ランプの下の感想 梅崎春生
私は自分を限定したくない。まして小説以外の、この種の文章をつづることによって、自分を袋小路に追いこみたくない。言いたいことは小説にすればいいので、こんななまな文字をならべることは私の創作力が衰弱している証拠だ。そう私は思う。思うけれども私はこれを書く。しかしこれを書くことによって、自分の内部にあるものが更に明確になるとは私は思わない。むしろ逆になる予感さえある。それはそれでいいのだろう。明確なものは混沌のなかにこそ探りあてられるものなので、むしろ母胎としての混沌が、私の内部でますます巨大であることを私はいのりたいほどだ。性急にことを定めるのもいいことだろうけれども、すべて手探りの過程がすくなくとも私には必要なことなので、私はせっかちに自己をひとつの座にきめてしまいたくないのだ。あらゆる意味において、ことに制作の場においては。
今朝は大西巨人氏より来信。私がある雑誌にかいた「蜩(ひぐらし)」という小説について。「この作品は小生はとりません。あれはあなた方の前途に横たわる大きい陥穽(かんせい)(私小説的な伝統のこと)へあなたが足をつっこまれた感です。そしてこういう形式に個我の苦悩と真実とがもっともよくにじんでいるように考えるのは日本小説界の迷妄です」このような意見である。この後半については私も異存はない。しかし大西さん、私はあれを書いたことによって、大きな陥穽に足をつっこんだとは思わないのだ。私が私小説をもし否定するとすれば、生活日常性の中に自己を埋没させることで作品をなそうとするわが国のしきたりを、そしてそのしきたりが日本文芸の主流となっていたことを否定するのであって、自己を発掘しようという意図のもとに、私はどんな型の表現をもとりたいと思うのだ。個我の苦悩と真実があの作品ににじんでいないのは、私の才能がとぼしいからであって、単に小説の型のせいでないと私は考えたいのだ。作品の発想やスタイルでその作品の内在を規定してしまうこと、これはいささか性急なやり方だと私は思う。「近代的ロマンのついに現われえない嘆きと絶望とから」私も立ちあがって新しい個我の発掘に努力しようとするけれども、新しいスタイルの発掘に努力しようとは思わない。どうでもいいことなんだ、それは。
何故人々は型の点から他を区別し、自分のまわりに壁をつくってしまうのだろう。伝統からの脱出というけれども、伝統というほどの強力なものは日本にはありはしないのだ。あるのは自己を韜晦(とうかい)したがるという一種の趣味にすぎないもので、それが明治以来の自然主義リアリズムや私小説のしきたりになっている。二千六百年以来か明治維新以後かしらないが、あれほど堅固に見えた天皇中心主義だって、一朝にしてあやうくなってきたところを見ても、此の日本列島の風土には伝統と名づけるほどの力強い積極的なものは発生し得ないのではないか。私小説がいままではびこったのは、それを圧倒する新しい個性が此の国に誕生しなかったからで、此の形式に個我の苦悩と真実がもっともよくにじんでいると人々が考えたからではないのだ。電燈が発明されればランプは古道具屋に払い下げられるだろうし、自動車が制作されれば人力車夫は失業するにきまっているのだ。現今では、ほろびた筈のランプや車夫がそろそろ復活してきて、げんに私もこの文章をランプの下で書いているような始末だが、これは戦に敗北したための一時的な現象で、現在まだ私小説が横行しているとすれば、おおむね此の現象に類するのだ。なんでもありはしない、新しいものが出たら一挙に影をひそめてしまう。
もともと日本の私小説というものは、魚が水を必要とするように、日常の生活の面を必要とするもので、その間における身の処し方や、小市根的な嘆きや、あるいは家族制度などの封建性にたいして幽(かす)かな反抗の気配をみせる程度のことで作品をつくっているものだ。ところが現代は一種の乱世で.そんなのんきな低徊(ていかい)はゆるされなくなったから、終戦後発表された老大中堅の私小説作品のうち、その優秀なものはかならずある「危機」がテーマになっている。その危機も、生活面の危機だけにとどまらず精神的なものの危機を描こうとしている点、ある脱皮を感じさせるものの、日常的なもののなかに身を埋没してそこに市民的な自己を処してゆこうという精神の限界につきあたって、むなしくはばたきしているのみである。私小説作家というものは、その生態上非常に頑固なもので、決して壁をやぶって出てゆこうとはしないのだ。私小説が否定さるべきなのは、此の限界性であって、べつに彼等が好んで日常生活を描くからではない。
では、この種の小説が何故いまなお生産され鑑賞されているかというと、一言にして尽せば、それらを一掃するに足る強烈な個性をもった作品が現われないからだ。それへの意図はあるとしても、意図だけで作品は生れて来ないのだ。意図とは何だろう。日本の文学が今のままではあまりにも貧しすぎるから、どうにかしなければならないということは、皆ひしひしと感じているに相違ないことなので、だからさまざまな論説がにぎやかにあらわれ、すでに自壊作用に入っている私小説にむかって、勢よく鞭をふりあげた。それはそれでいいだろう。威勢がいいということは、それだけでも良いことなんだから。で、それにかわってどんな小説が制作されねばならないか。言うまでもなく西欧的骨格をもった本格的小説。近代的ロマン。虚構の真実。バルザック的手法。意識の流れ。実存。虚無よりの創造。可能性の文学。などなど。そして作品がそれにのっとって作られ、雑誌に掲載される。これらの作品を擁護したい気持においては、私も人後におちるものではないが、それでも時とすると私にはある疑問が胸につきあげて来る。はたしてこれらの作品が、旧(ふる)い作品たちを圧倒するに足るだけの強烈な「個我の苦悩と真実」を、あるいはそれへの可能性を孕(はら)んでいるかどうか。自らの限界ではばたいている私小説よりも、もっとなまぬるい、スタイルのみあたらしげな「贋(にせ)の個我」が、日本文学という不毛の荒地に時を得顔にはびこっているのではないか。丁度ウェルズ(?)がかいた火星人襲来の空想小説の中で、シリンダーに乗って火星人とともに飛来した火星の植物が、ものの三日も経たぬ間に地球全土をおおってしまったように。
しかしこれは私の疑懼(ぎく)にすぎないだろう。こんな瞬間的な疑懼をもととして、なまの文字を連ねて行くことは、やがて自分を袋小路に追いこむことになるにちがいない。だからこれはやめる。しかしたとえば、例にとって悪いかも知れないけれども、「可能性の文学」にしても、はじめてこれの論を一読したとき、なんという美事な(?)論議であろうと背を鞭うたれる心地であったが、最近織田作之助氏の「土曜夫人」「夜の構図」などを一読するにおよび、あの論をなした仁にしては何という貧しい制作であるかと嘆かざるを得なかった。ここにあらわれているのは、あきらかに作家としての才能の貧困である。才能の貧困ということは、織田氏のみにとどまらず、日本文学のそれこそ本当の伝統であって、過去の日本文学が一個の人間の典型をすらほとんど創造し得なかったことを考えてみても判る。現代の流行作家の人々についても――どんな人々が流行作家なのか知らないけれども漠然たる印象からして――やはりそんなものだろう。デフォルマション、などと称す。デフォルマションとは、正しい形があってこそ言える言葉で、此の国に正しい形など今まで一体どこにあり得たのか。正統的なリアリズムの伝統があったからこそ、シュールレアリズムが発生したように、ものにはやはり一応の順序があるようだ。その因果関係を無視して、いきなり高等な講談や落語みたいな小説をつくって、その身振りでごまかそうとするのは、ひとえに才能の貧困を蔽(おお)おうとするせいに他ならない。寄席などに行っても、身振りの大きいのは大抵前座である。真打になるとあまり身体をうごかさない。もっとも彼等は名人芸といわれて脂(やに)下っているのかも知れないけれども。
そう言えば、そんな脂下りは我が国の文壇の大家にはたしかにある。時たま、という以上に数多くある。でもこれらの人々はすでに亡びゆく人々だし、また私とは何の関連もないから、文字を連ねる興味もおこらない。お気の毒なひとたちである。ひとえに風の前の塵に同じい。しかしその塵をふきはらうどんな新しい風があるかと言えば、かなしいことにはまだそんなものは何も吹いてやしないのだ。風を起そうとするさまざまの企図があるとはいえ、真空の中でかけ廻って風を起そうとしているようなもので、物理的に言ってもそれは不可能なのだ。だから「意識の流れ」をそっくり持って来た小説が出来たり、この日本に居住していないような人物がたくさん出てくる不思議な小説が現われたりする。しかし私は単にこれらの小説を、その型において非難しようとは思わない。非難しようなどとはだいそれたことだと承知している。そんなことは問題ではないのだ。私が注意したいのは、これらの作品が型という点をはなれても、旧来の小説を圧倒できるほどの強い個我を持ち得ているかという点だ。とにかく私がかんがえるのは、明治以来数十年の努力にも拘らず、我々は人間そのものを描く技術すら未だ獲得していないということだ。
だから私が思うのは、先ずなによりもそのような才能を自己の中に培(つちか)うべきであって、その他のことには興味がない。伝統からの脱出というのもその一点で意味があるが、それが西欧的手法の導入などということになると、ふとひっかかるものを感じてしまう。それはどうでもいいことじゃないか。それは各自がひそやかに摂取すればいいことで、それをタイトルにして性急に他と区別することは、やがて自分の制作をしばることになるのじゃないかしら。ちょいと踏絵に似ている。(ランプの下で書いていると、頭がつかれてきて、連想が歪んで飛躍するけれども。)私は保守主義者でもなければ、伝統主義者でもない。なんでもない。伊藤整氏の言によれば、私ごときは新伝統派と称すべきものだというのだが、それもおかしい。どこかに誤解がある。それはどうでもいいけれども、私が思うのは、あの先刻の火星人の小説で、地球全土を蔽った火星植物が、ものの一週間も経たぬ間に、すべて枯れ亡び去った荒涼たる情景だ。と言っても、私は日本の伝統という風土を信じているわけではない。いわば個我という風土に根ざした苦悩と真実を信じているだけだ。他を量るにしても、私はその物指を持ち合わせないのである。だから私の前途には、「大いなる陥穽」などありはしない。実作というものは自分を限定することからは決して生れないもので、自分を自由にたもつことからしか生産出来ないものだ。これは本当に制作をつづけてみれば直ぐ判ることで、はたから見ているぶんには絶対に判りっこない。衰弱からの脱出のみを私は希求する。大西巨人氏はまことに俊敏な青年だけれども残念なことには(残念でないかもしれないが)批評家なので私をあんな風に叱りつける。でも私は徹底的に誤解されているとは思わない。私の才能の貧困を、大西氏はあのような言い廻しで非難したのだろうと解釈する。そう思うと私の胸にそれははじめてこたえて来る。
ここまで読み返してみると、此の一文はまことに混乱していて、何を言おうとしているのか自分でもはかりがたい。袋小路に入るまいと自ら韜晦(とうかい)している気配が濃厚にある。もすこしはっきりものを言わなくてはなるまい。ランプの光がちらちらして、うまく考えがまとまらないせいもあるのだ。思えばランプの光の下で、原始的料理であるところの水団(すいとん)を食し、こうして原稿をかいているのは、すでに前世紀の生活である。西欧においては、前世紀の十九世紀という時代は、人間を凝視し自己を凝視し、それを表現する点においては正統的なリアリズムという大道を確立した世紀であった。私たちの伝統は、人間を凝視した世紀すらも持たないのである。数百の艨艟(もうどう)や数千の戦車やそして数万の竹槍をほこった日本の贋(にせ)の世紀は没落した。ここに新しい世紀は樹てられなければならぬ。この世紀をかざるべき文の華とはなんだろう。あの火星植物のように風土にほろびる仇花であるか。あるいは季節外れの狂い咲きか。私たちはも一度人間にもどらなくてはなるまい。と、やはり私は考えるのだ。凝視に耐えるだけの強い瞳孔を、なにはともあれ取戻す必要がある。で、そんな具合にして私は私の出発を持とうと思う。そして私は型になどこだわりたくない。その作品の中に自分が立っていればいいじゃないか。自分の生活を書いたって、荒唐無稽(こうとうむけい)な物語をかいたって、その中に自分の答えがないような小説は、いくら面白くても意味がないのだ。(終戦以来百篇書いたとしても意味がないではないか。)こんなのは私は書かないし、また書けもしない。
以上、こんななまな文字をならべることは私のもっとも苦手とするところで、それなら書かなければよかったのだが、いろんなことで書いてしまった。目をつむって出す。実は終戦以来この手の綴方を二三書き、今でも自らを嫌悪する思いに耐えがたい。この綴方もあるいはそんなことになるだろう。こんななまな文章を綴ること、これが私にとって最後であることを、私は切に切に願う。今朝は大西巨人氏の葉書をよみ、それへの返答としてこの文章をつい綴る気になったのだが、返答になっているかどうか。此の葉書は、福岡を十月十二日に発信し、今日(十一月四日)私の手もとにとどいた。二十四日かかった計算になる。江戸時代の飛脚だっても少しは早いだろう。これが二十世紀のできごととはとても思えない。このような時代に、新しいものとは一体何であるか?
[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年十一月号『新小説』初出。底本は沖積舎「梅崎春生全集 第七巻」に拠った。
「大西巨人」福岡市出身の左派作家大西巨人(きょじん 大正五(一九一六)年~平成二六(二〇一四)年)。梅崎春生より一つ年下である。梅崎春生の「戦争が始まった日」も参照されたい。
『私がある雑誌にかいた「蜩(ひぐらし)」という小説』この発表の二ヶ月前の昭和二十二年九月号『風雪』に発表した短篇。ぐだぐだ梗概を述べるより、本日、これより電子化するに若くはない。【15:00】こちらで電子化公開した。
「陥穽(かんせい)」元は動物などを落ち込ませて捕獲する落とし穴。そこから、人を陥(おとしい)れる策略・罠の意で専ら使われる。
『「近代的ロマンのついに現われえない嘆きと絶望とから」』鍵括弧附きであるから、文脈上からは大西の来信にある文句なのであろう。
「二千六百年以来」戦中に国体思想の称揚を目的として、盛んに用いられたクソのような神武天皇即位紀元である。昭和一五(一九四〇)年が神武天皇の即位から二千六百年目に当たるとされ、同年十一月十日に宮城前広場に於いて内閣主催の「紀元二千六百年式典」が盛大に催された。無論、この馬鹿げた本邦の紀年法を梅崎春生は皮肉っているのである。
「時を得顔」「ときをえがお」。時を得たりといった如何にもな得意顔(したり顔)。
「ウェルズ(?)がかいた火星人襲来の空想小説の中で、シリンダーに乗って火星人とともに飛来した火星の植物が、ものの三日も経たぬ間に地球全土をおおってしまったように」
「シリンダーに乗っ」た「火星人」の襲来部分は確かにイギリスの作家H・G・ウェルズ(Herbert George Wells 一八六六年~一九四六年)の「宇宙戦争」(The War
of the Worlds 一八九八年)であるが、地球外から地球外の「植物」が襲来し、それが「ものの三日も経たぬ間に地球全土をおおってしま」うが、それが又、「ものの一週間も経たぬ間に、すべて枯れ亡び去っ」てしまうというのは、不審。「宇宙戦争」の三本脚の戦闘機械(Tripod:トライポッド)から、それを操る醜悪な火星人を春生は植物型宇宙人と勘違いしたものか? 春生は「一週間も経たぬ間に」死滅するしているが、地球の在来の微生物に対する免疫を全く持たなかった火星人が全滅してしまうのは襲来から凡そ二週間後である。無論、イギリスのSF作家ジョン・ウィンダム(John Wyndham 一九〇三年~一九六九年)の「トリフィド時代」(The Day of the Triffids)や、アメリカのSF・推理小説家ジャック・フィニイ(Jack Finney 一九一一年~一九九五年)の「盗まれた街」(The Body Snatchers)を直ちに想起はするけれども、前者は一九五一年、後者は一九五五年の作品で本篇よりも後の発表である。他にも幾つかは浮かぶが、調べる限り、孰れも本篇より後の作品である。
「疑懼(ぎく)」疑って懼(おそ)れたり、不安に思うこと。
「織田作之助」(大正二(一九一三)年~昭和二二(一九四七)年)。梅崎春生より二歳年上。当初は劇作家志望であったが、小説に転向、昭和一三(一九三八)年に処女作「雨」を発表、昭和一四(一九三九)年九月に発表した「俗臭」が翌年に室生犀星の推薦を受けて芥川龍之介賞候補となり、同年(昭和十五年)発表の「夫婦善哉」が話題を呼び、これより本格的な作家生活に入った(以上はウィキの「織田作之助」に拠る)。彼は本篇発表の十ヶ月前の一月十日に結核のために既に故人となっている。
「土曜夫人」小説。昭和二一(一九四六)八月より『読売新聞』に連載。九十六回まで連載されたところで織田作の死によって未完に終わった。青空文庫の同作をリンクさせておく。
「夜の構図」小説。発表は昭和二十一年五月から十二月に『婦人画報』に連載。舞台は作者自身が作品の後の方で『昭和十七年八月の出來事』と断わっている。青空文庫の同作をリンクさせておく。
「デフォルマション」(フランス語:déformation 名詞)「デフォルメ」(déformer)は同じくフランス語の動詞)。芸術(主に絵画や彫刻など)に於いて対象を変形・歪曲して表現する(こと)。
「脂(やに)下っている」元は雁首を上に向けて反(そ)り気味にキセルを銜える気障な尊大な所作から、「得意になってにやにやする・気取る」の意となった。
「伊藤整」伊藤整(明治三八(一九〇五)年~昭和四四(一九六九)年)は梅崎春生より十歳年上であるが、親しかった。
「水団(すいとん)」「トン」は唐音。小麦粉の生地を手で千切ったり丸たり、或いは匙で掬うなどの方法で小さい塊に加工して汁で煮たもの。
「艨艟(もうどう)」軍艦の意。堅固で細長く、敵船中に突入して攻撃するタイプのそれを指す。「もうしょう」とも読む。]