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2016/09/08

砂川   梅崎春生

 

 九月十三日。

 砂川町に着いて先ず驚かされたのは、立川基地から飛び立つ飛行機の爆音だ。

 とにかくこいつはお話にならない。

 約五分間おきに、鉄板滑走路をぎりぎりに浮揚した双発、四発、ジェット機が、そのまま砂川町の三十米か五十米ほどの上空を轟然(ごうぜん)と通過する。いや、轟然という言葉では足りない。もしその通過路の真下にいれば、振動するのは鼓膜だけではない。身体全体が震撼(しんかん)する。肩や背を揉む電気按摩器があるが、あれを内臓の内側からべっとりと当てられたように、全身がぶるぶると震撼するのだ。もちろんその間は口をきいても聞えはしない。鶏が卵を産まなくなるのは当然だ。

 戦争中ならいざ知らず、戦争が行われていない現在において、ほとんど間断なくこんな爆音を聞かされるのは、ただただ奇怪という他はない。私はこれだけでも基地附近に住む人々に同情した。ああなると音はもう暴力以上だ。

 昼の弁当を食べるために、近くの農家の縁先を借りたが、やたらに蠅(はえ)が多くて、握り飯やおかずにうようよたかった。縁側から直ぐが蚕の部屋になっていて、柵々の上に無数の蚕が桑の葉にたかってうごめいていた。庭には鶏小屋などがあって、蠅はそのあちこちから発生するらしい。主人は蠅に対しては神経質でないように見えた。その主人に、爆音にはもう慣れたか、という意味の質問をしたら、飛んでもないという風に首をふった。

「慣れるもんかね。あの音は慣れるというもんじゃねえよ」

 頭上を飛行機が飛ぶのは、昼間だけでなく夜もだという。夜もあんなのに飛ばれては、ろくろく眠ることも出来ないだろう。それらはきっと人間の内部をじわじわとむしばんで来るだろう。

 私たちが砂川町に着いたのは、午前の八時二十分。

 いきなり中心部に乗りつけたのではなく、そこからはるか隔たった地点で自動車を降りざるを得なかった。五日市街道の両側にずらずらと自動車が駐車しているからである。警官隊を運ぶ幌(ほろ)付大型トラックも沢山あったが、大半は報道関係だ。新聞社や放送局やその他いろいろ。おびただしい数である。

 この日の砂川町に集まった人々を四つに大別すると、地元民と支援労組員、警官隊、やじ馬、報道陣になる。そしてこの四つの中、ある意味では報道陣が主役をつとめていたと言ってもいい。一番よく活潑に動いたという点で、見た目には主役を演じていたようだ。

 私が先ず感心したのはカメラマンの熱心さで、私などがとても出来ないような危い芸当をやった。電信柱によじのぼったり、屋根や自動車に這い上ったり。もっともそういう芸当をしなければ、紛争の状況は絶対に写せないのである。せまい五日市街道にわんさわんさと人が集まり、その人数が多過ぎるからだ。

 白状すると、私はこの日砂川町に行き、八時間近くもそこにいながら、実力行使の現場をほとんど目撃しなかった。人垣が厚過ぎて、見ることが出来ないのだ。喧嘩腰で人垣をかき分ければ、あるいは見ることが出来たかも知れないが、そうすると紛争のまっただ中にまき込まれるおそれがある。といって、手頃の樹木や電信柱には、すでに先客が鈴なりになっている。

 だからこの日の砂川町の大局的な動きや実力行使の光景を、私は家に戻って夕刊で初めて知ったわけだ。その日の夕刊には「砂川町・強制測量に入る」という大見出しの下に「警官隊ピケを寸断」「重傷三、軽傷三十余名出す」などとある。

 私がゆっくり眺め得たのは、警官隊が昼飯を食って緊張のゆるんだ時とか、そういう事態の小康時に限るので、夕刊を読んでも何だかぴったりと来ない感じもあった。個々の力で見て歩くのは、視野や視界に限度がある。私のような消極的な観察者には、特にそうだ。このレポートでも、見ないものを見たようには書けない。

 中心部のたばこ屋の屋根に、カメラマンが三十人ばかりもよじ登った。屋根はペかペかのトタンである。三十人も登れば、屋根に穴がめりめりとあいたりまた落ちそうで、危険極まりない。しかしカメラマンたちは平気である。平気でぱちぱちうつしている。たばこ屋の主人がはらはらして、しきりに降りて呉れと頼むのだが降りて来ない。ついにたばこ屋は激怒して、木刀を持って自分も屋根に登りかけたので、流石(さすが)のカメラマンたちもおどろいて、それぞれ飛び降りて逃げた。おそらく自分がなぐられるより、木刀でカメラを叩きこわされるのをおそれたのだろう。

 実際カメラマンは、カメラを持たないとふつうの人間なのに、カメラを持ったとたんに人格にXが加わった如くになり、向う見ずの無鉄砲となるようだ。

 しかしこういうカメラマンや報道記者がいるおかげで、地元民、労組の坐り込み戦術というのが成立するわけだ。大体力と力の押し合いにおいて、無抵抗の坐り込みなどということが成立するわけがない。現代を昔の戦国時代と考えて見ればすぐに判る。

 坐り込み戦術というやつは、その無抵抗状態に自分を置くことによって、相手方(警官側)のヒューマニティに訴えているのではない。警官の個々には、あるいはヒューマニティはあるだろうが、あんなに命令一下で動くという組織体になれば、ヒューマニティというものは全然なくなってしまうのだ。ただ無抵抗なものに対する実力行使を、カメラにうつさせたり報道させたりするために、坐り込みというのがあるわけだ。カメラはうそはうつさない。実際にあったことしかうつし出さないのだから。

 しかし実際において、報道陣の空気は地元側に味方していた。(当然の話であるが)警官隊がピケ隊を押す。ピケ隊がじりじり押される。見ていてたまらなくなって、

「おい、みんな何をしているんだ。ピケ隊のうしろに廻って支えろ!」

 と怒鳴りながら飛び出して行く報道者もいた。

 また繰り出して来た警官隊の装甲車。この装甲自動車を指差して、私が警官の幹部に、何という名前かと訊ねたら、広報車というとの返事であった。何故広報車というかというと、スピーカーがついているからだそうだ。なるほどスピーカーはついているけれども、同時に分厚く装甲してあるのも事実である。ごまかしてはいけない。やはり装甲車と呼ぶべきだろう。その装甲車の上にカメラマンが五六人よじ登り、撮影し始めた。警官隊がいくら降りろと言っても降りない。これを暴力で引きずり落すわけには行かないのだ。暴力をふるう瞬間を、暴力をふるわれる方がぱっとうつしてしまうからだ。とうとう警官のたくましいのが五六人這い登り、カメラマンの一人一人の両手を取り、護衛するような恰好で紳士的(?)に引きずり落した。

 

 夕刊の報道によると警官千七百人。そのほとんどが濃紺色の服を着ている。厚ぼったい丈夫そうな生地の服だ。その服は何という服かと訊(たず)ねたら、最初の警官はしばらく考えて作業服だと答えたし、二番目のは別段名はないとの返事であった。どうもおかしいと思っていたら、あとでその本当の名称が判った。

 郵便局の前に、都職労を中心とするピケ隊が、二十列ぐらいになってがっしりと坐り込んでいる。これを引き剝がすことは容易でないので、警官隊もなかなか手を出さない。ピケ隊は歌をうたったりして気勢を上げるが、警官隊は発する言葉もなく黙々と対峙(たいじ)している。その警官の隊列が、午後一時半頃くずれて、昼食となった。大型トラックから弁当を運んでくる。竹の皮包みで、握り飯に紅しょうが、他につくだ煮なんかが入っているらしい。

 食事が済むと昼休みというわけで、隊員は木蔭に腰をおろしたり、寝そべっているのもいる。私たちはその傍に行って、何かと話しかけてみた。休憩の隊員に混り込んで話しかけているのは、私たちだけでなく、白鉢巻の労組員もいるのだ。その一人は鼻の片方の穴に綿をつめている。実力行使の際に、警官からぶん殴(なぐ)られたのだ。

「いきなりぶん殴って来やがってさ。だから俺もぶん殴り返してやったけどな」

 警官たちを前にして、そんなことを手振りで説明している。面白そうに聞いている警官もいる。その警官の一人に、私はその服の名称を訊ねてみた。するとその警官は、ちょっとあたりを見廻し、小さな声で、

「出動服と言うですな」

 と答えた。なるほど、出動服ならはっきりと判る。

 休憩中の隊員たちは、緊張がゆるんでいるせいか、割に友好的で、私たちに近づきたがるような傾向もあった。私たちというよりも労組員たちに。

 私は「群像編集部」という腕章をつけていたが(腕章をつけていないと現場に入れない)、大久保編集長の腕章は「講談社」というのである。隊員の一人がその大久保君を指差して、

「へっ、講談社までやって来たよ」

 と笑った。そして私に向って、

「私たちのことを、子供の雑誌にまで書くんですか?」

 と訊ねた。きっと少年の頃、「少年クラブ」か何かの愛読者だったのだろう。返事のしようがない、ので、もぐもぐとごまかした。

 隊員たちは、幹部級をのぞくと、大体二十歳前後の若さで、各署に配属されているのではなく、予備隊として訓練を受けたり出動したりしているのだ。どういう方面に出動するかというと、たとえば競輪場警備などにだ。競輪場警備ならいいけれども、こういう砂川町みたいなところに出動するのは愉快でないらしく、

「私たちだって、ほんとにこんなことはやりたくないんですよ。命令だからいやいややっているんです」

 と述懐した隊員もいた。しかし中には、自分たちみたいに若くなければこういう荒仕事は出来ない、老巡査たちはとても使いものにならない、と昂然(こうぜん)たるのもいた。さまざまである。

 しかし隊員たちも、いくら気がはやっても、個人の意志で攻撃に出るわけには行かない。命令があるまでは手出しが出来ないのだ。だから対峙中に、地元あるいは労組の有志が隊員に近づいて、大声で訴えたり演説を始めたりする。地元の老人が切々と訴えたりすると、さすがに心を動かされる隊員もあるらしく、涙を浮べているのもいる。隊員たちの中にも農村出身は多いだろうし、土地をうばわれる苦しさはよく判るのだろう。

 中には悲憤憤慨して、隊員を前にして説く者もいる。お互いに日本人ではないか。日本人が日本人に暴力をふるうとは何か。暴力をふるって土地を取り上げて、飛行場を拡げて、そして飛ぶのはどこの飛行轢か。アメリカの飛行機ではないか。お前たちはアメリカのために働いているのか。俺たちからしぼり上げた税金でまかなっているくせに、俺たちのためには働かず、アメリカのために働き、俺たちを苦しめようというのか。

「税金ドロボウ」

「税金ドロボウ」

 ふとい声があちこちからかかる。隊員は皆聞えないふりをしているが、ふりをしたって聞えるのだから仕方がない。怒って飛びかかるわけには行かない。涙を出しているのもいる。説く者はますます説きつのる。お前たちは自分が悪いことをよく知っているだろう。その証拠に、俺の話を聞いて、顔が歪んでいるじゃないか。ほら、また歪んだ!

 また別に、隊員たちに笑い顔で申し込んでいる労組員がいる。君たちの靴は大きくて頑丈だなあ。見ろ、俺の二倍ぐらいあるぜ。(自分の靴を隊員の靴にくっつけてくらべて見る。)この靴で蹴るのだけは止そうじゃないか。なあ。俺たちも絶対に靴で蹴らないと約束するから、君たちも蹴らないと約束して呉れよ。

 対峙する労組と隊員の間を行きつ戻りつしながら、大きな身振りで、なにか演説をぶっているのもいる。風態も異様だし、言うことも神がかっていて、すこし気が触れているらしい。地元のおかみさんをつかまえて聞いてみると、地元の者ではないという。見たこともない男だという。

「きっと平和論者だよ」

 と一人のおかみさんが冗談めかした口調で断定したので、あたりが皆笑い出す。どうも砂川町では平和論者は歩が悪いようだ。そういう上空を、五分間おきに、圧倒的な音響が轟々と行き過ぎるのだ。その轟音の間は、皆ははたと口をつぐんで、首をちぢめている。

 砂川という町は、五日市街道に沿って、えんえん二里にわたる、まことに細長い町だ。今度接収されようとするのは、長い胴体の中心部に当るところだが、その被害をこうむる人々の中で、いわゆる条件派というのはどのくらいいるか。「新聞に出ているよりずっと少ないですよ」昼食の縁を借りた主人が断言した。「条件派はごく少数です。それがどうしてあんな数字が新聞に出たか――」

 その理由を主人は私に説明して呉れたが、その理由は今ちょっと忘れた。なんでも条件派の頭目は土地ブローカーで、接収されたって得こそすれ損する立場にはない男だそうだ。条件派の全部は大体それで、父祖の地をうばわれる苦しみを持つ者は、全部がっしりと団結して反対派をつくっている由。

「わしらの団結は固いですよ。補償補償というが、あいつ等の言い方はあてになるもんか。ペテンみたいにして土地を取られてたまるもんですか」

 こういう民心に基礎を置かないところに、どこに政治というものがあり得るだろう。補償費の具体策さえ、まだ政府は示していないのだ。そしてそのやり方への反対に対して、政府は千七百名の警官隊を動員した。

 十三日付の夕刊で福島長官は語る。

「総評が手を引かない限り、地元と交渉する余地がないと言っていい。しかし今後どんな情勢でも立入り測量を取止めるということはあり得ない。このくらいの町側の抵抗では十日間ほどで基本測量を終える自信がある」

 先ほど四大別をしたひとつのやじ馬、これも相当に数が多かった。

 東京からわざわざかけつけたというのは、あまりいないようで、近在から見に来たというのが多かったようだ。もっともこの中には、坐り込みは無理な地元の老人やおかみさん、あるいは条件派もいたかもしれない。しかし大多数は近在のやじ馬で、若者や中年者が多かった。

 五日市街道は、坐り込みと警官隊と報道陣でいっぱいだから、とてもやじ馬の通過する余裕がない。そこで街道に沿った家々の庭が通路になる。家々と街道の間には大きな溝が流れている。だから庭から眺める分には、絶対に安全なのである。いくら紛争がおこっても、溝を越えてこちらまで波及することはない。その代りに垣根があったり樹が生えたりしているから、よく見えないといううらみはある。もっとよく見たいと思ったら、やはり街頭まで進出する他はない。

 昼食後の休憩を終って、警官に集合命令が下った。腰をおろしていたのや寝そべっていたのがぱっと緊張して、五日市街道に整列する。郵便局前の厚みのある坐り込み隊もさっと緊張する。警官隊の広報車(装甲車)の拡声器が、坐り込みは交通違反だから直ちに解散せよ、解散しなければ実力を行使する、という意味のことを、執拗(しつよう)にばか丁寧に、繰返し繰返し放送する。坐り込みの方の拡声器も声をはり上げる。警官隊が実力行使をするというから、一人でも多く坐り込んで呉れ。坐り込む気持がなく、ただ見物している人は、迷惑になるから直ぐに帰って呉れ、そのことを反復放送する。その放送が、だんだんやじ馬を責めるような調子を帯びてくる。皆ががっしりと坐り込んでいるのに、手をつかねてぽんやり眺めているとは何ごとか、といったような調子を帯びてくる。どうか坐り込みに参加して下さい。参加しない方は早速お引取り下さい。

「よし!」

 と庭の中から小柄な四十男が、街道に出て行った。坐り込みに参加するためである。するともう一人がそれにつづいた。

 しかし大多数はほとんど動こうとしない。聞えぬふりをして、ぼんやりと街道の方を眺めている。皆表情がにぶい。どんよりと濁っている。心は好奇心のかたまりになっている筈だが、それは面に出ていない。風態からしてやじ馬の大半は近在の農夫だと思うのだが、同業者の土地が接収されそうなのを、どう考えているのだろう。それらのやじ馬の表情に、何と言ったらいいか、想像力のはなはだしい不足あるいは欠如といったものを感じた。

 こんな笑話を読んだことがある。

「あいつ、女のスカートが長くなったんで、悲観しているのさ」

「何故?」

「何故って、あいつには全然想像力ってものが欠けているんだもの」

 他人のことを自分に置き換えて考えることの出来ないということは、不幸なことであるし、またおそろしいことだ。やじ馬の表情にはそういうものがあった。現実に自分に災厄が降りかかるまで平気だというのでは、それはもう人間でなく、魚である。というようなことをやじ馬に混って私は考えたが、しかし私だってやじ馬群に混っている以上、やはり一種のやじ馬だろう。私もその時どんよりと鈍い、想像力の欠けた表情をしていたかどうか。

 しかし想像力欠如の最大頭目は、現在の日本政府である。いや、欠如というのではなく、政府は日本国民に対して、ひとかけらの想像力を働かせようという気持さえ持っていないのだ。こういう政府を上にいただいた我々はかぎりなく不幸であるし、その不幸がこういう砂川において最もはっきり出ているのだと私は思う。思うだけで済むことではないのだけれども。

 

[やぶちゃん注:昭和三〇(一九五五)年十一月号『群像』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。冒頭、「九月十三日」の「九月」の後にはポイント落ちで「(昭和三十年)」という割注が入るが、これは底本編者によるものと断じて、除去した。本篇は所謂、在日米軍立川飛行場(立川基地)の拡張に反対してこの昭和三〇(一九五五)年から一九六〇年代末まで闘われた住民運動「砂川闘争」の初期シーケンスのルポルタージュである(「砂川」はこの当時は東京都北多摩郡砂川町(すながわまち)であったが、闘争中期の昭和三八(一九六三)年五月一日、東京都立川市に編入、東京都立川市砂川町(すながわちょう)となっている)。以下、ウィキの「砂川闘争」より引く(アラビア数字を漢数字に代え、読点を追加、記号の一部を省略した)『一九五五年三月、在日米軍は日本政府に対し、ジェット爆撃機の発着のためとして小牧・横田・立川・木更津・新潟の五飛行場の拡張を要求した。同年五月四日、調達庁』(後の旧「防衛施設庁」:かつて主に在日米軍や自衛隊が使用する施設の取得・工事・管理・周辺対策などを所管した行政機関。昭和二二(一九四七)年に占領軍の調達業務を担う公法人の「特別調達庁」として発足。二年後に国行政機関になり、昭和二七(一九五二)年に「調達庁」に改称。昭和三七(一九六二)年には「防衛施設庁」へと再編された。二〇〇七年に「防衛庁」が「防衛省」に昇格すると外局として統合されて廃止されたが、昨年の二〇一五年十月には同様の目的を持った組織として「防衛装備庁」が防衛省外局として設置されている)『東京調達局立川事務所長は砂川町長・「宮伝」こと宮崎傳左衛門に対し、立川基地拡張を通告した。この話は、たちまち、町中に広まり、拡張予定地内関係者は六日に集まり、協議して絶対反対を決定、砂川基地拡張反対同盟の結成を申し合わせ、八日に基地拡張反対総決起大会を開いた。これが町ぐるみの砂川闘争の始まりである。砂川町議会も五月十二日に基地拡張反対を決議し、全議員が闘争委員になった』。『八月二日に砂川町基地拡張反対共闘会議が発足し、九月五日には砂川町基地拡張反対労働組合支援協議会(砂川支援協)に改組、砂川勤労者組合・東京地評・三多摩労協など五十一の労働組合と社会党左派・社会党右派・労働者農民党が闘争を支援するまでになった』。『しかしながら、九月には町議会内に条件闘争派が現れ、滑走路部分の地下化や補償金支払いを要求、たたかいは亀裂を見せ始めた』。『土地収用のための測量実施と測量阻止闘争とのせめぎあいが続く中、一九五六年十月十三日には、砂川町の芋畑で地元農民らと武装警官隊が衝突、千百九十五人が負傷し十三人が検挙される「流血の砂川」と呼ばれる事態に至った。翌十月十四日、日本政府は測量中止を決定した』。『一九五七年七月八日、測量阻止のデモ隊の一部が立ち入り禁止の境界柵を壊し、基地内に数メートル立ち入ったとして、九月二十二日に学生や労働組合員二十三人が検挙され、うち、七人が日米安全保障条約に基づく刑事特別法違反の罪に問われ起訴された(砂川事件)。一審では、一九五九年三月三十日に米軍駐留は憲法違反であり、被告全員無罪との判断が示されたが(伊達判決)、同年十二月十六日、上告審で最高裁判所が統治行為論によって原判決を破棄したことから、逆転して一九六三年十二月二十五日に七人の有罪が確定した』。『二〇〇八年以降の研究により、伊達判決を早期に破棄させるため日米両国政府間で秘密協議がされていたことが明らかになっている』。『予定地の地権者のうち、二十三人が最後まで土地収用を拒否していたが、米軍は一九六八年十二月に滑走路延長を取りやめ、翌千九百六十九年十月には横田飛行場(横田基地、東京都福生市)への移転を発表した。日本政府も一九六九年四月に閣議で計画中止を決めた。そして、一九七三年一月の第十四回日米安全保障協議委員会(SCC)は三年後の立川基地全面返還を決定』、昭和五二(一九七七)年『十一月三十日、跡地は日本側に返還された』。

「五日市街道」武蔵五日市(現在のあきる野市)と東京を結ぶ道。ウィキの「五日市街道」によれば、『徳川家康の江戸入府後、五日市』『や檜原』(ひのはら:現在の多摩地域西部にある東京都檜原村)『から木材・炭などを運ぶために整備された街道。初期には「伊奈道」と呼ばれ、伊奈(五日市より少し東にある集落)の石材を扱っていた石工が江戸城修築のため江戸へ行き来するための道として発展したが、修築が終わり』、『木炭輸送が主流になるにつれ』、『伊奈と五日市の重要性が逆転』、『武蔵野台地の新田開発が進むと、多摩地域と江戸を結ぶ街道の一つとして発展した』。砂川(立川)は五日市街道の中間点から五日市寄りになるが、昭和三一(一九五六)年の『横田基地拡張に伴い』、立川市と福生(ふつさ:闘争開始当時は「福生町(まち)」。現在は福生市)に『跨る土地が米軍に接収された。接収地区内を通っていた五日市街道は分断され、西砂町宮沢付近から基地の南側を迂回し、拝島駅付近の武蔵野橋北交差点で国道』十六『号に合流する経路に変更された。立川西砂町郵便局付近に小金井橋方面から見て二股に分かれる交差点があるが、直進方向に伸びる道が旧道、左に折れる道が現道である。国道』十六『号の第五ゲート前交差点から旧来の街道に合流する』とある。

「ピケ」ピケット(picket)。現在は、ただの座り込みに用いることの方が圧倒的に多いが、もともとは、労働争議の際にスト破りを防ぐため、労働者側が事業所の入り口などに見張りを立てること、或いは、その人物や集団を指す。元はフランス語の“piquet”で、これは尖った「杭」の意であり、次いで、軍事用語の「歩哨に立つ」の意から転訛した労働運動用語である。

「大久保編集長」大久保房男(大正一〇(一九二一)年~平成二六(二〇一四)年)。ウィキの「大久保房男」によれば、『三重県北牟婁郡紀伊長島町(現紀北町)生まれ。旧制津中学校を経て慶應義塾大学国文科で折口信夫に師事する。学徒出陣で』昭和一八(一九四三)年に『出征、海軍予備学生』を経て、翌年には『海軍少尉となったが、敗戦により復員』、慶應に復学、昭和二一(一九四六)年九月に卒業した。本来は『民俗学徒を目指していたが、たまたま入社試験を受けた講談社に合格し』、同年十一月に『同社に入社』、まさにこの記事が書かれたその年である昭和三〇(一九五五)年から昭和四一(一九六六)年まで、この『群像』の『編集長を務め、「文学の鬼」と言われて、石原慎太郎や有吉佐和子の作品を一切掲載せず』、『活気ある誌面を作った』とある。梅崎春生より六つ年下。

「少年クラブ」少年向け月刊総合雑誌の名。大正三(一九一四)年十一月に大日本雄弁会(後の講談社)が「少年倶樂部」という名で創刊した。敗戦後の昭和二一(一九四六)年に「少年クラブ」と改名して昭和三七(一九六二)年十二月まで六百十一冊刊行された。大正末から昭和初期には吉川英治・大仏次郎・佐藤紅緑らの作家を起用、大衆児童文学というジャンルを完成した雑誌でもある。

「福島長官」調達庁(既に詳しく注した後の旧「防衛施設庁」)長官福島慎太郎(明治四〇(一九〇七)年~昭和六二(一九八七)年)。ウィキの「福島慎太郎によれば、(アラビア数字を漢数字に代え、改行及び記号の一部を省略した)『東京都出身。東京帝国大学法学部卒。一九三〇年に外務省入りし、一九四七年から総理大臣秘書官、一九四八年の芦田内閣では内閣官房次長(現在の内閣官房副長官)に就任。一九四九年九月に毎日オリオンズ(現在の千葉ロッテマリーンズ)の球団社長となり、一九五一年からはパシフィック・リーグ会長も兼ねて日本プロフェッショナル野球協約制定の中心役となった 。一九五三年七月から一九五五年十二月まで調達庁長官、国際連合総会政府代表、一九五六年にジャパンタイムズ社長、一九六六年に共同通信社社長を歴任し、一九八一年にパ・リーグ会長代行として球界復帰』している(下線やぶちゃん)。]

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