諸國百物語卷之一 十三 越前の國永平寺の新發意が事
十三 越前の國永平寺の新發意(しんぼち)が事
ゑちぜんの國永平寺と云ふ禪寺にとし□□なる美僧のありけるが、あるとき、みやこへのぼり、京中のめいしよきうせき、のこらず見物して本國に歸るとて、かい河のうらにとまりぬ。あひ宿(やど)に女たび人ありけるが、此新發意のうつくしきをみて、夜ふけて新發意のねやにしのび行き、いろいろとたわぶれければ、新發意も心ならずはおもひながら、さすがに岩木(いわき)ならねば、その夜は一所(いつしよ)に、いねにけり。夜あけてみれば、年のころ、六十あまりなる女神子(をんなみこ)にて、かしらに雪をいたゞき、さながら、うるさきすがたなり。新發意もけうをさましてゐけるに、かの女、
「いづくまでも、ともなひ申さん」
とて、あとをしたいて、とまりとまりにて、一所に、ふしける。新發意、おもひけるは、かやうに女をともなひて寺へかへりなば、師匠の御坊(ごぼう)のとがめも、いかゞあらんと、めいわくして、
「けふはくたびれたれば、逗留せん」
とて、かの女をいつわりて、その夜の夜半にしのびいで、しらきちよと云ふ所まで行きのびぬ。夜あけて、女、大きにおどろき、神子(みこ)のことなれば、じゆずをひき、うらなひて、道すぢをかんがへ、あとをおふて行くほどに、しらきちよにつきて、かなたこなたと尋ねければ、新發意は大きなるくち木の洞にかゞみゐけるを見つけ、
「さてもさても、つれなき人や。いのちのうちは、いづくまでも、めしつれられよ」
と云ふ。新發意も、ちからおよばず、
「さあらば同道申さん」
とて、ともない出でゝ行くほどに、舟わたしにて舟にのり、沖なかにこぎ出だして舟のうちより水底につきをとし、永平寺にかへりて、あまりにくたびれたりとて、客殿にひるねしてゐける。師匠、客殿に出でて見給へば、新發意のひるねをしてゐける所へ、そのたけ、十丈ばかりなる大じや、新發意を、のまんとするところを、枕もとに家につたわりたる吉光のわきざし有りしが、をのれとぬけ出で、かの大じやを切りはらふ。師匠、さらぬていにて新發意をおこし、そのころ、なにがしのはてられて、金つくりの脇指を寺へあげられしが、これをとりいだし、しんぼちをたぶらかし、くだんの吉光とかへて、とられける。このわきざしをかへけるゆへに、そのゝち、くだんの大じや、又、來たりて、新發意をやすやすと引きさき、くひころしけると也。此新發意、師匠ゆへに、いのちをうしなひけるとて、みな人、師匠をあざけりける。
[やぶちゃん注:本話も「曾呂利物語」巻二の「八 越前の國白鬼女(はくきぢよ)のゆらいの事」と同話であるが、主人公の美僧が「永平寺」(現在の福井県吉田郡永平寺町にある曹洞宗吉祥山永平寺)の僧であるのが、「曾呂里物語」では「平泉寺」(現在の福井県勝山市平泉町にある白山神社。神仏分離令によって寺は廃された元の寺は天台宗霊応山平泉寺と称した)の僧であること、最初の泊りの「かい河のうら」(不詳)が「かいづのうら」(現在の琵琶湖北西岸の滋賀県高島市マキノ町海津附近)であること、また、女が美僧に追いつく場所を「しらきちよ」(福井県を流れる日野川の中下流の白鬼女川(しらきじょがわ))とするのに対し、「ひやきち」(不詳)という場所となっている細部に違いがある。また結末も、師匠が彼を懐柔して名刀を合法的に取り換えたことになっている点で大きな違いであり、末尾の痛烈な師僧に対する衆人批難は「曾呂里物語」にはない。以上は『東京学芸大学紀要』湯浅佳子氏の論文「『曾呂里物語』の類話」をかなり参照させて戴いたものであるが(地名同定注を省略することも目的の一つであった)、さらにそこには堤邦彦氏は「近世説話と禅僧」(一九九九年和泉書院刊)。で『『曾呂里物語』等の話が『越前国名蹟考』等にみられる龍泉寺ゆかりの鬼女得脱譚、白鬼女伝承に基づくと指摘する』ともある。全体の構造と印象は確実に道成寺伝説をベースとするように私には思われる。挿絵の右キャプションは「永平寺新ほちの事」。
「新發意」原義は「新たに悟りを求める心を起こすこと・初発心」であるが、多くは「僧になったばかりの者。仏道に志して日数の少ない者」の意で用いる。ここも、それ。
「とし□□なる美僧」底本には判読不能字の右に『ごろカ』と推定注する。「年頃なる美僧」。それでよかろう。
「心ならずはおもひながら」不犯の戒のあればこそ不本意ながらも、しかし。
「女神子(をんなみこ)」渡り巫女(みこ)である。ウィキの「巫女」より引く。『祭りや祭礼や市などの立つ場所を求め、旅をしながら禊や祓いをおこなったとされる遊女の側面を持つ巫女である。その源流は、平安時代にあった傀儡師』(くぐつし)『といわれる芸能集団で、猿楽の源流一つとされる』。『旅回りや定住せず流浪して、町々で芸を披露しながら金子(きんす)を得ていた』(但し、必ずしも総てが流浪していたわけではなく、『後に寺社の「お抱え」となる集団もあ』った)。『男性は剣舞をし、女性は傀儡回しという唄に併せて動かす人形劇を行っていた。この傀儡を行う女を傀儡女』(くぐつめ)『とよび、時には客と閨をともにしたといわれる。また、梓弓という鳴弦を行える祭神具によって呪術や祓いを行った梓巫女(あずさみこ)もいた』。
「さながら」副詞(副詞「さ」+接続助詞「ながら」)全く以って。
「うるさき」面倒で五月蠅く厭な。
「けうをさまして」「興を冷まして」。
「じゆずをひき」「數珠を引き」。
「くち木の洞」「朽木の洞(ほら)」。
「かゞみゐける」「屈み居ける」。
を見つけ、
「ちからおよばず」「力及ばず」。手段が尽き。最早、仕方がない。
「さあらば同道申さん」
「十丈」約三十メートル三十センチ。途轍もない長さの大蛇である。
「家につたわりたる吉光のわきざし」この「家」は新発意の生家(彼は武士の出であったのであろう)。「吉光のわきざし」「吉光の脇差」鎌倉中期の刀鍛冶の名工として知られる粟田口吉光(あわたぐちよしみつ 生没年未詳/十三世紀頃)の作った脇差(馬上合戦用の太刀又は徒戦(かちいくさ)用の打刀(うちがたな:刀身中央が最も反った「京反り」で、腰に直接帯びた際に抜きやすい反り方をしている)に対応する小型の刀で、長さ約三十~六十センチメートルのものを言う。通常、腰の脇に差したことからこの名がある。但し、鎌倉以前の太刀は腰に差すものではなく、刃を下に向け,鞘に附いている帯取りの緒で腰に吊るした)。ウィキの「粟田口吉光」より引く。『正宗と並ぶ名工で、特に短刀作りの名手として知られる』。『京都の粟田口には古くから刀の名工がいた。吉光は、通称を藤四郎といい、鎌倉の岡崎正宗とならぶ名工とされている。古来より銘が流暢であり、また、ほとんどの作には「吉光」二字銘を切られる。しかし、年期銘のある作がなく、親、兄弟の作から鎌倉中期の刀工と見られている。豊臣秀吉により、正宗・郷義弘と共に「天下の三名工」と称された』。『古来珍重されてきたため、
織田信長、豊臣秀吉と言った権力者の元に蒐集され、本能寺の変、大坂夏の陣で焼身になったものが多い。徳川家康は大坂夏の陣に際し、焼け身、紛失した吉光や正宗を始めとする業物の刀を探させた。これらの焼身は初代越前康継の手によって焼き直され、その姿を今に残すものも多い。吉光の焼き直しの代表格としては、太刀を磨り上げた名物一期一振藤四郎(いちごひとふりとうしろう、刀)、小薙刀を磨り上げた名物鯰尾藤四郎(なまずおとうしろう、脇差)がある。また、大坂夏の陣に際し、堀中から無傷で回収した薙刀直しの名物骨喰藤四郎(ほねばみとうしろう、脇差)も、江戸城明暦の大火で焼け、後代の康継によって焼き直された』とある。
「をのれとぬけ出で」「己(おのれ)と拔け出(い)で」(「をのれ」の歴史的仮名遣は誤り)。自然と鞘から抜け出して。誰が抜いたのでもなく、刀自身が単独で超自然的に自律的抜けて大蛇に斬りかかったのである。
「さらぬていていにて」「然あらぬ體(てい)にて」「さらぬ」は「さあらぬ」の約。素知らぬ様子で。
「脇指」「わきざし」「脇差」に同じい。
「あげられし」奉納なさった。
「これをとりいだし、しんぼちをたぶらかし、くだんの吉光とかへて、とられける」これは文脈上、明らかに、新発意を騙して寝ぼけ眼(まなこ)の内に「件(くだん)の吉光と」こっそり取り変えてしまい、秘かに自分の物としてしまった、と採れる。新発意を懐柔慫慂してしぶしぶ同意させて合法的に交換したとは絶対に読めぬ。私が原話と異なるとする所以である。かくなればこそ、カタストロフの凄惨も衆人の批難も、その惨たらしいリアリズムと正当性が強く押し出され、支持されるようになっているのである。非常に上手い改変と言えると私は思う。しかし仏教の因果応報によるなら、この新発意の女犯も、大蛇に食われるのも、前世の業(ごう)ということになり、また、この強欲無道の師匠も曹洞宗の高僧としての悟達など思いの外、死後にはちゃんと地獄の責苦が待っていること、必定である。
「師匠をあざけりける」ここは目的語を師匠としているから、その嘲笑には激しい軽蔑と鬱憤が混じっていると読まねばならぬ。]
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