佐渡怪談藻鹽草 高田備寛狸の火を見し事
高田備寛(びかん)狸の火を見し事
元文年中の事にや。
「公務の氣を散ぜん」
とて、高田備寛、淺村何某(なにがし)を伴ひ、鹿伏(かふす)村に行(ゆき)て、逍遙かんと言(いふ)に、一日の閑暇有(あり)。日末の下りより、さゞへなんど取持(とりもた)せて、彼(かの)處に到り、
「夜釣の興をこそ」
迚(とて)、餌の小海老共取(とり)したゝめ、夕日傾き落(おつ)る頃、磯傳ひにつたひ出て、春日崎(かすがざき)なる身なげ岩の下邊りに行て、釣竿をおろし、暫らく、世情を忘(わすれ)たるは、天晴(あつぱれ)此日の樂(たのし)みなるべし。扨(さて)、用意の持せもの抔(など)、取(とり)廣げ、面白ふ醉にいる時、日はいつしか海に沈みて、させる得物もなかりき。
「最少し夜に入(いり)なば、魚の喰(くひ)てんものを」
迚、竿を携(たづさへ)て居たる。頃は卯月の末なれば、目ざすもしらぬ、闇の夜にて、傍(かたはら)の肩を幷(なら)べし何某も、聲のみ聞ゆる斗なれば、興盡(つき)て、
「いざや、立歸らん」
と言(いふ)に、何某の言へるは、
「此餌をたゞに捨(すて)んも本意なし。されど、海の淺深もわき難ければ」
と、
「爰(こゝ)に一趣向有(あり)」
と、火繩の火を付木に、てんてん蠟燭(ろうそく)に燈(とも)して、竿の先に結付(むすびつけ)、海上へ指出(さしいだ)して、底を見れば、魚の住居ふべき所、能々見えたり。是(これ)に依(より)て、思わず、赫六ツ七ツ、ひた釣につり上げる。かゝる處へ、其邊小高き岩の上よりたゝみかけて、石を打(うつ)事、頻なれば、魚もかゝらず、皆々興さめぬ。
「例の狸ござんなれ。したゝかなる目みせん」
とて、鍔口くつろげ、そこらかけ𢌞(まはれ)ども、聊も、目にさへぎらねば、釣竿を𢌞(まはし)て、もとの道をたどりて、醫王寺の邊に至り、彼(かの)魚釣し所を、見返れば、高き岩の上より、先の如く、竿に蠟燭を燈したる體(てい)を、其儘に寫し、三四ケ所に燈したり。何れも、高き岩を離(はなれ)て、靑き火をかゝげたてたるさま、いと憎ければ、
「最一度かしこに行(ゆか)ん」
抔いふに、伴ふ何某、
「いらざる畜類に腕立ぞ」
と制せられて、其儘に歸りぬ。
[やぶちゃん注:「高田備寛(びかん)」訓読みでは「のぶひろ」。既注。「靈山寺に大百足出し事」の私の「同權太夫【後久左衞門備寛と言】兄弟」注を参照のこと。
「元文年中」グレゴリオ暦一七三六年から一七四〇年、「享保」の後で「寛保」の前。
「公務の氣を散ぜん」「公務の鬱憤の憂さ晴らしをしようぜ!」。高田備寛(?~安永二(一七七三)年)は既に注した通り、佐渡奉行所地役人であった。従ってこの「淺村何某」もやはり同僚であったと考えてよい。今回新たに検索したところ、「産業医学資料展示室」公式サイト内のこちらのデータによれば、彼は後の宝暦六(一七五六)年に『佐渡金山坑夫の金銀の毒、石粉塵埃の影響について「佐渡四民風俗」にまとめる』とあり、なかなか公務絡みでもなかなか堅実な仕事をしていた(これからするのであるが)ことが判った。にしても、この話柄では若き日は、なかなかに剛勇でもあったことが判って、寧ろ、微笑ましい。
「鹿伏(かふす)村」既出既注。現在の相川の南端の下戸(おりと)村の、さらに南西の海岸域にある相川鹿伏(かぶせ)。
「逍遙かん」「そぞろゆかん」と訓じておく。
「日末の下り」夕暮れから宵にかけての時間を指すか。
「さゞへ」「榮螺(さざゑ)」。歴史的仮名遣は誤り。叩き割って腹足の軟体部や内臓を酒の肴とするのである。後の「用意の持せもの」である(釣り餌は「小海老」と後に出るから、釣り餌ではない)。
「春日崎(かすがざき)」相川鹿伏の西端にある岩端。私の佐渡での定宿ホテル大佐渡の真ん前である。
「身なげ岩」おとろしけない名である。
「最少し」「もすこし」。
「頃は卯月の末なれば、目ざすもしらぬ、闇の夜にて」殆んど新月なので完全な闇夜に近く、何かを目を凝らしじっと見てもその対象物を視認することが全く出来ないほどだ、というのである。次の「傍(かたはら)の肩を幷(なら)べし何某も、聲のみ聞ゆる斗なれば」でよくその闇の雰囲気を伝えている。
「此餌をたゞに捨(すて)んも本意なし。されど、海の淺深もわき難ければ」後のシーンを見るに、「餌を全く芥のように海に捨てるというのも、これ、どうにも不本意じゃ。と言って、ごく浅瀬の根付き魚などを狙おうと思っても、この真っ暗闇じゃ、海の深浅さえ分らぬ、下手すりゃ、海へ真っ逆さまじゃ。」といったニュアンスであろう。
「爰(こゝ)に一趣向有(あり)」高田備寛の台詞。「ここに一つ、面白い趣向を思いついたぞ!」。
「火繩の火を付木」檜 の皮、竹の繊維又は木綿糸などを縒(よ)って繩を作り、これに硝石を吸収させたもので、火持ちがよいので点火に用いた。当時の連中には煙草の着火用として重宝されたのであろう。それを火をつける付け木として。
「てんてん蠟燭(ろうそく)に燈(とも)して」「てんてん蠟燭」で一語か。よく判らぬ。しかし、てんてんと複数の蠟燭に火をつけた訳ではあるまい(直後に「竿の先に結付(むすびつけ)」とあるからである)。識者の御教授を乞う。
「住居ふべき所」「すまふべきところ」。すんでおるのが判るような所。
「能々」「よくよく」。
「赫」「あかえ」と読む。「宿根木村臼負婆々の事」に既出。その注で私は赤鱏(あかえい:軟骨魚綱板鰓亜綱トビエイ目アカエイ科アカエイ属アカエイ
Dasyatis akajei)に同定した。アカエイはごく浅い沿海、干潟や河口などにも棲息する。
「ひた釣」立て続けにそればっかり釣り上げること。
「頻」「しきり」。
「皆々」二人とも。
「例の狸ござんなれ。したゝかなる目みせん」「例の化け狸の仕業に間違いない。いっちょ、ガツン! 痛い目遇わせてやろかい!」。
「鍔口くつろげ」「つばぐち寛げ」。刀の鯉口を切ってすぐに抜き放つことが出来るようにしおいたのである。
「聊も」「いささかも」。
「目にさへぎらねば」視界には何も飛び込んでこないので。
「釣竿を𢌞(まはし)て」相川へ戻るというそれを釣り竿の先だけを写して向きを正反対に回すのである。まさに映画のモンタージュの手法である。お美事!
「醫王寺」旧相川地区の「寺社調査」(PDF)によれば廃寺で現存しない。真言宗岩尾山
医王寺で鹿伏(かぶせ)にあった。慶長一七(一六一二)年に創建されたが、明治元(一八六七)年に元の農家に復した旨の記載がある。付記に聖徳太子像を安置し、正保三(一六四六)年には水田与左衛門なる人物が太子堂を再建したとある。
「最一度」「もいちど」。
「いらざる畜類に腕立ぞ」「獣の類い如きに、無駄な蛮勇を奮(ふる)うて、どうする!」。]

