新宿駅から発着することで都内からのアクセスも改良された』。『また、東武鬼怒川線は野岩鉄道会津鬼怒川線経由で会津鉄道会津線と直通運転しており、福島県会津若松市まで通じている。途中には江戸時代の街並みを今に伝える大内宿や芦ノ牧温泉があり、栃木と福島を結ぶ観光路線となっている。毎年』五月五日『近くになると、ダム堤体上に多数のこいのぼりが泳ぎ、見物客の目を楽しませている』。『ダム湖の名は五十里湖と名付けられているが、江戸時代に海尻橋付近の山腹の崩壊によってできた天然ダムによる堰き止め湖として五十里湖が存在していたという記録が日光東照宮の輪番記録に残されている。この堰き止め湖は高さ』七十メートルで『湛水面積は現在の五十里湖より大きく』、四十年間『存在していた。この間』、『会津藩により洪水吐き工事が行われたが失敗』、『その後大雨によって遂に天然ダムは決壊し、濁流は宇都宮まで押し寄せ多数の死傷者を出したという』とある。

「鬼怒川筋の水害は年々激しく」ウィキの「鬼怒川の「治水」には上記の、東照宮輪番記録に残されている堰き止め湖を述べ、決壊は享保八(一七二三)年の大雨の折りで、死者千二百人を『出す土石流となり、宇都宮近辺まで被害が及んだ』とある。『東北本線は開通当初』(正式な全線の開通は明治二四(一八九一)年である。以下の叙述を見ると、ここはそれ以前の北進延伸期も含んでいる)、『現在の東北新幹線のルートに近い宇都宮駅より真北に向かう進路を取っており、古田停車場と長久保停車場の間の絹島村で西鬼怒川と東鬼怒川(鬼怒川本流路)の』二『河川を渡っていた。しかし当時未治水であり、夏季に雷を伴い激しく降雨する栃木県北部山間部を水源とする鬼怒川は幾度となく大水となり、その激流は橋脚を傷め』、明治二三(一八九〇)年八月二十二日の『降雨の際には橋脚が傾斜し』、『修繕にかかる経費と時間が莫大なものとなったことをきっかけとし、東西両鬼怒川が合流し』、『流路帯が狭くなった箇所に線路を移設することとなり』、明治三〇(一八九七)年二月二十五日より『宇都宮を出て直ぐに北東に曲がる現在の経路での営業運転に切り替えられた』。一年前の(私のこの電子テクストの公開は二〇一六年九月四日)、九月十日には台風十八号から変わった『温帯低気圧の豪雨で増水し、上流の鬼怒川温泉では川に面した温泉ホテルの一部が崩落、下流の常総市では数か所で破堤、越流し、市街地が広範囲にわたり浸水した。越水した常総市若宮戸の鬼怒川左岸の堤防は、前年にソーラーパネル設置工事で』削られてしまい、実質上、『堤防のない状態になっていた』とある。

「一九四〇町歩」約十九・二四平方キロメートル。]

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