諸國百物語卷之一 二十 尼が崎傳左衞門湯治してばけ物にあひし事
二十 尼が崎傳左衞門湯治(とうぢ)してばけ物にあひし事
攝州尼がさきに傳左衞門と云ふ人あり。有馬(ありま)へ湯治せられけるが、折ふし、いづくともしらず、うつくしきわかき女一人きたり、
「われらも湯にいれ下され候へ」
といひければ、女の事なれば傳左衞門ゆるして入れければ、此をんな、傳左衞門がうしろのあかをかき進ずべし、と云ひけるほどに、かゝせければ、いかにもきみよく、あかをかき、とろとろとねいるやうにかきけるに、いつのまにか、うしろの身の肉すこしもなく、ほねばかりになし、行きかたなくうせにけり。さるほどに湯にも女ばけ物ありと、むかしよりいひつたへ侍る也。
[やぶちゃん注:底本は頁末上部に「諸國百物語卷之一終」とある。
「有馬」兵庫県神戸市北区有馬町にある古代から開けた日本三古湯の一つである名湯有馬温泉。ウィキの「有馬温泉」によれば、『林羅山の日本三名泉や、枕草子の三名泉にも数えられ、江戸時代の温泉番付では当時の最高位である西大関に格付けされた。名実ともに日本を代表する名泉の一つ』とある。「攝州尼がさき」(現在の兵庫県尼崎市)の西北西約十六キロメートルに位置する。
「うしろのあかをかき進ずべし」一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の本篇の脚注には、『背中の垢。近世では、湯女が客の垢を手指の爪先で搔いたり、すったりして流した』とある。
「行きかたなくうせにけり」無論、これはその女怪が何処へ去ったかも判らずに掻き消えていた、というのであるが、「うせにけり」には、背部の肉が完全に削げ落ち、脊椎骨から肋骨背側まで悉く露わになった伝左衛門の死した骸(むくろ)が湯掛け場に横たわっている情景も掛けてあると読まねばならぬ。
「湯にも女ばけ物ありと、むかしよりいひつたへ侍る」marusan 氏のサイト「旅 瀬戸内(たびせと)」の「妬湯(うわなりのゆ) 有馬温泉」によれば、『神戸市・有馬温泉観光協会(現地案内板より)』として、有馬温泉内にある奇体な「妬湯(うわなりのゆ)」という名について、『由来は定かではありませんが、江戸時代の本には女子が盛装してこの温泉の前に立つと激しく湧いて止まらないとか、自分の憎い心や悪口を言ってののしれば』、『たちまち湧くと記されています』とある。附記として『江戸時代の本とは、摂津名所図絵、有馬手引書、和漢三才絵図』とあるので、寺島良安の「和漢三才圖會」の「卷第五十七」の「水類」中の「妒女泉(うはなりゆ) 咄泉【俗云後妻(ウハナリ)湯】」(【 】は二行割注。「妒」は「妬」に同じい。嫉妬の意)を見ると、主文で中国の間歇泉の記事(「并州(へいしふ)の妒女泉」・「安豐郡の咄泉」の二例)を引いた後、本邦の例を以下のように示す(原文は所持する原典画像を視認して正確に活字に起こした)。
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△按有馬温泉之傍有後妻湯人向之罵詈急湧上宛然怒恚貌俗呼曰後妻湯
駿州有媼之池【江尻近處】相傳有一婦性頑妬而文禄二年八月八日投于池死焉人至池涯呼曰媼則忽泡沫※潗若大叱之則彌湧甚蓋爲彼靈所業者妄誕也自然陰陽攻伐之氣令然也但妒婦後妻名和漢共附會耳
[やぶちゃん字注:「※」=「氵」+「拾」。]
○やぶちゃんの書き下し文(一部の送り仮名・読みは私が補訂した)
△按ずるに、有馬温泉の傍らに、「後妻湯(うはなりゆ)」有り。人、之れに向ひて罵詈(のゝし)れば、急に湧き上り、宛然(さなが)ら、怒(いか)り恚(いきどほ)る貌(ばう)なり。俗に呼んで「後妻湯」と曰ふ。
駿州(すんしふ)に「媼(うば)が池」有り【江尻の近處。】。相ひ傳ふ、一婦有り、性、頑妬(ぐわんと)にして、文禄二年八月八日、池に投じて死す。人、池の涯(ほと)りに至りて、呼びて「媼(うば)」と曰へば、則ち、忽(たちま)ち、泡沫(うたかた)、※(わ)き潗(かへ)る。若(も)し大いに之れを叱(しか)れば、之れ、則ち、彌(いよいよ)湧くこと、甚だし。蓋し彼の靈の所業(しよげふ)と爲すは、妄誕(ばうたん)なり。自然、陰陽攻伐の氣、然らしむるなり。但だ、「妒婦」・「後妻」の名、和漢共に附會せしのみ。
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「文禄二年」西暦一五九二年。この江尻宿(現在の静岡市清水区)近在の「姥ヶ池」の伝承は柳田國男が「妹の力」の「うわなりの池」の最後でも述べている通り、良安が批判するのと同じく無責任な命名に過ぎない(現地ではもっと哀しい、乳母が誤って子を池の中へ落し自らも入水し果てたという「乳母が池」としての全く異なる伝承がある。またここは現在はただの池で間歇泉ではない)。なお、前掲の「江戸怪談集 下」の脚注には、有馬温泉には、この『「妬湯(うわなりのゆ)」など、この熱湯で死んだ女の伝承があった。また、早くから湯女(ゆな)がいた』とある。]