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2016/09/29

小泉八雲 神國日本 戸川明三譯 附原文 附やぶちゃん注(16) 組合の祭祀(Ⅲ)

 この組帳から察して、何人も許しなくしては、一夜たりとも村を去り、――若しくは餘所で仕事をし、或は他郷で結婚したり、別の處に定住したりする事は出來なかつたと考ヘられる。處罰は嚴重であつた、――恐ろしい笞刑が、高い役人に依つて加へられるといふのが、普通の懲罰であつた……。今では斯樣な罰はない、そして法律上各人はその欲する處に行く事が出來る。併し事實は何處へ行つてもその欲するままに行ふといふ事は出來ないのである、何となれば個人の自由は、組合の感情がなほ殘つて居るのと、古い慣習との爲めに、甚だしく制限されて居るからである。地方の組合に於て、各人は自分の適當と考へるやうに、其時間と方法とを自由に用ふる權利をもつて居る、と云つたやうな説を主張する事は甚だ賢からぬ事である。何人も自分の時間、金錢若しくは努力を以つて、全然自分のものであると考へる事は出來ない、――自分の魂魄の住んで居るその身體すらも、自分のものとは考へられないのである。社會に生活して居るといふその權利は、全然その人が社會に奉仕する事を欲するといふ心の上に基礎を置いて居るのであつて、その人の助力若しくは同情を要するものは、何人でもその人に向つてそれを要求する特權をもつて居るのである。『各人の家はその人の城廓なり』といふ事は、日本では言はれない言葉である、――高位の主權者の場合以外には、普通の人は世間の人々に對して、その戸を鎖ざしてこれを入れないといふわけには行かないのである。各人の家は來訪者に對して、公開されて居なければならぬ。日中其門を鎖ざして置くといふ事は、社會に對する侮辱である、――病氣と雖もその口實にはならない。極めて高い位の人のみが、他に接近しないといふ權利をもち得たのである。そして或る一人の住んで居るその社會の意に悖るといふ事は、――特にその社會が田舍であるとすれば――重大な事である。社會が立腹する時、その・社會は個人として行動する。其社會は五百、一千、或は數千の人々から成る、併しそのすべての人々の考へは、只だ一個の考へである。只だ一つの重大な過失のため、人は突然に社會共通の。意志に對して、孤獨反對の位置に立たせられる事がある、――孤立して、極めて有效な絶交にあふのである。緘默と柔和な敵意とは却つてその罰を恐ろしくする。かくの如きは慣習に對する重大な違反を罰する普通の方法である、暴行を加へる事は滅多にない事で、さういふ事をする場合は、(非常な場合は例外であるが、その事はやがて説く事とする)それは過失の罰としてではなく、單に矯正の方法として課せられるのである 中に粗野な組合に於ては、人の生命を危くするやうな過失を、直に身體上の懲罰を以つて罰する事がある――それは公憤の爲めに行はれるのではなくて、傳統的の理由に依つて爲されるのである。嘗て私は或る漁村に於て、此種の懲罰を見た事がある。人々は其處で波の中で鮪を殺して居た、その仕事は恐ろしく危險なものでありたが、その興奮の最中、漁夫の一人が過つて鮪を殺す道具の穗先を、一人の少年の頭に打ち込んだ。人々はそれが全く過失である事を知つて居た、併しその過失は人の生命を危くするものであつたので、直にそれに對して處分が行はれた、そしてこの過失者は、その近くに居た人々に依つて打ちたたかれ、正氣を失つてしまつた、――それから波の間から引き上げられ、砂の上に投り出され、自分で正氣のつくまで打棄られてあつた。この事に就いて、口をきくものは一人もなかつた、そして鮪を殺す事は、前の通りつづいて行はれて居たのである。私の聞いた處に依ると、若い漁夫は、船に危險を及ぼすやうな過失をした場合には、その仲間から舶中で亂暴な取扱ひを受けるのださうである。併しすでに言つた通り、かくの如き罰を受けるのは、癡愚な行ひのみであつて、絶交の罰は、暴行よりも遙かかに恐ろしいものとされて居る。いやこの絶交よりもなほ重い罰が一つある――則ち幾年かの期間若しくは生涯の追放である。

[やぶちゃん注:ここで小泉八雲は所謂、「村八分(むらはちぶ)」という村落共同体に於ける制裁行為(私刑行為)を主題として語っている。以下、ウィキの「村八分」を引いておく。『村落(村社会)の中で、掟や秩序を破った者に対して課される制裁行為であり、一定の地域に居住する住民が結束して交際を絶つこと(共同絶交)である。また、「村八分」は集団行動主義の日本社会における代表的ないじめの代名詞でもあり、様々なシーンでしばしば引用される』。隠語に詳しい言語学者楳垣実(うめがきみのる)が『説くところによると、『地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話と火事の消火活動という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つことをいうもの』とされる『葬式の世話が除外されるのは、死体を放置すると腐臭が漂い、また伝染病の原因となるためとされ、また死ねば生きた人間からは裁けないという思想の現れともいう。また、火事の消火活動が除外されるのは延焼を防ぐためである』。『なお、残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行である。しかしながら「はちぶされる」という言葉自体が、もともと村落生活とは無関係に発生した比較的新しい言葉であること』、『江戸期の村落共同体において重要な機能であり、また、実際の村八分においてなされた入会地の利用の停止が含まれていないことなどを考慮すると、後世の附会であろうと主張されており、「八分」は「はぶく」や「はじく」(爪弾きにする)の訛ったものなどの諸説も唱えられている』。『入会地の使用が停止されると、薪炭や肥料(落ち葉堆肥など)の入手に窮するなど、事実上生活が出来なくなった。しかし、村落の中での掟や秩序は、合法的・客観的で公明正大なものとは程遠い、その地域の有力者の利益に沿うためのものも多く、公平な秩序維持活動とは言えない』。明治四二(一九〇九)年の『大審院判決で、村八分の通告などは脅迫あるいは名誉毀損とされた』とある。『しかしこういった村八分行為は、第二次世界大戦後になっても存続し』続けており、現代に於いてもさまざまなトラブルや殺人事件に発展するような元凶ともなっている。但し、最後の「幾年かの期間若しくは生涯の追放」という懲罰になると、これは幕府や藩のレベルでの公的懲罰の色彩を帯びてくる。所謂、居住地からの一定期間の「構(かまえ)」(追放)に相当する「所払」や「江戸払」(居住地及び江戸市中(品川・板橋・千住・四谷大木戸よりも内側と深川・本所の両地域)を御構場所(侵入禁止区域)とするもの)から、それ以上の広域に及ぶ軽追放・中(ちゅう)追放・重追放である(但し、しばしば時代劇で「何年の江戸所払」などという期間限定の追放の申し渡しを聴くが、公的な追放刑は原則的には無期刑であった。但し、赦によって許される場合はあった。ここはウィキの「日本における追放刑」を参考にした)。それ(公的追放)を考えるとしかし、「幾年かの期間若しくは生涯の追放」という「村八分」以上の重刑としての私刑(リンチ)も、村社会の暗黙の掟として厳然と公の処罰とは別に存在していたことは疑いはない。運命共同体としての「村」という「船」を沈没から何としても守るための最終手段としてである。

「悖る」「もとる」。道理に背く。反する。]

 昔の封建時代にあっては、追放は重大な罰であつたに相違ない、事物一新の今日でも、重大な罰である。昔組合の意志に依つてその土着の地から逐はれた人――その家、その氏族、其職業から見棄てられた人、――は絶對の困苦に當面するのである。他の組合に行つても、其處にたまたま親戚でもあるのでなければ、自分を容れる場所はない、而も親戚とても、さういふ者を家に入れるには、先づその地方の官憲と、そのものの故郷の役人とに相談しなければならない。また他郷のものは、官憲の許しを得なければ、自分の地方以外の他所に定住する事をゆるされない。親類といふ口實の下に、他郷のものを、泊めた家に向つて加へられた事を記した古い記錄がなほ殘つて居る。追放された人は、家なくまた友なきものであつた。そのものは、或は上手な職人であつたかも知れない、併しその職を行ふ權利は、そのものの行つた地方に於て、その職を代表して居る職業組合の承認を得なければ得られないのであるが、追放にあつた人は職業組合も、これを受ける事をしないのである。さういふ男は下男となりたいと思ふかも知れないが、その逃げ込んで來た組合は、如何なる主人でもが、此亡命者にして且つ他郷の人たるものを雇ふ權利をもつて居るかどうか、第一それを疑ふ。其ものの宗教の如きは少にも役には立たない、組合生活の法規は、佛教に依つて定められるのでなく、神道の倫理に從つて定められるのである。則ち自分の生まれ故郷の神々が彼をすてたのであり、また他の地方の神々は、そのものの祭祀とは何の關係もないのであるから、宗教は其ものに取つて、何の助けともならないのである。其上、彼が亡命者であるといふ事實は、其事がすでに、其ものが祭祀に對して罪を犯して居るに相違ない事を證明して居るのである。いづれにしても他郷の人は、自分の知らない他郷の人々の間にあつて、同情を得る事は出來ない。今日でも他の國から妻を迎へる事は、其地方の意見に依つて惡るいとされて居る、(封建時代にはそれは禁止されて居たのである)各人はなほその生まれた土地で生活し、働き、結婚するやうに期待されて居る、――もつとも或る場合に於ては、その故郷の公然の承認を經て、他の組合に入る事を許される事はある。封建制度の下にあつては、他郷人の同情を博す事は、とても比較する事の出來ない程に少い、從つて追放は、飢饉、孤獨、竝びに口にしがたい程の困苦を意味するものであつた。何となれば當時に於ける、個人の法律上に於ける存在は、その家族と組合との關係以外には全然なくなつてしまふのであるからである。人はみな家の爲めに生活し、家の爲めに働き、家は又氏族の爲めに存立して居たので、家竝びに幾多の家の相聯關した集合以外には、生きて行くべき生活はなかつたのである、――罪人、乞食、穢多の生活を除いては、役人の許しがなければ、かくの如き者は、佛教の僧ともなれなかつた。賤民――たとへば穢多階級の如き――も自治の社會をつくり、獨得の傳統をもち、決して進んで外來人を受け容れるやう事はしない。かくして追放されたものは、大抵は非人――公式上『人問にあらざるもの』と呼ばれて居る放浪の憐むべき穢多階級の一になり下がり、人の袖にすがり、或は樂器を流して歩く音樂者、若しくは野師の如き下等な職業に依つて生活するのである。なほ遠い昔にあつては、追放されたものは奴隷に身を賣り得たのであるが、この憐むべき特權すら、德川時代には取り上げられてしまつたらしい。

[やぶちゃん注:「穢多」平凡社「世界大百科事典」の横井清氏の解説より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点にし、記号・ルビの一部を変更・省略した)。『江戸時代の身分制度において賤民身分として位置づけられた人々に対する身分呼称の一種であり、幕府の身分統制策の強化によって十七世紀後半から十八世紀にかけて全国にわたり統一的に普及した蔑称である。一八七一年(明治四)八月二十八日、明治新政府は太政官布告を発して、「非人」の呼称とともにこの呼称も廃止した。しかし、被差別部落への根強い偏見、きびしい差別は残存しつづけたために、現代にいたるもなお被差別部落の出身者に対する蔑称として脈々たる生命を保ち、差別の温存・助長に重要な役割をになっている。漢字では「穢多」と表記されるが、これは江戸幕府・諸藩が公式に適用したために普及したものである。ただ、「えた」の語、ならびに「穢多」の表記の例は江戸時代以前、中世をつうじて各種の文献にすでにみうけられた。「えた」の語の初見資料としては、鎌倉時代中期の文永~弘安年間(一二六四~八八)に成立したとみられる辞書「塵袋(ちりぶくろ)」の記事が名高い。それによると『一、キヨメヲエタト云フハ何ナル詞バ(ことば)ゾ 穢多』とあり、おもに清掃を任務・生業とした人々である「キヨメ」が「エタ」と称されていたことがわかる。また、ここでは「エタ=穢多」とするのが当時の社会通念であったかのような表現になっていたので、特別の疑問ももたれなかったが、末尾の「穢多」の二字は後世の筆による補記かとみられるふしもあるので、この点についてはなお慎重な検討がのぞましい。「えた」が明確に「穢多」と表記された初見資料は、鎌倉時代末期の永仁年間(一二九三~九九)の成立とみられる絵巻物「天狗草紙」の伝三井寺巻第5段の詞書(ことばがき)と図中の書込み文であり、「穢多」「穢多童」の表記がみえている。これ以降、中世をつうじて「えた」「えんた」「えった」等の語が各種の文献にしきりにあらわれ、これに「穢多」の漢字が充当されるのが一般的になった。この「えた」の語そのものは、ごく初期には都とその周辺地域において流布していたと推察され、また「穢多」の表記も都の公家や僧侶の社会で考案されたのではないかと思われるが、両者がしだいに世間に広まっていった歴史的事情をふまえて江戸幕府は新たな賤民身分の確立のために両者を公式に採択・適用し、各種賤民身分の中心部分にすえた人々の呼称としたのであろう。「えた」の語源は明確ではない。前出の「塵袋」では、鷹や猟犬の品肉の採取・確保に従事した「品取(えとり)」の称が転訛し略称されたと説いているので、これがほぼ定説となってきたが、民俗学・国語学からの異見・批判もあり、なお検討の余地をのこしている。文献上はじめてその存在が確認される鎌倉時代中・末期に、「えた」がすでに屠殺を主たる生業としたために仏教的な不浄の観念でみられていたのはきわめて重要である。しかし、ずっと以前から一貫して同様にみられていたと断ずるのは早計であり、日本における生業(職業)観の歴史的変遷をたどりなおすなかで客観的に確認さるべき問題である。ただし、「えた」の語に「穢多」の漢字が充当されたこと、その表記がしだいに流布していったことは、「えた」が従事した仕事の内容・性質を賤視する見方をきわだたせたのみならず、「えた」自身を穢れ多きものとする深刻な偏見を助長し、差別の固定化に少なからず働いたと考えられる』。

「非人」平凡社「世界大百科事典」の横井清解説より引用する(アラビア数字を漢数字に代え、コンマを読点にした)。『もとは仏教からでた言葉で、鬼神・夜叉(やしや)など、人にあらざるものが人の姿形をかりて現れたものの意味であったが、別に、罪人・世捨人・僧、最下級の神人(じにん)、乞食(こつじき)などをさす語として平安時代』以来『普及し、江戸時代になってからは、賤民身分の一部をさす呼称として、公式に江戸幕府・諸藩で採用され定着した』。『江戸時代に、いわゆる士農工商の諸身分の下に』「穢多(えた)」『とともに賤民として位置づけられた非人は、親子代々の〈非人素性〉の』者が『その中心をなしたが、ほかに、犯罪や、心中の仕損じを理由として非人身分に落とされて〈非人頭(がしら)〉の配下に入れられた〈非人手下(てか)〉、生活困窮のため乞食浮浪の身となった〈無宿非人〉〈野非人(のびにん)〉があり、その内容はさまざまであった。彼らは江戸幕府の』膝元で、『歴代、〈穢多頭(えたがしら)〉の地位にあった弾左衛門(だんざえもん)の統轄下に置かれたが、直接的には江戸浅草の車善七(くるまぜんしち)に代表されるような各地の非人頭、もしくは非人頭に該当する役職の者(たとえば、京都ではそれを悲田院年寄といっていた)、さらには非人頭に属する多数の小屋頭たちの支配を受け、町外れや河原の非人村の小屋に住み、物乞い生活を基本としながら、大道芸、犯罪者の市中引廻し、処刑場での雑役などで、日々の暮しをたてていた。江戸では、罹病の囚人や十五歳未満の罪人たちは、浅草・品川の非人頭のもとで非人が管理していた非人溜(ひにんため)に収容され、そのことを非人小屋預(あずけ)といった。また、前記の無宿・野非人については、天保~嘉永年間(一八三〇~五四)に浅草に非人寄場(よせば)が設けられていた。非人身分は、一八七一年(明治四)八月二十三日の太政官布告により廃止されたが、非人の集住していた非人村の多くは』、「穢多」『の集落と同様に江戸時代を』通じて『深刻な差別の対象となっており、現代における被差別部落の一源流をなした』。]

 吾々は今日斯樣な追放の狀態を想像する事は出來ない、これと同じやうな西洋の例を求めるには、帝國時代に先き立つ遠き以前の古いギリシヤ、ロオマ時代に戾らなければならない。その當時追放なるものは、宗教上の破門を意味し、實際上文明社會からの除外であつた、――其頃はまだ人類同胞の考へもなく、血族上から親切を求めるといふ外、親切を求めるといふやうな考へはなかつたからである。他郷の人は何處でも敵であつた。さて昔のギリシヤの都會に於けると同樣に、日本に於ても、守護神の宗教は、いつも團體の宗教、組合の祭祀であつて、一地方の宗教とさへならなかつたのである。一方に高等の祭祀は個人とは關係して居なかった。個人の宗教はただ一家、一村、或は一地方の宗教であつた。故に他の家、他の地方の祭祀は、全然別のものであつた。他の祭祀に屬するといふのは、其處に迎へ入れられる事に依つてのみなされ得たのである。そして他郷人を迎へ入れるといふ事は、規則としてない事であつた。家或は氏族の祭祀がなければ、個人は道德上にも、社會上にも、死んだものであつた。何となれば餘所の祭祀も、氏族も、かくの如きものを排斥したからである。個人の私生活を規定した家族の祭祀から棄てられ、なほ對社會の生活を定める地方の祭祀から除かれた時、そのものは人間社會に對する關係に於て、全くその存在を失つたものである。

 以上の事實から、過去に於て、個人が自己を發展させ主張する機會の極めて乏しかつた事は想像しうるであらう。個人は無慙にも全然社會の爲めに犧牲に供されて居た。今日でも日本人の居住する處に於ける唯一の安全な道は、何事もその地方の慣習に從つて行くといふ事であつて、少しでも原則から離れると、嫌惡の目を以つて見られる。祕密といふものはない、何事も隱蔽され得ない、各人の善德も惡德も他のすべての人に知れる。故に尋常でない行爲は、行爲の傳統上の標準から離れたものと判斷され、すべでの風變りな事は、慣習に反くとして非難され、その傳統と慣習とは、宗教上の義務と云つた位の力をなほもつて居る。事實それ等は、(傳統と慣習とは)ただにその起原からばかりでなく、なほ過去の禮拜の意なる公共の祭祀に關係ある所から、宗教でもあり、義務ともなるのである。

 これに依つて神道が道德上の成文法をもつて居ない理由も容易に理解されるし、また神道の大學者が道德の法規は、不必要であると斷定した所以も了解されよう。祖先崇拜が代表して居る宗教的發達の其階段にあつては、宗教と道德との區別もなく、また道德と慣習との區別もあり得ない。宗教と政治(政府)とは同一物であ、慣習と法律とは同じである。神道の倫理は慣習に服するといふ一事の内に悉く包容されて居る。一家の傳統的規則、組合の傳統的法律、――それ等は則ち神道の道德であり、それに從ふのは則ち又宗教であり、それに反くのは不信心であつた……、而して成文たると否とに拘らず、凡そ宗教的法規の眞の意義は、要するにその社會に於ける義務の表明、善惡の行爲に關する教義、人民の道德的體驗の具體化等にあるのである。實際イギリスに於けるが如き行爲の近代的理想と古ギリシヤ及び日本のそれの如き族長制度的理想との間の相違は、これを精査して見れば、只だ古い考へを、詳細に亙つて、個人生活の細目にまで擴げるといふ點にあつた事が解る。正しく神道の宗教は、成文上の命今を要しなかつた。それは教訓に依り、或は實例に依つつて、幼少の時代から各人に教へられたもので、普通の知識あるものであれば、何人もそれを了解し得たのである。規則に外づれた行動が、人々に取つて危險である事を、宗教が認める以上、法規を作る事は無論無用な事である。たとへば吾々のより高い社會生活、則ち文化的生活の、他を排して居る吾々の一團の行爲は、決して單なる十誡に依つてのみ支配されるものではない。それ故吾々とても事實、行爲に關した成文上の法規をもつて居るわけではないのである。自分の住んで居る地帶(社會)に於て、何を爲すべきか、如何にしてこれを爲すべきか、と云つたやうな知識は、ただ訓練に依り、經驗に依り、觀察に依り、また事物の道理を直覺する事に依つて得られるのである。

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