柳田國男「一目小僧その他」 附やぶちゃん注 鹿の耳(1) 神のわざ
鹿の耳
神のわざ
此石は今でもまだ在るかどうか、一度是非見に行きたいと思つて居る。南津輕の黑石の町に近く、シシガサハといふ山路の傍に、周り五六尋もある大岩の面へ、大小無數の鹿の頭を彫刻したものがあつた。我々の敬慕する白井秀雄といふ旅人が、百三十年ほど前に此地を訪ねて、詳しい日記と見取圖とを遺して居る。何よりも珍らしいと思つたのは、鹿の顏が素朴なる寫實であつて、しかも其耳が特に大きく、鼠などの樣に描いてあることであつた。さうして首の位置は亂雜で、次々に彫り加へて行つたことは疑が無い。岩の横手の大木の空洞には小さな石が入つて居て、それにも同じ樣な鹿の首が刻んであつたといふ。
場處は淋しい山の中であつた。どうして此樣な彫刻がこゝにあつたものか、其當時でも既に説明し得る者が無かつたさうである。土地の言ひ傳へには、たゞ神のわざであつて、毎年七月七日には二つづゝ新たな鹿の顏が彫り添へられてあるとも謂つた。附近の村々ではシシヲドリ(鹿踊)の面が古くなると、必す此岩の脇に持つて來て埋める慣例があつたが、其由來も亦明かならずといふことであつた。奧州では村々に神樂の獅子舞と似たものがあつて、之を鹿踊といふのが普通であつた。その所謂獅子頭を權現又はゴンゲサマと稱して、面は稍細長く枝角があり、確かに鹿の頭を擬したものであつた。是とこの岩石の表の彫刻と、何か關係のあつたことだけは、誰にでも想像することが出來るのである。
[やぶちゃん注:本「鹿の耳」パートはどれも短章であるので、注は最後に纏めて附すこととする。ここで語られている鹿の姿を彫った石は現存する。yuki氏のブログ「くぐる鳥居は鬼ばかり」の「獅子が沢のしし石 (黒石市上十川)」が画像豊富で実際にアプローチする感じで見られ、非常によい。刻印された鹿の模式図もある。ここ、何時か行ってみたいなぁ……
「鹿の耳」初めのうちは枝角のことを指しているかのようにも読めるが(角なら白骨化しても片方しかなくてもそれが判るからである)、実際、以下を読み進めて見ると、これは実際の耳を切って切込みを入れて「一つ目」同様、その個体の区別化を指していることが判る。
「白井秀雄」私の愛する博物学者菅江真澄(すがえますみ 宝暦四(一七五四)年~文政一二(一八二九)年)の本名である。生まれは三河国渥美郡牟呂村字公文(現在の豊橋市牟呂公文町)と伝えられる。日本各地を精力的に旅し、多くの旅行記や記録を残した。ここに出るのは、寛政一〇(一七九八)年正月元日から同二十日まで現在の青森県東津軽郡の夏泊半島に位置する平内町(ひらないまち)にあった童子村に滞在し、正月行事等を記録した「追柯呂能通度(つがろのつと)」(同年中の日記二篇と随筆二篇を合本したもの)に出る。この時、彼は黒石からこの獅子沢の獅子頭石を見物している。
「五六尋」「尋」は「ひろ」で、両手を左右に伸ばした際の指先から指先までの長さを基準とし、一尋は五~六尺(約一・五二~一・八二メートル弱)であるから、七・六メートルから十一メートル弱となる。
「鹿踊」ウィキの「鹿踊」より引く。江戸時代の南部氏領(盛岡藩:現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた)及び『伊達氏領(仙台藩・一関藩・宇和島藩)、すなわち現在の岩手県、宮城県、そして愛媛県宇和島市周辺で受け継がれている伝統舞踊。福島県にも類似の鹿舞(ししまい)がある』。『シカの頭部を模した鹿頭とそれより垂らした布により上半身を隠し、ささらを背負った踊り手が、シカの動きを表現するように上体を大きく前後に揺らし、激しく跳びはねて踊る』。]
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