甲子夜話卷之二 12 似銀つかひ御仕置のとき、途中にて老職を罵る事
2―12 似銀つかひ御仕置のとき、途中にて老職を罵る事
昔のことにてや有けん【或曰、文政四年】、重職の人建言して、通貨を改鑄ありしとき、金銀の位、元貨より劣りたるなど、さまざま世に浮言ありしが、つひに贋貨を造りしもの出來て、追捕せられき。鞠問の後、罪極り、その者を馬にのせ、法場に赴き、刑行はるべき路次にて、高聲に、似せ金を作り出せし御仕置あらば、我々よりも吃としたる二本道具の御役人こそ罪は重かるべしと罵りしに、滿路の行人一哄に笑ひけり。付從へる町與力同心共、忌諱に觸れるを恐れて叱れども、更に用ひずして、我等はもはや死ぬるなれば、何でう世に憚ることあるべきやとて、幾度ともなく罵りしに、與力等もせん方なく默せりとぞ。
■やぶちゃんの呟き
「似銀つかひ」「にせがねつかひ」。贋金(にせがね)造り。
「老職」「らうしよく(ろうしょく)」幕府の大老や老中などの重職。
「或曰」「ある(い)はいはく」。
「文政四年」一八二一年。ウィキの「文政小判」によれば、元文の吹替え(流通済みの金属製品を鋳造し直す改鋳)により、『通貨の供給が増大し、やがて金銀相場も安定し経済が発展したが、次第に奢侈的消費増大の風潮となる』中、第十一代将軍『徳川家斉の子女の縁組費用、蝦夷地直轄政策などにより幕府の支出が増大』再び、『財政が悪化の一途をたどっていった。また古文字金』(先行する元文小判(げんぶんこばん)。金六十五・三一%、銀三四・四一%)は八十年以上の『長期間に亘って流通したため』、『損傷や磨耗が著しくなり、吹替えはこれを是正するという名目であり』、『古文字金の損貨を無料で新金と引き換えるということであった。しかし新金(新文字金)の量目は古文字金(元文金)と同一であったが、品位は低下しており』(金五十六・〇五%、銀四十三・五八%)、『出目』(でめ:貨幣の改悪鋳造によって生じた益金)『による財政補填を目的とするものであった』。『寛政の改革の遺法を守』る幕臣が次々と他界した後、文政元(一八一八)年から『老中格水野忠成は徳川家斉のもと出目獲得に』よる『幕府蓄財の充実を図るため、金貨の吹替えに着手した』。同年に『発行された真文二分判は、量目は元文小判の』二分の一で『あったが品位が』約十四%も『劣る名目貨幣であり、文政小判の品位はこの真文二分判とまさに同一であり、名目貨幣であった真文二分判を本位貨幣格に引き上げるものであった。逆の言い方をすれば』、『名目貨幣が本位貨幣を引きずり降ろしたことになり、同様の現象は銀貨においても見られた』。『貨幣の吹替えは金銀の両替相場のバランスの関係から、ほぼ同時に行われるのが通常であるが、文政の吹替えでは丁銀の吹替えが小判に対し』、約一年『遅れた結果、一時的な銀相場の高騰を招くといった無計画なものであった』とあり、銀貨もそれぞれのウィキで調べてみると、先行した元文銀の品位は金〇・〇六%、銀四十五・一〇%、雑(概ね、銅)五十四・八四%であったのに対し、文政三年五月四日から鋳造を始めた文政丁銀は金〇・〇六%、銀三十五・二五%、雑六四・六九%であった(下線やぶちゃん)。「昔のことにてや有けん」と頭あるが、静山が「甲子夜話」の執筆に取り掛かったのは、文政四(一八二一)年十一月十七日甲子の夜であるから、この謂いはおかしい。或いはあからさまな政道批判の記事であるから当初はかく書き、後になって(「甲子夜話」擱筆は静山が没する天保一二(一八四一)年)この割注をこっそり挿入したものかも知れぬ。
「浮言」「ふげん」。根も葉もないうわさ。流言。
「鞠問」「きくもん」。罪を問い質すこと。鞠訊(きくじん)。本来は「鞫問」が正字。「鞠」が音通で使用されたもの。「鞫(きた)む」は「鍛(きた)ふ」と同語源で「罰する・懲らしめる」の意。
「法場」「ほうじやう(ほうじょう)」は普通は寺のことを指すが、ここはどう見ても厳法を執行する刑場と読まないとおかしい。
「路次」「ろし」。途中。
「吃としたる」「きつとしたる」。男らしくきちっとした。武士として厳とした。ご立派なる。因みに、近世語には「きっとしい」という形容詞があり、これには「厳しい」の意の外に「現金な様子」の意味があった。これはそれも掛けられた洒落とも考え得る。
「二本道具」二本差しの武士。
「一哄」「いつこう(いっこう)」。これ自体で、大勢が集って一斉にどっと笑うこと。
「忌諱に触れる」「忌諱」は本来は「きき」であるが慣用で「きい」とも読む。人の嫌がることを言ったり、行ったりして、その人の機嫌を損ねる。「人」は同等以上、概ね、格上の支配的人物を対象とすることが多い。
「何でう」本来は「なんでふ」。「なんといふ」の略で、ここは反語表現に用いる副詞で「どうして(~することがあろうか!)」の意。「どうして、お上を憚(はばか)らなきゃなんねえことがあろうかよ、いや、ネエぜ!!」。感動詞としての「何を言うかッツ!」のニュアンスも含んでいる。江戸っ子なら胸がすく啖呵である。
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