蜩 梅崎春生
[やぶちゃん注:昭和二二(一九四七)年九月号『風雪』初出。翌年の八月刊の単行本「飢えの季節」(講談社)に収録された。底本は昭和五九(一九八四)年沖積舎刊「梅崎春生全集 第二巻」に拠った。
本篇は梅崎春生自身の当時の状況と非常によく一致している。そういう点では外貌は私小説的であるとは言える(昭和二二(一九四七)年十一月号『新小説』を初出とする春生の「ランプの下の感想」の第二段落及び全文を参照されたい)。しかし言っておくと私は本篇が好きである。特にコーダの直前、主人公が、彼の命令で金の無心に出向いた腹の大きな少女のような妻の姿を想像するシークエンスが、モノクロームの映像を伴って実に切なく哀しく美しい。私は大西巨人に反して(前のリンク先を見よ)、私はこの作品を「とる」ものである。
この昭和二十二年の一月に春生は実践女子専門学校国文科卒で雑誌『令嬢界』『若草』の編集者であった山崎恵津と結婚して豊島区要町に住んでいた。三月に「崖」、六月に「紐」、この九月には本篇や評判となった「日の果て」を発表している。短編集「日の果て」は翌昭和二十三年二月に思索社から、翌三月に作品集『桜島』が大地書房から刊行されているが、春生は「『桜島』 ――「気宇壮大」なあとがき――」で、自身、後者の方を『私の処女出版』と称している。これは前者が出版社からの誘いによるものであったのに対し、後者がまさに本篇に語られているような、作者自身が自律的に出版を意図してのものであったからであろう。さすれば、本篇内の叙述内容から見ても、ここに出る「Q書房」のモデルは後者の大地書房の可能性が極めて高いかと思われる。
本篇の主人公の妻径子(みちこ)は妊娠しているが、恵津も当時、妊娠しており、本篇発表の翌十月に長女史子(ふみこ)を出産している(同月、世田谷区松原町に転居)。
本篇で胆石を患った主人公の実母とその面倒を見る実弟が語られるが、春生の実母梅崎貞子はこの作品公開当時は満五十六で福岡の春生の実家におり、七年後の昭和二九(一九五四)年、子宮癌のために亡くなる。春生は次男で、この当時は下に四男栄幸、五男信幸、六男健がいた。
なお、回想として「大学生の頃駒込の愛静館という下宿にいて私はある夜椅子を振上げて下宿の女主人を殴り、そして暫く留置場に入れられたことがあった」とあるが、これも事実に基づく事件で、底本別巻の年譜によれば、梅崎春生は東京帝国大学文学部国文科に入学した翌昭和一二(一九三七)年(春生二十二歳)に、『幻聴による被害妄想から下宿の老婆をなぐり一週間留置された』とある。
以下、幾つかの注を先に附しておく。
「大きな燈取虫」とあるが、「飛び立ち、壁に堅い音を立ててぶっつかった。そして柳行李の上に落ちると何でもなかったようにカリカリ足音を立てて這い歩いた」と描写されることから、これは蛾の類いではなく、鞘翅(コウチュウ)目多食(カブトムシ)亜目コガネムシ下目コガネムシ上科コガネムシ科ハナムグリ亜科カナブン族カナブン亜族カナブン属 Rhomborrhina 亜属カナブン Rhomborrhina japonicaか、コガネムシ科スジコガネ亜科スジコガネ族スジコガネ亜族コガネムシ属コガネムシ Mimela splendens などの類いと考えられる。
「阿諛(あゆ)」顔色を見て相手の気に入るように振る舞うこと。お追従(ついしょう)。
「陋劣(ろうれつ」賤しくて軽蔑すべき存在であること。卑劣。
「淡黝(うすぐろ)い」読みはママであるが、「黝」は本来、「あおぐろい」と訓じ、「青(蒼)味を帯びた黒」であるから、敢えて読むなら「うすあおぐろい」である。但し、薄い黒は青(蒼)味を帯びて見えるから不自然な訓とは言えない。
「淋漓(りんり)」滴り落ちるさま。私は知人の胆石の劇症発作を目の当たりに見たことがあるが、それは立っていられないほどの激しい激痛を伴ったケースで、「冷汗淋漓」はまさに実景であった。
「蜩(ひぐらし)」私がその鳴き声を偏愛する半翅(カメムシ)目同翅(ヨコバイ)亜目セミ上科セミ科セミ亜科ホソヒグラシ族ヒグラシ属ヒグラシ Tanna japonensis 。ここで主人公は「私の故郷には蜩はいなかった」と述べているが、これは主人公の(ひいては梅崎春生の)の誤認である(誤記憶或いは部分的健忘というべきか)。主人公の故郷は実は明示されていないのであるが、旅客切符の入手云々から有意に懸隔していることは判る。しかし、ヒグラシの生息域は北海道南部から奄美大島とほぼ本邦全域に棲息しているからである(主人公の故郷が北海道北部でもない限りはあり得ないということになる)。ウィキの「ヒグラシ」によれば、『広葉樹林やスギやヒノキの林に生息し、北海道から九州北部では平地から山地まで見られるが、九州南部以南ではやや標高の高い山地に生息する』とあるからである。生地福岡は街中ではあったが、その後の熊本五校、さらに東京での大学生時代を経、召集されてから九州を転々し、最後の桜島まで、蜩を聴く機会が偶然なかったとは考えられないからである。或いは、この蜩の音(ね)の亡失にこそ、梅崎春生の隠された海軍体験に於ける心傷(トラウマ)、病跡の一部が潜んでいるのかも知れない。]
蜩
夜が更けて戻って来ると玄関にまだ燈が点っていた。酔っているときの癖で私はわざと身体を扉にぶっつけ、手荒に引きあけようとすると、金属性の軋(きし)る音が幽(かす)かに鳴って錠(じょう)が既におろされているらしかった。離れにいるのかと思い庭を廻ると、暗い庭樹の茂みの蜘蛛の巣に触れたらしく、手首から掌にかけてねばねばしたものがからみついて来た。私は家人の名を呼んだ。燈影が動いて径子(みちこ)が縁側に出て来た。
「故郷(くに)から電報よ」靴を脱ぐ私の背中にそう言った。こんなとき酔って帰って来る私を非難する気持が、その語調にこめられていた。紐(ひも)を解くと私は片足ずつはねて靴を振り落した。靴は沓脱(くつぬぎ)から外れて落ち、湿った土に間抜けた音を立てた。
部屋に入ると机の上に、白く折畳んだ電報が置かれてあった。故郷の弟からの発信で、母が腹膜炎で入院し直ちに手術する予定の旨の電文である。膳(ぜん)の前に脚を投げ出し、膳にかぶせた新聞紙で私は掌の蜘蛛の糸をしきりに拭いた。拭いても拭いても粘っこい感じは消えなかった。私は明かに腹を立てていた。何物とも知れぬ遠くの形のないものに対して。酔いが僅かずつ醒めて来るらしく、後頭から首筋に鈍い痛みが貼りついて来た。
「腹膜炎ってどんなものなの」
「知らん。虫様突起炎が手遅れになると起るんだ」
「直ぐ金送らねば困るでしょう」
膳の上を整えながら径子が暗い顔でそう言った。暫(しばら)くして私は内ポケットから封筒を取出して畳にほうつた。
「五百円しか呉れなかった」不機嫌な声で私は言った。
「あそこは不愉快だ」
「だって飲んで来たくせに」と径子は低く短い声でわらった。虫や蚊が入るから窓はしめてあるのだが、本箱のうしろにでもひそんでいたらしい大きな燈取虫が飛び立ち、壁に堅い音を立ててぶっつかった。そして柳行李の上に落ちると何でもなかったようにカリカリ足音を立てて這い歩いた。故郷に戻るためには往復で千円近くの金が要ることを私はぼんやり考えていた。それに切符を手に入れるだけでも大変であった。それを考えながらも汽車にのって自分が帰ることはまだ実感としてはなかった。
「径子だけでも帰るか」
「この身体ではむりよ、きっと。お医者に相談しなくちゃ判らないけど」
病母は五十九になる。復員のとき暫く一緒に暮しただけでその後は逢っていない。一度帰郷したい思いは常にあるのだが、上京以来生活に追われてそれが果たせなかった。しかし今度は母も危ないのかも知れなかった。そのことは電報を一読した瞬間から重く心にからんでいたが、それよりも比重としても大きく胸に沈んで来るのは、それに必要な金を調達しなければならない苦労の予想の方であった。頭に残った酔いが変にこじれてかたまって行くのを感じながら、私は黙って貧しい膳のものをつつき始めていた。
翌朝まだ眠っているうちに電報が来た。
「胆石(たんせき)ですって」径子が枕許で私を呼び起した。「手術の経過もいいそうよ」
径子の声は少し弾んでいた。経過が良いのなら大急ぎで塀帰郷する必要だけはなくなった、ということが直ぐ頭に来た。重荷の一部だけほっと降した感じであった。そのことの方が手術の経過が良いことよりも私の心を明るくしているのに気付くと、私は一寸厭な気がして起き上った。電報を読むと、直ぐ金送れと末尾に添えられていた。故郷にも不時に備えた余分の金があろう筈もないのだから、日頃遠離して孝養の義務を果たさぬ私に代って、若い弟が色々心配している有様が頭にのぼって来た。此の想像はなにか苦痛であった。急いで送金してやればとて気持の負目が減じる訳でも無いだろうが、少しは申し訳が立つような気もして、あれこれ思い悩みながら朝食を摂っていると、四五粒ずつ御飯を口に運ぶような食べ方をしていた径子が、
「Q書店にお願いしたらどう?」
と、ぽつんと言った。金のことを言っているのだ。俺もそう思っていたんだ、と私も沈欝に答えた。さし当って借出せるのはQ以外にないことを私は昨夜から頭に置いていたのである。そしてそのことが重苦しく私の心を押しつけていたのだ。
終戦後書き溜めたものをまとめて冊子にするために、二箇月ほど前私は此の書店に原稿を渡していた。本になるということだけでも有難く、また編輯(へんしゅう)をやっている松坂氏への信頼もあって、条件は定めずすべて向う委(まか)せであったが、やはり生活に追われて二度ばかり私はQに赴いて前借を申込んでいた。そして申込んだ金額を二度ともQでは渋らず渡して呉れたが、金を受取ってとぼとぼ家に戻って来ると、私は何時も変に疲れていて、径子に手渡すときもひどく不機嫌になっていた。
「厭な思いで借りて来た金だぞ」
もう借りないぞ、もう借りないぞと私は自分に言い聞かせるように呟いていた。Qの主人も会計の人々も、決して私に不親切ではなかった。此の人達に厭な思いをしている訳では毛頭なかった。重苦しいのは、金を借りに行くときの意識の操作や受取るときの気持の状態なのであった。昨夜Qを思い浮べたときから私を憂欝にしているのは、初校も出ないのに三度目の借金を申込むそのことであった。そのときから私の気持の操作は既に始まっていると言ってよかった。
朝食後私は電話口の前に立った。受話器を把る前に私はもはや自分の気持が卑屈に歪んで来るのをはっきり感じていた。私は眼を閉じるような気持でダイアルを廻していた。
離れに戻って来ると後片付けをしていた径子に突慳貪((つっけんどん)にいった。
「主人は昨晩から留守だ」Q書房は個人経営だから主人がいないと金のことは判らないのだった。松坂氏は半月位前から脚気で休んでいるということで出て来た声は営業の人の声らしかった。私の名を聞いてから奥に聞きに行き、暫くして留守だという返事であった。その間私は堪えて待っていたのであった。向うが受話器をかける音を耳に収め私も電話を切った。黒い受話器は私の掌の汗で指の型に濡れていた。遠く蝉(せみ)の声が群り起っていて、今日も暑くなるらしかった。
母屋(おもや)に戻って私は部屋に寝ころんだ。眼をつむって暫(しばら)くじっとしていたが、やがて本箱から一冊の本を引つぱり出した。此の本は径子が身籠ったとき神田から買って来た通俗的な医療書であった。頁を寝ながら繰ると、はさまっていた一枚の写真が顔に落ちて来た。
見るとそれは私が海軍の応召兵士であった頃ある部隊で撮った記念撮影であった。その頃の自分の心境をまざまざと思い出すのが厭で、もうせん私がわざわざ写真帳から取除いて、しかし兵隊生活の唯一の写真だから捨てるのも惜しく、あり合せた本の中にはさみ込んでいたものだった。その本がこれであった。段々になった処に皆並んでいて、上段の一番端に私は立っていた。私は水兵帽を冠って眼鏡をかけていた。私に辛く当った若い兵長も、今見れば意外なほど幼い表情で私の側に立っているのであった。順々に並ぶ下士官や兵隊のおおむねを、気が付くと私は名前を想い出せなくなっていた。此の日から二年余経っていて、同じ隊員の名前すら記憶から薄れかけているのに、此処での自分の気持は鮮やかに今私に戻っていた。その記憶に堪えながら私は写真を本箱のうしろに押し込んでいた。
此の部隊に居た頃、毎晩巡検後の野蛮な制裁から免れようとして、私は年が半分ほどの若い兵長たちに見苦しい阿諛(あゆ)を試み、風呂で背中を流してやったり、支給された菓子をそっと献上したりしていた。そんなときでも私は相手に阿諛だと悟られないために、自分は甘いものが嫌いだからと言い訳をしたりした。私は一日中そんな事はかりに気を使っていたのだ。それでも私は制裁を免れる訳には行かなかった。ただ外の兵隊より尻に受ける棒の数が一本か二本か少いだけであった。その一本をかせぐために、強いて眼を閉じて私は陋劣(ろうれつ)な心境に落ちていたのであった。ただ棒一本の苦痛の軽減をはかるために!
私は頭を強く振ってその記憶を追い出しながら、頁を繰って胆石の項を開いた。今朝径子が胆石よと言った口調の弾みが、胆石なら安心だという錯覚を私に起させていたのであった。勿論腹膜に比べれば安心に決っていたが、此の説明の具合では必ずしもそうではなかった。胆石のレントゲン写真があって、淡黝(うすぐろ)い内臓の形の中にひときわ濃く黒い粒々がかたまっていた。それは四足獣の足跡にも似ていたし松毬(まつかさ)の形にも似ていた。眺めていると多数の結石を包み込んだ胆囊の薄い皮が感じられた。それから説明の方に視線をうつして、一字ずつ丹念に読んで行った。
「……初メハ悪寒、嘔吐、全身倦怠ガアリ次デ疝痛(せんつう)様ノ発作ヲ起シ……ソノ疼痛ハ上腹部右側ニ存在シ次デ肩ニ或ハ背部ニ放散シ、冷汗淋漓(りんり)トシテ卒倒痙攣(けいれん)ヲ起シ……」
息苦しく此処までたどって来たとき、突然冷汗にしたたか濡れた老母の顔がまざまざと脳裡に浮んで来た。枕に埋めた老母の小さく瘦せた顔貌は、蒼ざめて落窪んだ眼を閉じていた。その想像の中に不安気にのぞきこんでいる若い弟の顔が加わった。
「原因トシテハ運動不足、精神感動、胃腸ノ障碍(しょうがい)等ニヨル……」
精神感動とは何だろう。何とも言えず不安になって私は自然に起き上っていた。精神感動という言葉を、私はそのとき心痛というほどの意味に置換えて受取っていた。一箇月程前に来た老母の手紙では、家主から明渡しを迫られて因っていること、家計費がかさむので長持の中から少しずつ売りに出しもほやいくらも残っていないことが書かれてあった。それは私を責める言葉ではなかった。ただ近況をそのまま知らせる文章だった。そして、それだから困るとか、行末が心配だという文字は何処にもなかった。それだけにそれを読んだとき、私はひどく参っていたのだった。径子に読ませるのが何か辛く、私はその手紙を机の抽出の奥に押込んでいたのだが、それは身籠った妻を心配させるのが辛いからではなかった。生活力が薄弱なために私が老母をこんな状態においていることを知られるのが、何となく厭だったのである。径子は今年初め私と一緒になった。だから私の故郷も見知らないし、私の老母にも逢ったことがない。だから私の説明を通じてしか、それらのものを知っていなかった。私は径子に説明するときは、それらを非常に歪形(わいけい)して話していた。それはそれでいいのかも知れなかった。しかし時とすると私は径子の心に造形された私の故郷を思って、ふとやり切れなく不安になって来るのであった。
昼の間三度軽電話をかけた。主人が戻って来ても又すぐ出かけるかも知れないと思うと何だかいても立ってもいられない気がして電話口に立った。どうせ味わねばならぬ苦痛なら早く済ましてしまった方が良いという気持で主人と電話の二三分の会話を、私はあせって捕えたがっていた。三度目の電話では夜になればきっと戻るという話であった。ところが夜になってまた掛けると今度は別の男の声でまだ主人は帰って来ないという返事だった。どちらにいらっしゃったのかと訊ねると、さあどちらですか、などとひどく冷淡な調子であった。何時戻るのかもはっきりしないという風(ふう)だった。昼の話とは少し違っていた。
先刻の電話で私は大体の用向きを既に伝えていたのである。主人が戻ったらその旨伝えて呉れるよう頼んで置いたのだが、或いはそれで警戒されてしまったのではないかという疑念がふと私を捕えた。しかしそれは根もない疑念であった。一度会ったQ書店の主人の印象では、そんなことをする人物ではあり得なかった。また出版社としても堅実な店だから、私の無心を警戒するほど財政に困っている筈が無かった。しかし今の私にはその疑念を打消そうとすることが、かえってそれを育てるような形になって来ていた。意識しながらも私は何時もの奇妙な暗い心理に陥りかけていた。金を借出すための意識の浪費が私は厭だったのだけれども、更にこわいのは私を待ち伏せているそんな暗い罠であった。大学生の頃駒込の愛静館という下宿にいて私はある夜椅子を振上げて下宿の女主人を殴り、そして暫く留置場に入れられたことがあった。
私は少しばかり下宿料を溜めていた。そしてその程度なら、私の友達も皆溜めていたのだ。けれども私はそれにこだわっていた。何でもないことは知っていながら、私はそれにこだわらずには居られなかった。私は女将(おかみ)や女中の一挙一動を、病的な鋭さで計量していた。下宿料の件で彼女たちが私を憎むとか差別待遇するとか、そんなことは決してあり得ないことを、そのときもはっきり私は頭で知っていたのである。それにも拘らず私はその妄想かち逃れることが出来なかったのだ。むしろその妄想の決をつけたいために、私は強制されたように女主人を負傷させたのだと言つていい位だった。その頃から私の神経には何かそんな暗い弱さがあって、それが私の劣弱感と緊密につながっていた。
電話に出た男の冷淡な口調が変に私に傷をつけて来たのだ。明朝また掛けますから、と私は言って電話を切った。不快にたかぶるものがあって、足音荒く私は部屋に戻って来た。
此の頃私は無理な仕事はかりやっていた。二人で生活する費用をつくるために、徹夜して書いたものを読み返しもせず眼をつむって金に代えていた。昨夜渡したのもそんなやくざな作品のひとつだった。その小さな社は加納という友人が編集をやっていて、少しは無理も利く筈であったのだ。原稿を手渡すとき私は加納に、あまり自信のあるものじゃないから原稿料は約束よりも安くて良いよ、などと余計なことを言った。加納は私を馬鹿にしたような顔付でにやにや笑ったが、私としてはその言葉は半ばは本音でもあつたのである。あとの半ばは、引替えに稿料を呉れと言うことの口実でもあったけれども。
今直ぐは出来ないが四時頃来て呉れという話なので、私がまた改めてその時間に来て見ると、既に加納はいなかったのだ。女の子に聞くと印刷所の方で慰労会があるのでそちらに出かけたと言う。私への伝言は何もなかった。私は少し腹を立てて慰労会の場所を訊ね、そしてそちらに廻った。もともと加納にはそんな無神経な所は昔からあったけれども、此の場合私が感じ取ったのは明かに悪意に似たものであった。今日持って帰らねば生活に困る金であった。そのことは冗談めかしてではあったが先刻加納に話して置いた。私は加納に会って今日の不誠意をなじり、そして約束の金を受取るつもりでいた。
印刷所に行ってみると工員たちの中に入って加納は良い気持になっていた。私を見ると一寸困ったような顔をしたが直ぐコップに飲物をもって来て私にすすめ、そしてあわててポケットから五百円出して私に渡し取敢えず之だけで辛抱して呉れと言った。面詰するつもりで行ったのに私はぐずぐずとそれを受取り、そして意地汚なくアルコオルの誘いに負けてしまっていた。
昨夜の此の卑屈に妥協した気持が、今堪え難くよみがえって来た。それは明かにQ書店の冷淡な男の語調がその厭な記憶を誘発したには違いなかったが、昨夜飲んでいるときでもそんな自分を嫌悪する気持は絶えず起っていたのである。ただそんな気持を意識して押潰し自分を胡麻化(ごまか)していたのだ。家に戻って掌に蜘蛛の巣をからめたとき、私は無闇に腹立たしく新聞紙でごしごし拭き取っていたが、そこに尾を引くものは矢張り印刷所での私の意識だった。印刷所の一隅にある製本場の板の間で、四五十人の人間が目白押しにすわって酒を飲んでいた。加納のいる場所は入口に一番近いところで、私の膝を入れる余地もないのだから、私は入口の土間に脱ぎすてられた下駄に腰をおろし、そしてコップを傾けていた。一年ほど前私はその頃の勤務の関係で此の印刷所とは割に親しくしていたが、それにしても今日は招かれた訳ではないのだから、こうして宴に加わっている私を人々が不審な眼で眺めるらしかった。変な気がねを感じながらも私は立ちそびれ、また飲んでしまえばどうなってもいいや、など考えながら土間に腰を落ちつけていた。今夜は社長が工員をねぎらうための宴らしく、加納ですらも便乗の形を取っている証拠には入口近くの末席にいて、私に廻すコップも何か気兼する風であった。座が乱れて来るにしたがって、私に廻るコップの数も重なり、欝屈したものを払う気持で強いて私は強い液体をつづけさまに咽喉(のど)に流し込んでいた。一夜の酔いにもかえがたい悔恨を後で感じることが判っているにも拘らず、何故私はこんな下司(げす)な振舞酒に酔ってしまうのだろう。しかも皆が板の間で飲んでいるとき私一人が乞食のように土間にすわって!
昨夜径子に渡したのはそのような五百円なのだった。これも数日の生計を支えるだけで、あとは気持を殺して残余を受取りに行くか、または夜を徹してやくざな製作に従事する以外になかった。全く近頃の生計は底無沼に似ていた。いくら金を注ぎ込んでも手ごたえがなかった。仕方がないことだと判っていながらも時に私は発作的に腹を立て、去年の今頃は私一人で月に四五百円位で生活していたんだぞ、などと径子に厭味を言ったりした。今のように、やくざな製作ばかりしなければならないのもお前と一緒になったせいだと、そんな意味を含めているのであった。そんなとき私の言葉が募(つの)ると、径子は蒼白く黙り込んで離れの方に立って行き、障子の蔭で何時までも泣いていた。後に残されて私はしらじらとすわり、僅かな金のことが私を傷つけ人々の関係を傷つけていることに、にがく心を走らせるのだった。軍隊にいるときもそうであった。肉体的苦痛から少しでも逃れるために、同じ境遇の老兵同士ですら武装し合って対立していた。今の場合はそれが金になっていた。加納に対しても老母に対しても、そして径子に対しても、その間で私が傷ついているのは皆このためだった。
しかし傷ついているのは私だけである筈がなかった。径子は既に身籠っている身体だった。それを思うと、ある予感が私の心を寒くして来た。
今日はお前がQに電話するように、と径子に言い残して私は出かけて行った。東京駅に来て見ると暑い日盛りの中を新聞紙をかむったり舗道に腰を下したりした行列が、延延と八重洲口に連なっていた。切符を手に入れるためにはこの炎暑に長いこと立たねばならぬことは、此処に来ずとも私には判っている筈だった。それだのに此処に見に来たというのも、自らの口でQと連絡したくない気持がはっきり動いていた。その癖早く送金しなければといらだつものは充分にあって、それが口実をつけて径子を矢面に立たせることを私に思い付かせたのだ。切符を求める気持も金もなかったが、私はひとわたり切符売場などを眺めて歩いたりした。
夕昏(ゆうぐれ)私が戻って来ると、電燈も点けぬ薄暗い離れで径子はうつむいて産衣(うぶぎ)を縫っていた。径子の手が動く度に白い産衣は生き物のようにゆるやかに形を変えた。部屋に上るなり私は訊ねた。
「Qでは何と言った」
「まだ主人が戻らないと言うのよ」
変に疲れた、物憂い返事であった。上げた眼が妙にキラキラ光っていた。
「今日は戻ると言ってたじゃないか」
「だって向うでそう言うんですもの」
「何度かけたんだ」私は少し声を荒くした。
何時と何時にと、径子はゆっくり指を折った。
「こちらが名前を言うと、直ぐ留守だと返事するのよ」
一日中歩き廻って私は疲れていて、径子の言葉の内容がすぐ鋭く神経にひびいて来た。汗がべたべた皮膚に粘っていて、じつとしていると窒息しそうな気がした。私は黙りこくつて服を脱いだ。庭の樹の上でそのとき蜩(ひぐらし)が鋭く鳴いた。「あれ蜩よ」径子はうつむいたまま言った。蜩の鳴声を私は今年始めてそれと知ったのも、東京生れの径子から教わったものであった。私の故郷には蜩はいなかった。東京に出て以来蝉が鳴くような地区に住んだことがなくて、それでも時々道を歩いているときなどに此の鳴声を聞き、私は何か他の虫の鳴声かと思っていたのだ。これが蜩だと知ったのは、一箇月程前始めて蜩が此の庭に来たときであった。近くで聞く蜩は変にギスギスした神経的な乾いた声だった。それは心を脅やかすような不快な響きを持っていた。私は時には堪えかねて庭に降り、樹の幹をゆすってそれを追い立てたりした。此の庭樹の多い家に移り住んだのも、私は径子と一緒になってからであった。母屋の一部と離れの一部屋が私達の住居だった。母屋の他の部星には他の家族が住んでいた。電話機は両方で共同に使用している部屋についていた。
「何度も何度もお金のことで電話をかけて、聞かれるのが辛い」
縫物を片付けながら径子が独語のようにつぶやいた。
故郷の病院のことが次第に辛く私の頭を満たし始めていた。良い病院ならいいけれどももし営利一点張のそれなら、払いが悪けれは待遇を変えるようなこともあるかも知れない。それでなくても弟は若いのだから、金が無いことに図太くなれずあれこれ心を砕いているに違いない。あちこち金策の方途は考えているだろうけれども、弟が先ず一番あてにしているのは私であることは確かであった。何時も私が冷淡に老母を放っているものだから、こんな危急の際にこそ形をつけて貰いたいと、弟は看護疲れでいらいらしながら思うかも知れなかった。ところが電報が来て二日経つのだけれども、その間私が試みた不快な気持の努力というものは何一つ実を結ばずに、私を疲労させるに止っていた。それもQの主人が不在だという一点にかかっていることを思えば、私には何ものかに摑みかかって行きたいような焦躁が湧き上って来た。Qの主人がいないということ、そのことも径子の電話のかけ方が悪かったせいのような気がして私は夏瘦せのため肩の線が貧しくなった径子の姿に低い声で言った。
「明朝手紙を書くから、Qに持って行くんだ」私の声は白い壁に吸われて、ふと冷酷にひびいた。径子はすこし身じろぎをしたが、何とも返事をしなかった。蜩の声だけが機械の軋(きし)むような響きで此の部屋に落ちて来た。
私が書いた手紙を持って朝八時頃径子は出て行った。緑色の夏服と白いスカアトで、径子が持っている唯一の夏衣裳であった。腹のふくらみはかくし終せない程目立っていて、それが径子の稚ない感じの容貌には妙に不似合な感じであった。
「主人がいなくても誰かに必ず渡して読んで貰うんだよ。そのまま持って帰るんじゃないよ。判ったな」
径子は子供のようにこっくりして、やがて石畳を踏む跫音(あしおと)が門の方に遠ざかって行った。
径子から預った配給手帳を重ねて持ち、暫(しばら)くして私は自分の部屋に入って行った。一晩中閉め切っていた部屋は淀んだ空気の臭いがして、もはやじりじりした暑気がこもり始めていた。私は窓をひとつひとつ開きながら、ふと今が電車の通勤時間であることを考えていた。あの満員電車の人と人との間に強くはさまれながら、腹を保護しようと心を使っている径子の姿を私は思うのだった。それから私はQ書店の玄関を思い浮べた。それは屋敷風の建物で、伸び過ぎた植込みのために玄関は青暗かった。私の想像の中で径子はひっそりと玄関の土間に立っていた。手には私の手紙を大事そうに持って。
私は机の前にすわった。机の上には白い原稿紙とペン皿がきちんと置かれてあった。あの手紙は今朝ここで書いたものであった。その手紙の中で私は今の事情をくわしく書き、そして是非いくばくか都合して呉れるよう結んでいた。文章に気をつけて書いたつもりであったけれども、読み返してみると卑屈な哀願の調子の中に明かに相手をなじる口調が何処となく浮んでいた。しかし私は書直さないで封筒に入れ宛名に主人の姓名を書きつけた。そしてまた思い直してQ書店主人殿と書替えていた。
「こんな具合に一日一日過ぎて行くんだな」
あの海軍の生活でも、そこでの日課や人々の風貌は次第に私の記憶から遠ざかり始めていた。それにもかかわらず私がそこで生きていた気持の姿勢だけは、日が経つにつれて傷痕のように私の記憶に深く刻みこまれて行くらしかった。ある時期をそんな心境で生きていたということが、年が経つにつれてますます鮮やかに心を刺激して行くものらしかった。今の此の生活にしても、十年も経ては事柄そのものは淡雪のように記憶から解けてしまっているだろうけれども、僅かな金銭のために卑屈に心を歪めたことは、必ずはっきりした形で残っているに違いなかった。そのような一日一日を今過しているということが、私は堪え難くいきどおろしいことに感じられた。
机についた肱(ひじ)から既に汗が滲み出て来始めた。私はペンを取上げた。私の瞼のうらに再びあの青暗い土間に立ちすくんでいる身籠った径子の姿をちらちら思い浮べていたのだ。そして私はそのときしきりに次のような言葉をつぶやいていた。
「――危い。危いな」
何が危いのか、それはよく判らなかった。追い出すように径子をQ書店に赴かせたこと、それが今暑苦しい部屋にすわっている私の気持を駆っていた。一枚の影になって径子はQ書店の玄関に入って行くだろう。明かにそれと目立つ腹をかかえ、重そうに肩で呼吸をつづけながら。怒りに似たものが静かに私に拡がり始めていた。そしてそれが正しい怒りでなく何処か歪んだものであることを、私は遠くぼんやり感じていた。何か形の無いものが次第に濃く私に脅えた影を投げ始めていた。危機の予感が背筋を冷たくした。ペンの先を机の肌にぎりぎり突立てながら、そのままの姿勢で暫く私はじっとしていた。