佐渡怪談藻鹽草 名畫の奇瑞有事
名畫の奇瑞有事
何れの頃にか有(あり)けん。水津(すいつ)村の𢌞船宿、何某(なにがし)が方に、攝州神戸(こうべ)浦の船頭、日和待(ひよりまち)して有しが、亭主申(まうし)けるは、
「此(この)間某(それがし)が枕もと元に建(たて)給ふ古き二枚屛風の繪、所望候、平生建(たて)給ふなれば、さして大切なる御道具とも、見へず候儘、申す也」
と語れば、あるじ何心なく、
「成程、古き屛風の繪なれば、おしみ申事夢無之(まうすことゆめこれなし)。下地ともに、進じ申べし」
とて、遣しぬ。船頭嬉しげとて、船に積(つみ)て、程なく出船しぬ。明年、また來りて、金子差出し、
「是は去年申請(まうしうけ)し屛風の謝禮にて候」
とてくれぬ。亭主打(うち)驚き、
「さしも古き屛風の禮にとて、過分の禮物、いたみ入(いり)候」
迚(とて)、皆々辭退して、請(うけ)ざりしが、船頭
「さらば、繪の事ざんげ申べし。去年入津の折柄、枕に屛風を建られしに、某(それがし)晝寢して、寢もせず覺(おぼえ)もやらぬに、猫來りて、枕元にて狂ひしを能(よく)見れば、牡丹に遊ぶ蝶の繪に飛(とび)かゝり飛かゝり、眞顏に狂ひしをもつて、我も若年より少し繪の心あれば、望みて國にもて行(ゆき)、目利者を賴み、目利を乞(こふ)に、
『名畫に紛れなし。金五兩に買(かひ)とらん』
と乞ふ。賣(うり)惜しくは思へど、筆者もさだかならざれば、又目利も覺束なく、幸(さいはひ)と思ひて、賣(うり)て遣わしぬ。餘りに罪深く候まゝ、壱兩は謝禮にと、いたして來れば、心安く請(うけ)給へ」
といへば、興ざめながら、
「さらば」
迚請(うけ)ぬ。巨勢(こせ)の金岡が、はね馬の障子の繪に名をあらわせしためしもあれば、それらの名畫にやあるとあやし。
[やぶちゃん注:「水津(すいつ)」小佐渡の北東端に当たる佐渡市水津。現在の姫崎(ひめざき)灯台のある段丘下に位置する天然の良港で、近世は前浜海岸(水津地区の南方の佐渡市片野尾附近の海岸線。本州に面しているところからこの名がついた)の西廻(にしまわり)海運の寄港地として海上警備のために浦目付番所が置かれた。当時の出船・入り船を仕切った廻船(かいせん)問屋がいまも残されている。両津湾東海岸の景勝地でもある(小学館「日本大百科全書」に拠る)。
「攝州神戸(こうべ)浦」現在の兵庫県神戸市神戸港。当時は「兵庫津」などとも呼称した。ウィキの「神戸港」によれば、『西廻り航路の北前船や内海船の要港、朝鮮通信使の寄港地として栄えて』、江戸時代、既に『一万人前後の人口を誇』ったとある。
「日和待(ひよりまち)」航行によい日和になるのを港(或いは島陰)で待つこと。
「下地」「したぢ」。屏風下地(びょうぶしたじ)のこと。絵を貼り、また全体を屏風として固定するための木の組み枠や格子のこと。
「嬉しげとて」如何にも嬉しそうな様子で。
「禮物」「れいもつ」と読んでおく。
「ざんげ」「懺悔」。
「寢もせず覺(おぼえ)もやらぬに」眠り込んでしまうわけでもなく、といってすっかり目が醒めているわけでもない、うつらうつらとしておったところが。
「狂ひしを」狂ったように暴れているのを。
「目利者」「めききもの」。書画の鑑定人。
「目利も覺束なく」私自身の鑑定眼も当てにはならぬによって。落款や署名があれば、私でもその目利きの鑑定の真偽のほどを見定め、この申し料(鑑定金額)を断わって、もっと良い値で売ることをも考えもしたであろうが、という含みを持つものであろう。
「興ざめながら」亭主が白けたのは、嗜好に合ったものと心得て好意で無料で譲ったものを売ってしまったこと、さらには五両で売ったのであれば、せめても半金は謝礼に出してよかろうとも、思ったものかも知れぬ。
「巨勢(こせ)の金岡が、はね馬の障子の繪に名をあらわせしためし」巨勢金岡(こせのかなおか 生没年未詳)は九世紀後半の伝説的な名画家。宇多天皇や藤原基経・菅原道真・紀長谷雄といった政治家・文人との交流も盛んであった。道真の「菅家文草」によれば、造園にも才能を発揮し、貞観一〇(八六八)年から同一四(八七二)年にかけては、神泉苑の作庭を指導したことが記されている。大和絵の確立者とされるものの、真筆は現存しない。仁和寺御室で彼は壁画に馬を描いたが、夜な夜なその馬が壁から抜け出て田の稲を食い荒らすと噂され、事実、朝になると壁画の馬の足が汚れていた。そこで画の馬の眼を刳り抜いたところ、田荒らしがなくなったという話が伝わる。ここはそれを言ったもの。他にも、金岡が熊野参詣の途中の藤白坂で一人の童子と出会ったが、その少年が絵の描き比べをしよう、という。金岡は松に鶯を、童子は松に鴉を描き、そうしてそれぞれの描いた鳥を手でもってうち払う仕草をした。すると二羽ともに絵から抜け出して飛んでいったが、童子が鴉を呼ぶと飛んで来て、絵の中に再び納まった。金岡の鶯は戻らず、彼は悔しさのあまり筆を松の根本に投げ捨てた。その松は後々まで筆捨松と呼ばれ、実はその童子は熊野権現の化身であったというエピソードなども今に伝わる。
「それらの名畫にやあるとあやし」そういった類いの、無名者の超絶技巧の絵ででもあったものか、と不思議に思った。]