諸國百物語卷之二 十二 遠江の國堀越と云ふ人婦に執心せし事
十二 遠江の國堀越(ほりこし)と云ふ人婦(よめ)に執心せし事
遠江の國に、堀越の何がしと云ふ人、有りけるが、年十六にて男子(なんし)を一人もうけゝるが、ほどなく此子、十六才になりければ、妻をよびむかへける。そのとき、堀越は卅歳にてありしと也。このよめ、みめかたちうるはしく、よろづ、さいかくなる女なれども、堀越は、あふても、物をも、しかじかいはず、さしうつむきてゐけるほどに、みな人、ふしんして、
「此よめ、御きに入り申さぬにや」
と、とへば、
「いや、ふうふのあいださへよくは、別のこと、あらじ」
と云ふて、三年があいだ、なにとやらん、ふらふらと心地あしくみへて、しだいにわづらひおもくなりければ、婦(よめ)も、
「御見まいに、まいらん」
との給へば、
「見ぐるしき病人の床(ゆか)へ、かならず、むよう也」
とて、あたりへ、よせつけず。今はのときにをよびて、よめ、堀越のまくらもとにより、手あしをさすりて、かんびやうせられけるほどに、しうとめもつぎの間にいで、すこし、くつろぎ給ふが、しばらく有りて、おくに、何やらん、屛風、しやうじに、はらはらと物のあたるをと、しければ、みな人、ふしぎにおもひ、ゆきてみれば、堀越、蛇(じや)になりて、よめを三まとい、まとゐけるが、あしもとより、水、ざゝ、と、いで、その屋敷、ふちとなり、よめともに、しづみぬ。ちかきころまで、天氣よきときは、堀越が池のなかに家のはしらなど、みへけると也。今は蛇身(じやしん)もすまざるにや、ふちもあさく、ちいさくなりけると也。
[やぶちゃん注:エンディングの話者の現在時制の映像が、何やらん、時経た、物の怪の夢の跡の荒んだる寂寥を感じさせるのが、これ、上手い。挿絵の右キャプションは「婦にしう心をせし事」。
「堀越」人名であるが、古くは有力豪族の姓は同時に地名でもあった。一九八九年岩波文庫刊の高田衛編・校注「江戸怪談集 下」の脚注には『現在の静岡県袋井市堀越町あたり。かつて今川了俊の所領で、今川屋敷が有名』とある。現在は「袋井市堀越」で「町」はつかない。今川了俊(りょうしゅん)は鎌倉後期から南北朝及び室町初期の武将で守護大名の今川貞世(嘉暦元(一三二六)年~応永二七(一四二〇)年)の法名。歌人としても知られた。調べてみると、本祖今川氏の居館は静岡県藤枝市花倉字寺屋敷であるが、この「堀越」(高田氏が注で「今川屋敷」と称するもの)は静岡県袋井市堀越字城山にある、この今川了俊を祖とする遠江今川氏の居館居城である、今川仲秋の屋敷堀越館跡・堀越城跡(有意な遺構は残っていない)のことである。PEI氏のサイト「城郭放浪記」の「遠江・堀越城」を見ると、天文一二(一五三二)年に『今川義元が西楽寺』(袋井市春岡)『に与えた安堵状に地頭堀越貞基の名が残り、この堀越氏は遠江今川氏の末裔である』とされ、同地に現存する『海蔵寺に「堀越藤左ヱ門」という墓があるが堀越氏の一族であろうか』と記されており、本話柄の堀越氏のモデルの一族である可能性が高い感じが強い。但し、この海蔵寺にはまさに始祖今川了俊の墓が現存する(一紋龍史進氏のサイト「城逢人きほうじん」の「袋井市の城館」冒頭の「堀越館」を参照されたい)。
「みめかたちうるはしく、よろづ、さいかくなる女」「見目形麗しく、萬、才覺なる女」。容姿端麗にして、万事、何事にも気の利く才媛。
「しかじかいはず」この「しかじか」は呼応の副詞として使い、「ろくに挨拶もちょとした言葉も掛けず」の意である。
「よくは」「良くば」。良いのなら。ここが順接の仮定条件であるところが、心理学的には面白いと私は思う。
「むよう」「無用」。
「今はのときにをよびて」「今はの時に及びて」。歴史的仮名遣は誤り。今際(いまわ)の際(きわ)という期(ご)に至ったによって。
「かんびやう」「看病」。
「せられける」この助動詞「られ」は可能(やっと看病することが出来る・許される)或いは自発(末期となればこそ自然、看病しないではいられない)の意である。
「しうとめ」「姑」。義父堀越の妻。
「はらはらと物のあたるをと」このSEは、水の当たる擬音ではなく、大蛇の逆立った鱗が屏風や障子に当たる「ぱらぱら」というそれととってこそ、ホラー効果抜群と言いつべし!
「三まとい、まとゐける」二箇所とも「まとひ」が歴史的仮名遣としては正しい(後者はまとひ居(ゐ)ける」の誤記かも知れぬ)。挿絵に見るように、息子の嫁を中にして蜷局(とぐろ)を三重に巻き込んで、巻き纏い締めているのである。]