今や紳士になった街――池袋 梅崎春生
私は戦前の池袋を全然知らない。戦後の池袋はちょっとばかり。終戦の年の十二月から翌年の二月頃まで、約三カ月、池袋西口の奥の要町というところに住んでいたことがある。終戦直後のことだから、池袋も焼野原みたいなもので、それでも西口広場にはいち早く、蜘蛛(くも)の巣のようなマーケット街が出来ていた。屋根はとんとん葺(ぶ)きだし、壁は粗末な板がこいだし、雨が降れば道はどろどろになるし、ひどいマーケットだったが、品物不足の時代だから、けっこう繁昌(はんじょう)していた。詩人の林富士馬君がこのマーケットの中に本屋を開いていた。私は時々そこに立寄り、その近所の店でバクダンとかカストリを御馳走になったこともある。ブラック・マーケットだから、どんな禁制品も売られていた。もちろん酒やビールも当時は禁制品である。このマーケットの古着屋に、洋服だの着物だのを売って、すなわちたけのこ生活をしていたのだから、ビールなどという贅沢(ぜいたく)品はとても飲めない。せいぜいバクダンかカストリ類であった。
古沢岩美画伯と落合うため、西口駅前のビヤホール「三陽(サンサン)」におもむく。西口に降りるのはその頃以来、つまり七年ぶりだから、大げさに言うと私は浦島太郎みたいにおどろいた。七年前のあの累々(るいるい)たるマーケットはあとかたもなく、一面のネオンまばゆき新興盛り場である。道の見当もつかない。行人に道を訊(たず)ねたりして、やっと「三陽」を探し当てる。古沢画伯はすでにビールのコップを傾けていた。私もビールを注文。七年前とちがって、もはやビールは禁制品でもなければ、贅沢品でもない。ビールを飲んでる現場をおさえられて、一晩留置場に入れられたあの頃を思えば、まあ往事は茫々として夢の如きものである。「三陽」はあまり広くないが、なかなかの繁昌ぶりである。経営者は台湾出身の人の由で、そのせいかシューマイがよく出る。シューマイをさかなにしてビールを飲んでいる客が多い。脂気のものはビールの泡を消すので肴には不適当だと、「ホロニガ通信」の生ビール心得帖に書いてあったが、そうするとこれはどういうことになるのかな。つまりそれほどにここのシューマイが美味(うま)いということなのだろう。そう解釈して私はもっぱら塩豆でビールを三杯ばかり傾けた。
そこを出て、次なる店は琉球料理の「おもろ」。うなぎの寝床みたいな細長い店で、一番奥には藤田嗣治の画がかけてある。主人の南風原さんは沖縄の人。壁に貼られた料理品は、「あしてびち」「ちゃんぷる」「ミミガー」等々。ミミガーというのは豚の耳の皮を線に切って、酢醬油にしたもの。三十円だから安い。新宿の琉球料理「志田伯」でも私はこれを好んで食べる。こりこりしてちょっとくらげに似ている。「おもろ」のは「志田伯」のよりすこし柔かい。「おもろ煮」というのは豚の尻尾の煮込み。ピッグテイルシチューである。飲物は泡盛。古沢画伯は泡盛は若手らしくビール。私は泡盛は好きだ。なにか郷愁がある。学生時代、金がなくなると、こればかり飲んでいた。あの頃にくらべると、戦後の泡盛は薄いような気がするが、あるいはこちらの酒量が上ったためか。泡盛の酔いは透明でいい、などと考えつつ二杯飲んだら、さすがに少々酔いが廻って来たらしい。
「おもろ」を出て、次は私の希望で、四五軒はなれた「三勝」という店。なぜここを希望したかというと、そこはそれ七年前私はこの店の常連(?)で、たしか二千円ばかりの借金も残っている。飲屋の借金は一年経つと時効となるそうであるから、もう払う義務はない。暖簾(のれん)をくぐると、体重十八貫のおかみさんが、相変らずでんと坐っていた。私はビールを飲みながら、七年前の借金のお詫びを言い、近頃の池袋のことなどを訊ねる。昔はここは恐い町だったが、今はずっと落着いて来た由。そう言えばあの頃の池袋はこわかった。酔っぱらいが身ぐるみ剝(は)がれるなんて、日常茶飯事であったが、現在ではそんなことは絶無である由。お目出度き次第である。
「三勝」も七年の風雪に耐えて営業して来ただけあって、景気も悪くないらしく、造作もいささか変り、二階を建増ししたりしている。もうこれなら七年前の借金も払わなくてもいいだろう。借金のみならず、他にも私はこの店に迷惑をかけている。すなわちあの頃は私は酒癖が悪く、この店で詩人の江口榛一とも殴(なぐ)り合いをしたことがあるし、鍛代利通とも喧嘩をして、店の器物などを破壊したりした。弁償した記憶がないところをみると、やはり踏み倒しだろう。あの頃からみれば、この私も紳士となったものだ。言葉もやさしく静かに飲んでいる。茫々(ぼうぼう)として夢のようである。
ここですっかり酔ってしまったから、あとのことははっきり記憶にない。「アモール」というキャバレーに行った。音楽が鳴り、若い人々が踊っていた。私は踊れないから、眺めていただけだ。どういうつもりなのかハンカチを口にくわえ、だらりとぶらさげて踊っている青年がいた。なんだかそれが実に池袋的な感じであった。どこが池袋的かと聞かれると私も困るけれども。
ここを出て、「千登利」というヤキトリ屋など。ここのちろりは横臥(おうが)式でめずらしかった。清水焼で、横たえたまま爛(かん)をする。これで爛をすると、酒も旨いという。欲しいと思う。七年前の私ならちょろまかして、ポケットに忍ばせて持ち帰るところであるが、今の私は紳士であるからして、そういうことはやらない。
池袋と言っても、西口だけ。その数軒を廻り、すっかり酔っぱらい、ついに池袋の全貌を大観するというところまでは行かなかった。久しぶりのことだから止むを得ない。しかし今度ですこし要領がわかったから、時々歩を伸ばして、池袋まで飲みに行こうかと思っている。
[やぶちゃん注:昭和二八(一九五三)年十月号『ほろにが人生』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。傍点「ヽ」は太字に代えた。既注通り、この掲載誌及び文中に出るそれは朝日麦酒株式会社発行の広告雑誌ではないかと思われる。
「終戦の年の十二月から翌年の二月頃まで、約三カ月、池袋西口の奥の要町というところに住んでいた」現在の東京都豊島区要町(かなめちょう)。梅崎春生の記憶には錯誤がある。彼がここに住み始めたのは可能性としては敗戦の翌昭和二一(一九四六)年十二月である(敗戦の翌月に上京した折には川崎稲田登戸の友人宅、翌年二月には目黒区柿ノ木坂の友人下宿に同居しているからである)。参照した底本別巻の年譜には昭和二二(一九四七)年一月の条に、『山崎恵津と結婚』、『豊島区要町に住む』とあり、同年十月には『長女史子(ふみこ)誕生。世田谷区松原町三丁目九五七番地の椎名麟三宅近くに転居』とするからである。これに従えば、ここに住んだのは終戦の年から二年後の一月から十月までの約十カ月ということになる。なお、彼が西武池袋線沿線の練馬区豊玉中(とよたまなか)二の一九に転居(建売住宅当選)するのは、このずっと後の昭和三〇(一九五五)年四月であるから、この時点で当時の池袋に土地カンがないというのはおかしくないのである。
「林富士馬」(大正三(一九一四)年~平成一三(二〇〇一)年)は東京府出身の詩人・文芸評論家・医師。ウィキの「林富士馬」より引く。東京で生まれるも、『父母の郷里である長崎県に育つ。長崎では芥川龍之介の門人だった渡辺庫輔と交友。慶應義塾大学文学部在学中に佐藤春夫の門人となり』昭和一〇(一九三五)年『夏頃、佐藤邸にて太宰治と知り合う』。昭和一四(一九三九)年、『佐藤春夫の序文を得て、第一詩集『誕生日』(私家版)を刊行(林修平名義)。しかし、薬物中毒や自殺未遂を繰り返す太宰の激しい生き方を見て一度は文学を断念した』。『慶應義塾大学を中退して日本医科大学を卒業し、医師となる』。昭和一八(一九四三)年、『文学青年時代の三島由紀夫と知り、当時まだ無名だった三島の才能を高く評価。後年三島は、回想録『私の遍歴時代』』(昭和三九(一九六四)年講談社刊)『で、「私は日本浪曼派の周辺にゐたことはたしかで、当時二本の糸が、私を浪曼派につないでゐた。一本の糸は、学習院の恩師、清水文雄先生であり、もう一本の糸は、詩人の林富士馬氏であつた」と述べている』。戦前から戦後にかけて、『『天性』『まほろば』『曼荼羅』『光耀』『プシケ』『新現実』などの同人誌の中心人物として活躍。第二次世界大戦後は小児科医を開業』、昭和三三(一九五八)年七月から『文學界』で同人誌評を担当、昭和五五(一九八〇)年まで続けた、とある。梅崎春生より一つ年上である。
「バクダンとかカストリ」先行する「悪酒の時代――酒友列伝――」の「メチル」の私の注の最後の方を参照のこと。
「古沢岩美」(ふるさわいわみ 明治四五(一九一二)年~平成一二(二〇〇〇)年)は洋画家。『佐賀県出身。久留米商業学校中退。岡田三郎助に師事。創紀美術協会』、昭和一四(一九三九)年の『美術文化協会の創立に参加。シュールレアリスムで女体などを描く。戦後、日本アヴァンギャルド美術家クラブを結成』している(以上はウィキの「古沢岩美」に拠る)。恐らくは梅崎春生と彼のペア企画で池袋の飲み屋風景を絵とエッセイで、というのがこの『ほろにが人生』の記事の企画であったものと思われる。梅崎と特に親しい印象を持たないからである(彼の酒の嗜好をこの時まで知らないことがそれを証明している)
「南風原」読みは「はえばる」「はえばら」「はいばら」の可能性。しょうもないところにルビ振らんと、こういう肝心なところに、ルビ振らな、梅崎先生!
「十八貫」六十七・五キログラム。
「江口榛一」(えぐちしんいち 大正三(一九一四)年~昭和五四(一九七九)年)は詩人で社会運動家。ウィキの「江口榛一」によれば、大分県生まれで、本名は新一。明治大学文芸科卒で、当初は教師や新聞記者を務めていたが、戦後、聖書の啓示を受けて詩作を行い、雑誌『素直』(これは梅崎春生の「桜島」の初出誌である)の編集長を経、昭和二九(一九五四)年に「近所合壁」(『新潮』の同年五月号)で第三十一回芥川賞の候補となった。翌年、受洗するも、既成の教会に飽きたらず、昭和三二(一九五七)年には『困っている人が自由になかの金を取って使うことを目指した』募金活動「地の塩の箱運動」を起こしたが、二年後に縊死自殺している。娘の江口木綿子(ゆうこ)さんによって「地の塩の箱連盟」として遺志が現在も続けられている(「「地の塩の箱運動」については北尾トロ公式サイト「全力でスローボールを投げる」の「昭和の根っこをつかまえに」の『第3回「地の塩の箱」の巻』に拠った)。
「鍛代利通」姓は「きたい」と読む。名は「としみち」か。早大英文科卒の『改造』などの編集に関わった人物かと思われる。横浜事件にも関わっている。詳細の事蹟は不明。識者の御教授を乞う。]