変貌した本郷界隈 梅崎春生
本郷も、すっかり変った。
戦争前、十年間近くも、弓町、台町、森川町などと、転転と下宿住まいをしていた私ですら、今日(昭和二十七年八月二日)歩いていて、ここはどこの町かと、ふと疑いをおこすぼどだ。あの色濃い本郷下宿屋街の雰囲気は、きれいさっぱりと消失し、へんてつもない戦後的家並が、炎天のもと、しらじらと埃をかぶって拡っているだけだ。その改変ぶりには、いささかの感慨がなくもない。
本郷三丁目で車を捨て、元燕楽軒のところから曲る。ここらもすっかり、昔と同じ町筋でありながら、別の町を歩いているような感じ。そこから菊坂。この菊坂は昔から、こんな平べったい、短い坂だったのかと、ちょっと目を疑わせる。周囲の風物の密度の関係か。あの菊富士ホテルも、忽然と姿を消し、そのあとには、事務所みたいな町工場みたいな建物がたっている。ごく散文的な風景である。
昭和初期の大学生たち、たとえば田宮虎彦君たちが、青春の哀歓と共に生きた菊坂界隈も、今はただその地名をとどめるだけで、その雰囲気は見るべくもないだろう。
ここらあたりから台町一帯にかけて、櫛比(しっぴ)していた下宿屋の群はすっかり戦火にかかり、あとにはこまごました小住宅が、茸(きのこ)のように立ち並んでいる。またあのような下宿屋街を再建して、学生たちを収容するのは、経済の上からも、不可能なことだろう。建築費の高騰、それにもまして、学生たちの経済力の転落だ。戦前の学生にくらべて、現在の学生は、極度に貧乏だ。もちろん戦前だって、「大学生はおおかた貧し雁帰る」と、草田男だったかな、そんな風に詠(よ)まれたほどに貧しかったが、今のはそんな句にもならないほど貧し過ぎるのだ。その証拠に、戦前はとにかくあちこちにあった、学生相手の喫茶店や飲屋やレストランなどが、もう現今では、営業的に成立しないという。
名前や建物だけは昔のままでも、学生相手を切換えて、客筋はおおむねやみ屋やボスや新興階級となっている。また焼け残った下宿屋たちも、旅客相手の旅館に続々と転向、学生は一般的にしめ出されつつある。
さてこそ、落第横丁のさびれ方。これがかつて、大学生たちでにぎわったあの有名な横丁なのか。今はただ、炎天下、うすぎたなく、親しみもそっけもない、ありふれたみみっちい小路にしかながめられぬ。
もちろんそれは私の感傷で、現在の学生は、そういう感傷もなく、ここを往き来しているにちがいないけれども。
正門前からまっすぐに入る。戦前はこの突き当りに、小さな神社があった。今ではそこが、マーケットみたいな店になっている。いや、戦前だけではない、戦後しばらくも、この神社はあったのだ。神社が潰れたとは、あまり聞かない話だ。焼けて失くなったというのならともかく。
この神社は、本郷某子爵のものだったが、戦後の財産税のために手離したという。そこにプロ-カーなどが暗躍して、とうとう神社変じてマーケットということになってしまった。戦後的蒼海桑田(そうかいそうでん)の変である。明治時代、年若き石川啄木が、本郷の蓋平館という下宿に住んでいて、ある冬の日、咽喉がかわいたので、この神社の柵につもった雪をつまんで食べたという、そういう神社なのだが、時勢の改変には敵し難く、とうとうマーケットに成り下ってしまった。
マーケットの雪など、うす汚なくて、つまむ気にもなれないだろう。
そのマーケットから横に折れ、徳田秋声遺跡。都教育委員会指定ということになっている。文豪徳田秋声が、明治三十八年以来、病没時まで、筆をとりつづけた六畳間の書斎。内部は、秋声病没当時の様相を、そっくり保存してあるが、如何にせん、その書斎と軒を一尺も隔てぬところに、木工場が戦後建てられ、槌音は高らかにひびくし、汚水は流れ込むし、書斎の土台は腐りかけ、いくら人為をつくしても、荒廃は間もないことと思われる。都教育委員会も遺跡を指定し放しにすることなく、そういうことまでに心をくばってもらいたいものだ。ことにここは文教地区のはずだし、こんながちゃがちゃした町工場など、遺跡に接して許可する方がおかしいと思うのだが、どうだろう。
[やぶちゃん注:昭和二七(一九五二)年八月七日附『東京新聞』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。気になる二点についてのみ、注するが、私はこの周辺の地理には殆んど知らない。但し、それらに注する意欲が正直、全く湧かないので仕方がない。悪しからず。
「田宮虎彦」(明治四四(一九一一)年~昭和六三(一九八八)年)は小説家。東京生まれであるが、父母(父は船員で非常に荒い気性であった)が高知出身で土佐を郷里と意識していた。東京帝大国文科卒。在学中から同人誌『日暦』『人民文庫』に執筆。戦後、「霧の中」「落城」等の権力への悲愴な敗北感をこめた歴史小説の連作で注目を集め、「絵本」「足摺岬」等の庶民的ヒューマニズム漂う自伝的作品でも知られた。一九八八年一月に脳梗塞で倒れて後、右半身不随になり、同年四月九日、同居人であった旧友の子息の不在中、東京都港区北青山のマンションの十一階ベランダから投身自殺した。「脳梗塞が再発し、手がしびれて思い通りに執筆できなくなったため命を絶つ」といった内容の遺書が残されていた(思文閣の「美術人名事典」とウィキの「田宮虎彦」をカップリングした)。春生の書き方から誤解し易いように感じられるので言っておくと、春生より四歳年上である。
「大学生はおおかた貧し雁帰る」確かに中村草田男の句(昭和一〇(一九三六)年刊の句集「長子」所収)であるが、正確には、
大學生おほかた貧し雁歸る
が正しい。]