佐渡怪談藻鹽草 荻野何某怪異の火を見る事
荻野何某怪異の火を見る事
元文年中ならん、三宅正順【外療醫師】語りしは、
「今より三代以前の荻野善左衞門澁手(しぶて)之浦目付たりし時、獵を好みて、公用の暇には、爰(こゝ)かしこ、鐵砲を携へ歩行(ありきゆき)しが、或時神無月の初め、冬日和に浮れて、例の鐵砲を携へ、朝とく立出、靑野山田村邊をめぐり、さしたる獵迚(とて)もなく、雉子二ツ三ツ打(うち)て、暮にかゝり、川原田(かわはらだ)町へ出、澁手へ歸る道すがら、本町のなかばを過(すぎ)て、初夜とも覺ゆる頃、とある山手の家を見込(みこ)しが、門の戸明け放し、家内は、日待抔(など)とおぼしくて、宿衣かけたる人も多く見えて、三味の音など興深く聞ゆ。暫く立やすらひて、見居たるに、門口近き内庭より、茶碗の丸さ程成(なる)火一ツ、町へ飛出(ちびいで)て、向ふの小路へ轉入(まろげいり)、濱邊をさして、轉び行ければ、何心なく跡へ續きて、追ふて見れば、猶々、其火、地を走りて、濱へつい出(いで)、八幡濱の方へ、轉び行を、善左衞門も、隙(すき)なく追ふて、餘り精魂つかれぬれば、暫く砂地に座して、息を休(やすむ)るに、火も又止(とま)りて、休むが如くなれば、
『何條追(おひ)つかで有(ある)べきか』
と、鐵砲のかるかを拔出(ぬきいだ)し、
『引(ひき)そばめて、間近くならば打(うた)ん』
と構へて追掛(おひかけ)たり。既に國府(こうの)川近く成(なる)程に、其火、往還へよぎり登れば、善左衞門も、同じく是を追ひ、橋を渡りて、件(くだん)の火、又濱邊へ出たり。
『何國までも』
と追ふ程に四日町村程より、火、又村の方へ登り、背戸畑のくねを越(こえ)て行(ゆく)程に、跡より透間(すきま)なく追(おひ)て、とある家の軒下迄追詰(おひつめ)、かのかるかを以て打碎(うちくだか)んとすれば、其火つと飛(とん)で、ふせ家の窓より飛入(とびいり)たり。善左衞門忙然として、あきれ居たりしが、家内に老人の聲して、ゑといわんかたなく、おそわれ聲の聞ゆれば、女の聲して、
『祖父樣祖父樣』
と數度呼起(おこ)すにぞ、人心地付(ひとごこちつき)たる體(てい)にて、
『やれやれ子共よ、おそろしき事も有もの哉(かな)。既に命も危き所、呼起されて蘇生したわ』
といへば、子共と思しき聲々にて、
『祖父さま、何と被成(なされ)候ぞ』
と尋(たづね)しかば、老人答へけるは、
『夢ともなく、現(うつゝ)ともなく、今日の暮方より、川原田町の何某(なにがし)方へ、日待(ひまち)に行しに、客も大勢にて、餠酒のもてなしもさまざまに、淨瑠璃に小歌抔(など)、面白く聞(きゝ)居しが、小用を足さんと門口へ出(いで)、濱手の小路へ行(ゆく)やいな、慥(たしか)に、澁手の浦目付樣、跡より鐵砲を以て、追掛給ふ。是はと驚き、逃まどひ、漸々(やうやう)と遁れ、爰(こゝ)の軒端迄追掛來り給ふ處、詮方なく、窓より飛入りしと覺えしが、扨々(さてさて)、息も切果(きりはて)たり。水ひとつ呉(くれ)よ』
といふを聞(きく)に、一ツも有(あり)しに違(たが)わず。されば空恐しく、胸せかれて、急ぎ其(その)所を退きつゝ、一さんに澁手へ歸りしが、
『必(かならず)よい若き物は、かゝる噺(はなし)を後學にせよ。思わずも、人の命を取(とり)なんとせしぞ』
と語られし」
となむ。
[やぶちゃん注:「元文年中」一七三六年から一七四〇年。第八代将軍徳川吉宗の治世。
「外療醫師」「がいりやういし(がいりょういし)」。外科医。佐渡金山のことを考えると、すこぶる必要なる医師である。
「澁手(しぶて)之浦目付」真野湾奥の右手(南東部)。旧真野町、現在の佐渡市豊田(港がある)。戦国時代には渋手城が置かれた。そこの海上警備担当の主任クラスであろう。
「靑野山田村」渋手とは正反対の真野湾奧の北の山手(旧佐和田町内)で、東から西へ山田と青野の地名が今も残る。
「川原田(かわはらだ)町」これは真野湾湾奧のやや北の海岸近くの、現在の新潟県佐渡市河原田諏訪町附近と思われる
「本町」現在、同前の河原田諏訪町の南沿岸に接する形で河原田本町がある。
「初夜」夜を三分した最初の時間を指し、現在のほぼ午後六時から十時頃に当たるが、ここはその始め、午後六時過ぎ。時期は前に旧暦「神無月の初め」とあるので、もうとっぷりと暮れている頃である。
「見込(みこ)しが」(宴会を開いているので)耳目に入って目立った故にその家の方を思わず見つめたところ。
「日待」後で「ひまち」とルビを振る。民間行事風俗の一つで、本来は前夜から潔斎して翌朝の日の出を拝むことを差し特に正月・五月・九月の吉日を選んで行う行事を指したが、それを待つ間の退屈凌ぎに皆で集まって飲食をともにし、歌舞音曲を楽しむことも多く、結果、その遊興・宴会の方が主体となったものである。
「宿衣」「しゆくえ(しゅくえ)」で(「しゅくい」とも読む)、原義は内裏 に宿直(とのい)する際の略服。直衣(のうし)・衣冠・狩衣 (かりぎぬ)・水干の類いの宿直装束 (とのいそうぞく)を指す。ここはまあ、形の上だけでも正式なそれに似たものを着ている者が有意にはいたのであろう。といっても、しゃっちょこばった感じではあるまい。
「八幡濱」先に示した河原田本町の南沿岸には、これまた、八幡町が現存する。
「隙(すき)なく」距離が開かぬように注意して。
「何條追(おひ)つかで有(ある)べきか」「何條」は「なんでふ」の当て字。副詞で反語。「どうしてあの怪しい火の玉のに追いつけないなんてことがあろうものか! いや、きっと追いついて捕っつかまえてやるッツ!」。
「かるか」先込めの鉄砲(前装式古式銃:筒先から弾薬を込めるタイプ)で銃身に弾丸弾薬を装塡したり、銃身を掃除したりする際に用いる鉄製の細長い棒。「槊杖(さくじょう)」とも呼ぶ。不思議な呼称はポルトガル語の“calcador” からともいう。“calcador”とは「押さえ」で、特に歯科で用いる探針(Explorer エキスプローラー:口腔内診査用の器具で汚物除去や虫歯の窩の深さ、大きさ、歯髄の有無などの診査等に使用する器具)のこと。
「拔出(ぬきいだ)し」直後に『引(ひき)そばめて、間近くならば打(うた)ん』と言っているから弾薬を既に装填し終えてあるのである。
「國府(こうの)川」先の八幡町から更に海岸線を南東に辿ったところに流れている。ここに出る地名は事実と何の矛盾もなく完全に一致して書かれているのである。
近く成(なる)程に、其火、往還へよぎり登れば、この辺り、やや内陸に街道が通っていたのであろう(現在の国道三百五十号もかなり内陸側を走っている)。
「何國までも」「いづくにまでも」。大袈裟に見えるが、怪火の正体を知ろうとする善左衞門の強い意志の表明である。
「四日町村」国府川を東南へ渡った一帯が今も佐渡市四日町として残る。
「村の方へ登り」当時の四日町の中心は内陸に沿岸よりも有意に高い内陸にあったのであろう。現在の国土地理院地図からもそれは窺える。
「背戸畑」「せどばた」。家の裏手に拵えた畑。
「くね」垣根。竹垣や生け垣など。
「つと」副詞で「ある動作を素早く或いはいきなり行うさま。さっと。急に。不意に。
「ふせ家」「伏せ屋」。屋根の低い小さな家。粗末な家。みすぼらしい家。
「忙然」茫然・呆然・惘然に同じい。気抜けがしている様子。鉄砲で妖しい火の玉を撃ち落そうと満を持していたので、意外な展開に拍子抜けしたのである。
「ゑといわんかたなく」「ゑ」は一応、嘆息のオノマトペイア(擬音語)でとっておく。或いは「え~(なく)」で呼応の副詞として「とても言いようもないほどに(不気味に)」の意で用いているのかも知れぬ。
「おそわれ聲」不意に何かに攻め襲われたような感じの殺気立った声。
「祖父樣」「じいさま」。
「子共」「子供」。
「餠酒」「もち・さけ」。
「行(ゆく)やいな」「行くや否や」と同義。
「よい若き物」聡明なる若者ら。]

